ヨハネの福音書

ヨハネの福音書第2章第1節~第12節:カナの婚礼

第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Wedding at Cana

カナの婚礼


1 The next day there was a wedding celebration in the village of Cana in Galilee. Jesus’ mother was there,

1 次の日、ガリラヤ地方のカナの村で婚礼があり、イエスさまの母がそこにいました。

2 and Jesus and his disciples were also invited to the celebration.

2 イエスさまと弟子たちも、その婚礼に招かれていました。

3 The wine supply ran out during the festivities, so Jesus’ mother told him, “They have no more wine.”

3 お祝いの途中で、ぶどう酒がなくなったので、イエスさまの母がイエスさまに言いました。「もうぶどう酒がありません。」

4 “Dear woman, that’s not our problem,” Jesus replied. “My time has not yet come.”

4 イエスさまが答えて言いました。「ご婦人、それは私たちの問題ではありません。私の時はまだ来ていないのです。」

5 But his mother told the servants, “Do whatever he tells you.”

5 だがイエスさまの母は手伝いの人たちに言いました。「この人が言うことを、何でもしてあげてください。」

6 Standing nearby were six stone water jars, used for Jewish ceremonial washing. Each could hold twenty to thirty gallons.

6 そのすぐ近くに石の水がめが六つ置いてありました。ユダヤ人の清めの儀式のためのものです。それぞれの水がめに80~120リットルは入ります。

7 Jesus told the servants, “Fill the jars with water.” When the jars had been filled,

7 イエスさまは手伝いの人たちに言いました。「水がめに水を満たしなさい。」水がめがいっぱいになると、

8 he said, “Now dip some out, and take it to the master of ceremonies.” So the servants followed his instructions.

8 イエスさまは言いました。「さあ、汲み出しなさい。それを宴会の主人のところへ持って行きなさい。」そこで手伝いの人たちはイエスさまの指示に従いました。

9 When the master of ceremonies tasted the water that was now wine, not knowing where it had come from (though, of course, the servants knew), he called the bridegroom over.

9 宴会の主人が水を味わうと、それがぶどう酒に変わっていたので、それがどこから来たのか、知らなかったので(もちろん、手伝いの者たちは知っていましたが)、花婿を呼び寄せました。

10 “A host always serves the best wine first,” he said. “Then, when everyone has had a lot to drink, he brings out the less expensive wine. But you have kept the best until now!”

10 主人は言いました。「主催者はいつも最良のぶどう酒を最初に出すものだ。やがてみなが十分飲んだころになると、やや値打ちの低いぶどう主を出してくる。だがあなたは最上のものを今の時点まで取っておいたのですね。」

11 This miraculous sign at Cana in Galilee was the first time Jesus revealed his glory. And his disciples believed in him.

11 ガリラヤ地方のカナで行われたこの奇跡のしるしは、イエスさまがご自分の栄光を現わされた最初のことでした。弟子たちはイエスさまを信じました。

12 After the wedding he went to Capernaum for a few days with his mother, his brothers, and his disciples.

12 婚礼の後でイエスさまは母や兄弟たちや弟子たちといっしょにカペナウムに行き、数日滞在しました。




ミニミニ解説

ヨハネの第2章です。

第2章はカナの村から始まります。カナはガリラヤ湖の西、20kmあたりにあったとされます。 第1章はベタニヤと言うエルサレムから東へ15kmほどの場所からスタートしました。イスラエルの南部のユダヤ地方です。イエスさまはユダヤ地方で最初の弟子と出会った後、それから北へ100kmほどの旅をしてカナの村に到達したことになります。

そのカナの村で婚礼が行われます。イエスさまの時代のユダヤ人の結婚は、長いときには一週間にも及ぶお祭りだったそうで、婚礼の期間の間、新郎新婦の門出を祝うためにたくさんの来賓が訪れます。 町や村で婚礼があると往々にして町全体の人が招かれるのだそうで、町中から誰もがお祝いに来るわけです。逆に招かれているのにお祝いに出向かないことはしきたりに反し、侮辱行為と受け取られてしまいます。

婚礼はそれだけの期間にわたって大勢の人をもてなす、共同体の中で重要な意味を持つ儀式なのですから、婚礼の祝宴の計画は周到に立てなければなりません。 だとすると途中でぶどう酒が切れてしまうという事態は、「あら、ぶどう酒がきれちゃったわ」というような、ちょっとした困り事レベルの出来事ではないはずで、イエスさまの母親(つまりマリア)が、この婚礼を催す家とどういう関係にあったのかは明らかではありませんが、主催者はユダヤのしきたり違反、あるいは律法違反とさえ言われかねないほどの大変困難な局面に立たされていたことになります。 第11節によるとイエスさまが水をぶどう酒に変えた出来事は、イエスさまの最初の奇跡だったとのことですから、第3節でマリアが「もうぶどう酒がありません」と言ったときには、イエスさまに奇跡を求めていたのではないはずです。自分の息子に、この困難な局面を打開する方法は何かないだろうかと相談したのでしょう。

第4節、これに対するイエスさまの答は「ご婦人、それは私たちの問題ではありません。私の時はまだ来ていないのです。」で、自分には関係のない話だとマリアを冷たく突き放す答になっています。 ですがイエスさまが行動を起こすのは、第5節のマリア言葉、「この人が言うことを、何でもしてあげてください。」を受けてのことです。これは福音書でよく見かけるパターンで、イエスさまや神さまを象徴する人が、依頼を受けて最初に「ノー」と言ったとしても、依頼者がしつこく頼み続けるとか、ひるまずに信仰を表明することで願いが叶えられるケースがたびたび登場します。 突き放されたはずのマリアが、それがまったく聞こえなかったかのように「この人が言うことを、何でもしてあげてください。」と使用人に指示を出すのを聞き、イエスさまはマリアが全面的にイエスさまを信頼しているのだとくみ取って行動を起こしたのかも知れません。

第7節、イエスさまの指示は「水がめに水を満たしなさい」でした。 ここに登場する六つの巨大な水がめはユダヤの清めの儀式に使われていたもののようです。当時のユダヤ人は、日常生活で様々な「不浄」なものに触れることで自分も汚れてしまうと考えていたので、飲食の前に自分の手に水をかけて清める他、外出の後では全身を清めるなど、とにかく生活に大量の水を要しました。

第8節~第10節、水がめからくみ出された水は最良のぶどう酒に変わり、婚礼の祝宴の主催者の危機は回避され、それどころか主催者は最良のぶどう酒が出て来たことに喜びます。

第11節、弟子たちはこの奇跡を目にしてイエスさまを信じました。

第12節、カナでの婚礼の後、イエスさまの一行はガリラヤ湖北岸の町、カペナウムへ移動します。カペナウムはイエスさまがガリラヤ地方で行った伝道活動の中心地になります。 イエスさまの一行にはイエスさまの母マリアとイエスさまの兄弟たちが含まれています。イエスさまの兄弟とはマリアとヨセフの子供です。つまりマリアは処女懐胎でイエスさまを地上に送り出した後でヨセフと子供を持ったということです。福音書にはイエスさまには四人の弟と数人の妹がいたと書かれています。 特別な記述がありませんが、マリアの夫のヨセフはこの時点ではすでに死んでいたとの説があります。婚礼に招かれれば夫婦で列席するのがマナーであるはずなのに、ここにはヨセフについての言及がなく、マリアは問題の解決を夫ではなく長男のイエスさまに頼んでいることがその説の根拠のようです。






english1982 at 22:00|Permalink

ヨハネの福音書:第2章第13節~第25節イエスさまが寺院を一掃する、イエスさまとニコデモ

第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Clears the Temple

イエスさまが寺院を一掃する

13 It was nearly time for the Jewish Passover celebration, so Jesus went to Jerusalem.

13 ユダヤ人の過越の祭りが近づいたので、イエスさまはエルサレムへ行きました。

14 In the Temple area he saw merchants selling cattle, sheep, and doves for sacrifices; he also saw dealers at tables exchanging foreign money.

14 寺院の中には、いけにえのための牛や羊や鳩を売る商人がいました。また外貨の両替商たちがテーブルについているのも見えました。

15 Jesus made a whip from some ropes and chased them all out of the Temple. He drove out the sheep and cattle, scattered the money changers’ coins over the floor, and turned over their tables.

15 イエスさまは細なわでむちを作ると、商人たちを寺院から追い出しました。イエスさまは羊や牛も追い出し、両替商の硬貨を床にまき散らし、テーブルをひっくり返しました。

16 Then, going over to the people who sold doves, he told them, “Get these things out of here. Stop turning my Father’s house into a marketplace!”

16 それから鳩を売っていた人たちのところへ行って言いました。「それをここから持って出て行きなさい。私の父の家を市場にするのはやめなさい。」

17 Then his disciples remembered this prophecy from the Scriptures: “Passion for God’s house will consume me.”

17 弟子たちは聖書の中の預言を思い出しました。「神さまの家を思う熱意が私を食い尽くす。」

18 But the Jewish leaders demanded, “What are you doing? If God gave you authority to do this, show us a miraculous sign to prove it.”

18 ところがユダヤ人の指導者たちが問い詰めました。「いったいあなたは何をしているのか。もし神さまから権限を得てこれをしているのなら、それを証明するような奇跡のしるしを私たちに見せなさい。」

19 “All right,” Jesus replied. “Destroy this temple, and in three days I will raise it up.”

19 「いいでしょう。」イエスさまは答えて言いました。「この寺院を壊しなさい。三日のうちに私はそれを建てましょう。」

20 “What!” they exclaimed. “It has taken forty-six years to build this Temple, and you can rebuild it in three days?”

20 「何だって?」指導者たちは叫びました。「この寺院は建てるのに46年もかかったのです。あなたはそれを三日で建て直せるのですか?」

21 But when Jesus said “this temple,” he meant his own body.

21 しかしイエスさまが「この寺院」と言ったのは、自分の身体ことを言っていたのでした。

22 After he was raised from the dead, his disciples remembered he had said this, and they believed both the Scriptures and what Jesus had said.

22 イエスさまが死からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこのように言っていたと思い出しました。そして弟子たちは聖書とイエスさまの言った言葉を信じました。



Jesus and Nicodemus

イエスさまとニコデモ

23 Because of the miraculous signs Jesus did in Jerusalem at the Passover celebration, many began to trust in him.

23 イエスさまが過越の祭りの祝いの間に行った奇跡のしるしによって、たくさんの人たちがイエスさまを信じ始めました。

24 But Jesus didn’t trust them, because he knew human nature.

24 しかしイエスさまは、その人たちを信じませんでした。なぜならイエスさまは人の性質を知っていたからです。

25 No one needed to tell him what mankind is really like.

25 だれもイエスさまに人の本性について教える必要はありませんでした。




ミニミニ解説

ヨハネの第2章です。

第13節、過越の祭りが近づいてイエスさまはエルサレムへ上ります。北から南へイスラエルを縦断する100キロあまりの旅です。 過越の祭りの時期は春で(私たちのカレンダーで3~4月頃)、その七週間後の五旬節(ペンテコステ)、秋の仮庵の祭りと合わせて年間の三大祭りとなります。この三つの祭りにはユダヤ人の成人男子は律法で出席が義務づけられています。

過越の祭りはユダヤ人がかつてエジプトでの奴隷状態から脱出した出来事を記念する祭りで、ユダヤ暦の第1の月の14日に行われます。 エジプト脱出のときに神さまはエジプト上空を飛んでエジプト中の家の第一子を殺しましたが、ユダヤ人には戸口に印をつける方法を教えて、それを目印に危害を加えませんでした。つまり神さまはユダヤ人の家を「過ぎ越した」のです。

過越の祭りはそのまま七日間の「種を入れないパンの祭り」に続きます。これはユダヤ人がエジプトを脱出するときに大急ぎで出立しなければならなかったので、パン種を入れて生地を発酵させている時間がなかったことを思い出す祭りです。 「種を入れないパンの祭り」の最終日は「収穫の初穂の祭り」です。これはエジプト軍の追撃を断った紅海の横断を記念した祭りで、収穫シーズンの始まりを告げる祭りでもあります。

聖書には次のように書いてあります。すべてからの引用です。Leviticus 23:4-8(レビ記第23章4~8節)です。「4 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。6 この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。7 最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。8 七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」([新改訳])。

マルコの福音書を中心に書かれたマルコ、マタイ、ルカの共観福音書ではイエスさまが過越の祭りにエルサレムに上った話は伝道活動の最後に一回だけ記述されるのですが、ヨハネでは三回記述されています。と言うことはイエスさまの伝道活動の間には、少なくとも三回の過越の祭りがあった、つまりイエスさまの活動は2~3年に及んだということになります。

ユダヤ人の律法が成人男子の出席を義務づける三大祭りの際には、イスラエル全土からばかりか、ローマ帝国領の地中海周辺の各地からも多数のユダヤ人がエルサレムに集結しました。当時はイスラエル国内よりも、国外に住んでいる「ディアスポラ」と呼ばれるユダヤ人の方が圧倒的に多かったのです。 それほどのたくさんのユダヤ人がエルサレム周辺に集結するので、祭りの期間中のエルサレムはたくさんの人でごった返します。

エルサレムの寺院は城壁で囲まれた市内の北東の高台にあります。最初の寺院は当時から1000年近く前にソロモン王が建てましたが、この寺院はバビロニア帝国がエルサレムを征服したときに破壊されました。 次の寺院は紀元前515年にバビロニアから戻ったユダヤ人が再建しました。そしてこの寺院は、当時ローマ帝国領内でイスラエルを支配していて建築マニアとして知られていたヘロデ大王が大々的な改修と拡張の工事をしたものです。

寺院内は内部へ進むほど聖域の度合いが高まるような構造に区切られているのですが、その一番外側の広い場所が「異邦人の庭」です。当時、そこには商人や両替商がたくさん入っていて、寺院に集まる人たち相手に商売をしていました。 寺院を参拝する人々は律法に定められたいけにえを捧げるのですが、遠隔地からいけにえの動物を連れて旅行をしてくるのが困難なので、そういう人たち向けに動物を売る商人がいました。また寺院を参拝する人はやはり律法に沿って寺院税を支払うのですが、その際にはローマ帝国領内で流通する外貨を、寺院用の特殊な貨幣に両替する必要がありました。この目的で両替商が多数テーブルを出していました。

こういう動物商や両替商がいることは、ユダヤの律法に照らしても理にかなっていると思われますが、寺院に入ったイエスさまはこれらの商人をロープで作ったむちを持って蹴散らして歩きます。 これは人々にやさしく教えを説くイエスさまを思い描く人には、ややショッキングなエピソードですが、イエスさまはこういう恐ろしい怒りの人でもあるのです。また人々の前で「怒り」をぶちまける姿は、旧約聖書に登場する多数の預言者たちに通じるものがあります。

第16節でイエスさまは「私の父の家を市場にするのはやめなさい」と言っています。まず商人たちがいた「異邦人の庭」は、本来神さまの崇拝のために使われるべき場所ですから、イエスさまはここが商売の目的に使われることを怒っているのだと思います。 それからイエスさまが怒っているのはおそらく動物商と両替商を使ったビジネスの仕組みについてです。寺院の管理全般は、大祭司を筆頭にする祭司職に委ねられていましたから、これらの商売を寺院内で行うことを許可していたのは大祭司であり、祭司職を担う人たちなのです。 祭司職の中には貴族層から構成されるサドカイ派が多く含まれています。おそらく動物商や両替商が行う商売から、利益が巧みに貴族層へと吸い上げられる仕組みができあがっていたはずで、いけにえに捧げる動物をエルサレム周辺で育てて、それを祭りの開催期間に合わせて寺院へ調達する仕組みなどから含めて、すべてがうまくまわるように作られていたのです。 神さまを崇拝するための神さまの家が、そういう私的な商売の仕組みのために利用されていることがイエスさまは許せなかったのです。

第17節、異邦人の庭で暴れ回るイエスさまを見て、弟子たちは「神さまの家を思う熱意が私を食い尽くす。」という預言を思い出した、と書かれていますが、これはPsalm 69:6-9(詩編第69章第6節~第9節)のことと思われます。「6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。」([新改訳])。

第18節、ユダヤ人の指導者たちは「いったいあなたは何をしているのか。もし神さまから権限を得てこれをしているのなら、それを証明するような奇跡のしるしを私たちに見せなさい。」 とイエスさまに迫ります。 サドカイ派の指導者たちにとって、過越の祭りは一年で最大の稼ぎ時の一つなのですから、それを台無しにするイエスさまに怒り心頭のはずです。

第19節、これに対するイエスさまの答は、「この寺院を壊しなさい。三日のうちに私はそれを建てましょう」となっています。イエスさまが得意とされる謎に満ちた言葉での返答です。この言葉は共観福音書ではイエスさまの宗教裁判で引用されていますから、イエスさま自身の有名な言葉として伝わっていたようです。

第20節、指導者たちはこれを真に受けて、「この寺院は建てるのに46年もかかった」と言っています。ヘロデ大王が建築の工事を始めたのは紀元前19年ですので、これに46を足すと、このイエスさまが最初にエルサレムへ上った際の出来事は、紀元27年~28年ごろということになります。寺院の工事はまだ完成しておらず、このあとしばらく続いていました。

第20節~第21節、弟子たちはイエスさまが復活した後で、イエスさまがこれを言っていたことを思い出してます。どうしてそれが可能になったのか、どうして三日で建て直されるのがイエスさま自身の身体のことだとわかったのか。それは「Acts(使徒の働き)」の冒頭で起こる、聖霊の到来によるものと思われます。つまり弟子のひとりひとりに宿った聖霊が、弟子たちにイエスさまに関するすべてを明らかにしたのです。 イエスさまが三日で建て直すと言ったのはエルサレムの寺院のことではなくて、イエスさまの身体のことだったのです。十字架刑で殺されたイエスさまは三日後に死者の中から復活しました。創造主であり宇宙の支配者である神さまに対する信仰、崇拝、賛美のために必要なのは、寺院のように人の建てた建築物ではありません。私たちが唯一必要とするのは、神さまが私たち人類のために送り、死者の中からよみがえらせることで死さえ克服できるのだと教えてくださった救世主イエスさまなのです。

第23節~第25節、たくさんの人たちがイエスさまを信じ始めたが、イエスさま自身はその人たちを信じなかった、それはイエスさまが人間の本性をよく知っていたからだ、と書かれています。 なんとありがたいことなのかと思います。私たちは自分の口でイエスさまを信仰します、神さまを崇拝しますと言いながら、日々神さまをガッカリさせるような行動を繰り返します。幾たび、お祈りの中でごめんなさいと謝っても同じ間違いの繰り返しになるのです。

イエスさまはそんな私たちの弱さ、ずるさをすべてご存じなのです。だから私たちの弱さを見ても驚くことはありません(そんなときにイエスさまは怒り、嘆かれます)。イエスさまは私たちの弱さやずるさをすべて知りながら、それにも関わらず神さまの意志を遂行することを最優先にされて、私たちに代わるいけにえとなるために十字架にかかりました。私たちがどうしようもなく愚かなので、そうする以外に、神さまが愛される人間を救う道がないからです。そうする以外に私たちが神さまの元へ行く手段がないからです。 私たちはダメダメです。自分の信仰の弱さを嘆いたり、情けなく思うことがあっても、それは当然です。しかしそのことについて心配する必要はありません。キリスト教で私たちが神さまと結ぶ契約は、神さまから一方的に私たちに与えられるものです。私たちの側から全知全能の神さまに差し出せるものなど何もありません。 私たちは弱い存在です。私たちの側が、信仰や修行を通じて神さまにしがみつくのではありません。何度もフラフラと迷う私たちを見つけ、がっちりと掴まえておいてくださるのは神さまです。神さまは宇宙の創造者であり全知全能です。これ以上の保証は世の中に存在しません。

それにしても私たちはどうしていつもフラフラと繰り返し迷い続けなければならないのでしょうか。それは私たちが神さまとの契約の意味を理解していないからのようです。それがこれに続く第3章のエピソードで説明されます。






english1982 at 21:00|Permalink

ヨハネの福音書:第3章第1節~第21節:イエスさまとニコデモ(続き)

第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


1 There was a man named Nicodemus, a Jewish religious leader who was a Pharisee.

1 ニコデモという人がいましたた。ユダヤ人の宗教の指導者でファリサイ派に属していました。

2 After dark one evening, he came to speak with Jesus. “Rabbi,” he said, “we all know that God has sent you to teach us. Your miraculous signs are evidence that God is with you.”

2 ある夜のこと、日が暮れると、ニコデモはイエスさまのところへ話しに来て言いました。「先生、私たちはみな、神さまがあなたを遣わして、私たちに教えようとしているのだと知っています。あなたが行う奇跡のしるしが、神さまがあなたと共にいる証拠です。」

3 Jesus replied, “I tell you the truth, unless you are born again, you cannot see the Kingdom of God.”

3 イエスさまが答えて言いました。「あなたに本当のことを言います。人はもう一度生まれなければ、神さまの王国を見ることはできません。」

4 “What do you mean?” exclaimed Nicodemus. “How can an old man go back into his mother’s womb and be born again?”

4 ニコデモは驚いて言いました。「どういう意味ですか。どうすれば老人が自分の母の子宮に戻り、もう一度生まれることができるのですか。」

5 Jesus replied, “I assure you, no one can enter the Kingdom of God without being born of water and the Spirit.

5 イエスさまが答えて言いました。「あなたに保証します。人は水と霊によって生まれなければ、誰も神さまの王国に入ることはできません。

6 Humans can reproduce only human life, but the Holy Spirit gives birth to spiritual life.

6 人が産み増やせるのは人の命だけです。ですが聖霊は霊の命を誕生させるのです。

7 So don’t be surprised when I say, ‘You must be born again.’

7 ですから私が、『もう一度生まれなければならない』と言ったからといって驚いてはいけません。

8 The wind blows wherever it wants. Just as you can hear the wind but can’t tell where it comes from or where it is going, so you can’t explain how people are born of the Spirit.”

8 風は思いのままに吹きます。あなたには風の音が聞こえますが、それがどこから来てどこへ行くかはわかりません。だからあなたには人がどのように霊によって生まれるのかを説明することはできません。」

9 “How are these things possible?” Nicodemus asked.

9 ニコデモはたずねました。「どうしてそのようなことがありうるのでしょうか。」

10 Jesus replied, “You are a respected Jewish teacher, and yet you don’t understand these things?

10 イエスさまは答えて言いました。「あなたは尊敬を集めるユダヤの教師です。それなのにこういうことがわからないのですか。

11 I assure you, we tell you what we know and have seen, and yet you won’t believe our testimony.

11 あなたに保証します。私たちは知っていることと見たことを話しているのに、あなた方は私たちの証言を信じようとしません。

12 But if you don’t believe me when I tell you about earthly things, how can you possibly believe if I tell you about heavenly things?

12 しかしもしわたしが地上のことを話しているのにあなた方が信じないのなら、私が天のことを話したとしてどうして信じることができるでしょうか。

13 No one has ever gone to heaven and returned. But the Son of Man has come down from heaven.

13 天に上って戻ってきた者はいません。ですが人の子は天から降りて来たのです。

14 And as Moses lifted up the bronze snake on a pole in the wilderness, so the Son of Man must be lifted up,

14 そしてモーゼが荒野で青銅の蛇を竿の上に掲げたように、人の子もまた掲げられなければなりません。

15 so that everyone who believes in him will have eternal life.

15 それは人の子を信じる者がみな永遠の命を持つためです。

16 “For God loved the world so much that he gave his one and only Son, so that everyone who believes in him will not perish but have eternal life.

16 神さまは本当に世界の人間を愛されたので、ご自身のたったひとりの息子をお与えになりました。それはその子を信じる者がすべて、滅びることなく永遠の命を持つためです。

17 God sent his Son into the world not to judge the world, but to save the world through him.

17 神さまがご自身の息子を世界に送り出したのは世を裁くためではなく、その子を通じて世を救うためです。

18 “There is no judgment against anyone who believes in him. But anyone who does not believe in him has already been judged for not believing in God’s one and only Son.

18 その子を信じる者に対する裁きはありません。ですが信じない者は神さまのたったひとりの息子を信じなかったことですでに裁かれているのです。

19 And the judgment is based on this fact: God’s light came into the world, but people loved the darkness more than the light, for their actions were evil.

19 そして裁きは次のような事実に基づくのです。神さまの光が世に来たというのに、人々は光よりも闇を愛しました。それは人々の行ないが邪悪だったからです。

20 All who do evil hate the light and refuse to go near it for fear their sins will be exposed.

20 邪悪を行うすべての者が光を嫌います。そして自分の罪が明るみに出されることを恐れて光に近づくことを拒みます。

21 But those who do what is right come to the light so others can see that they are doing what God wants.”

21 しかし正しいことを行なう者は光の方へ来ます。それはその人たちが神さまの求めることをしている様子が他の人にも見えるようにです。




ミニミニ解説

ヨハネの第3章です。

ここは私には聖書の中で一番ドキドキする章のひとつですし、この章を愛するクリスチャンは実にたくさんいます。またこの章の第16節だけは何度も聞いて知っているのに、それがどのような文脈で登場するかを知らないでいるクリスチャンもたくさんいます。

第1節~第2節、ある夜、暗くなると、ニコデモと言う人物がイエスさまのもとを訪れます。ニコデモはユダヤ人の指導者でファリサイ派に属していたと書かれています。ニコデモはヨハネの福音書のほかの箇所にも登場するのですが、イスラエルの最高議決機関(日本の国会、内閣、裁判所を兼ねたような機関)であるサンヘドリンのメンバーのひとりです。つまり日本で言えば国会議員のような人です。サンヘドリンは70人前後で構成されています。そのうちのひとりです。

前の章でイエスさまは過越しの祭りのためにエルサレムへ上り、寺院の中の異邦人の庭で動物商人や両替商を蹴散らしたのでした。恐らくこのときまでにイエスさまはあちらこちらで「神さまの王国」を説く伝道活動をして人を集めていて、あるいはいくつかの奇跡のしるしを見せていたはずで、イエスさまは人で賑わう過越し祭りのエルサレムで話題の中心になっていたことでしょう。その問題のイエスさまのところへ、ファリサイ派で国会議員のニコデモが訪問するというシーンです。

ニコデモは自分がイエスさまの元を訪問するところを誰かに目撃され、それがサンヘドリンの間で知られるようになるのを恐れていたはずです。そうであれば危険を避けて、たとえば代理の者を遣わすことなどもできたはずですが、わざわざ自分から出向きました。何か感じるところがあり、どうしても自分の口と耳で確かめておきたいことだったのでしょう。だから日が暮れた後、夜陰に紛れて訪れたのです。福音書のイエスさまはこのように思いを行動に移す姿勢を重視されます。

第2節で、サンヘドリンのメンバーであるニコデモがイエスさまに「先生」と呼びかけ、さらに「あなたが行う奇跡のしるしが、神さまがあなたと共にいる証拠です。」 と言っています。これはファリサイ派の人の発言としては驚くべき内容です。ファリサイ派はもう一度奇跡を見せろ、自分の前でやって見せろ、と迫るのが常です。そういう意味で奇跡のしるしを目の前で見せられている以上、その人が神さまから遣わされた預言者であると認めざるを得ないというニコデモの姿勢は立派です。ニコデモはイエスさまの奇跡を自分の目で見ている可能性が高いと思います。

第3節、イエスさまはいきなり確信を突きます。「人はもう一度生まれなければ、神さまの王国を見ることはできません。」

これに対する第4節のニコデモの質問はシンプルでわかりやすいです。「どういう意味ですか。どうすれば老人が自分の母の子宮に戻り、もう一度生まれることができるのですか。」 これはファリサイ派の教師にはふさわしくない子供じみた質問ですが、ニコデモは知りたくて仕方ないのです。なんとなくわかった振りなどしないで、たとえバカバカしくても、心に浮かんできた質問をそのままぶつけて行きます。ニコデモは行動の人なのです。

第5節~第7節、イエスさまが説明します。「人は水と霊によって生まれなければ、誰も神さまの王国に入ることはできません。人が産み増やせるのは人の命だけです。ですが聖霊は霊の命を誕生させるのです。ですから私が、『もう一度生まれなければならない』と言ったからといって驚いてはいけません。」 前の節で「もう一度生まれなければ」と言った部分を別の言い方で説明したのだと解釈すれば、おそらく「水によって生まれる」と言うのが、人が普通にこの世に生を受けることであり、「霊によって生まれる」と言うのが、神さまへの信仰を自分の口で告白し、聖霊を自分の身体に受けることなのだと思います。その聖霊が人に霊の命を誕生させるのですから、神さまの王国に入るためには、人は霊によって生まれて霊の命を受けなければならないのです。

聖霊は三位一体のうちのひとつの相です。三位一体とは、父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三つが、異なる相を持つひとつの神さまであるという考え方です。聖書を読むと、父なる神さまは子のイエスさまを通じて最初に天地を創造し、さらにイエスさまに肉体を与えて救世主として地上に降ろしました。聖霊はイエスさまが地上に現れるずっと前から様々な働きをしていた様子が書かれていますが、イエスさまが十字架死を経て三日後に復活して天に戻る前に、弟子たちには自分の代わりとなる「助け主」として聖霊を送ると約束しています。その後すぐに弟子たちに聖霊が訪れますが、この時以来、聖書の中の聖霊の役割が明確に「助け主」に変わったように読めます。きっとイエスさまの十字架を境に神さまの人類救済の計画は次の段階へと突入したのです。

イエスさまの言う、水と霊によって生まれなければ見ることも入ることもできない「神さまの王国」とはいったいどこにあるのでしょうか。聖書の教育に基づいて、ニコデモが理解していたであろう「神さまの王国」とは、神さまの支配する国であり、いつか地上に再建されることになっていて、そのときには王としての神さまが自分の民をそこに住まわせる場所のことです。ニコデモは純粋なユダヤ人であり(神さまから選ばれたアブラハムの子孫であるという意味)、神さまから与えられた律法と、口頭伝承されてきた慣習のことごとくを守ることを信条に生きているファリサイ派の指導者として、自分は確実に「神さまの民」であり、再建される神さまの王国の住人の地位は保証されている、と思っていたはずです。

しかしイエスさまの言葉によれば、そこへ入るためには「もう一度霊によって生まれる」必要がありそうです。さらに第16節では、神さまは「世界の人間を愛された」と言われてますから、住民はユダヤ人に限定されないことになってしまいます。ニコデモの頭の中はクエスチョン・マークで一杯だったはずです。イエスさまが伝える「神さまの王国」は、まず福音を信じる人の心の中から始まり(Luke 17:21・ルカの福音書第17章第21節)、「終わりの日」にイエスさまが再来するときには物理的に地上に実現します。

第8節、イエスさまの説明が続きます。「風は思いのままに吹きます。あなたには風の音が聞こえますが、それがどこから来てどこへ行くかはわかりません。だからあなたには人がどのように霊によって生まれるのかを説明することはできません。」人は風の音を聞き、そこに風が存在すると知ることができます。だからといって風がどこから来てどこへ行くのかがわかるわけではありません。風は目に見えませんから。イエスさまは霊についても同じだと言います。ニコデモはユダヤの先生として聖書に精通し、またニコデモ個人としてもおそらく霊が存在すると知っているのです。だからといって霊がどのような活動をするのかがわかるわけではありません。霊は人から見ることも知ることもできない領域に存在するのです。だから人には「霊によって生まれる」と言うことを最後まで理解することはできません。

第9節、ニコデモは「たしかにそうかも知れない」などとは言いません。「どうしてそのようなことがありうるのでしょうか。」と食い下がって質問します。

第10節、イエスさまは「あなたは尊敬を集めるユダヤの教師です。それなのにこういうことがわからないのですか。」と返します。ニコデモは聖書に精通する教師であるはずなのに、こういうことがわからないのか、と言います。イエスさまは霊のことは人には理解できない領域にある、と言っているのです。つまりそれを認めるのか認めないのか、信じるのか信じないのかの話なのです。霊を扱う聖書の先生であれば、「たしかにそうかも知れない」などと同意が得られても良さそうなものなのに、ニコデモからどうしてそんなことがあるのか、という質問が出たのでイエスさまはこう言ったのでしょう。

第11節、イエスさまは「私たちは知っていることと見たことを話しているのに、あなた方は私たちの証言を信じようとしません。」と言います。ここまでずっと「I(私)」で通してきた主語が、ここだけ「we(私たち)」になっています。ここはヨハネの編集が少し崩れているように感じます。「知っていることと見たことを話して証言している」、そんな「私たち」と言うのは、イエスさまではなくて、イエスさまと行動を共にして自分の耳と目でイエスさまの言動を目撃し、その事実に沿って福音を証言している信者たちのことではないか、と思います。「信じようとしないあなた方」と言うのは、ニコデモに代表されるファリサイ派の人たちでしょうか。

第12節、イエスさまが続けます。「もしわたしが地上のことを話しているのにあなた方が信じないのなら、私が天のことを話したとしてどうして信じることができるでしょうか。」イエスさまの周辺で起きたニコデモもよく知る出来事、そういう私たちの住む地上で起きた出来事が信じられないのなら、人間の理解を超えた霊の世界である天の話はとうてい信じないだろう、と言います。しかしニコデモは冒頭で、「あなたが行う奇跡のしるしが、神さまがあなたと共にいる証拠です。」と言っていますから、地上の出来事を見て、イエスさまが神さまから遣わされたことは信じているのです。

第13節、イエスさまが続けます。「天に上って戻ってきた者はいません。ですが人の子は天から降りて来たのです。」 マルコを中心とするマルコ、マタイ、ルカの共観福音書では「人の子」の呼称は、「終わりの日」に天から再来するイエスさまを指す言葉として使われていますが、ヨハネでは地上で伝道活動をするイエスさまが、すでに天から戻った人の子として言及されます。John 1:14(ヨハネ第1章第14節)に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」([新改訳])とあるように、イエスさまは天から降りて来て人として地上に立った神さまなのです。

第14節~第15節、イエスさまが続けます。「そしてモーゼが荒野で青銅の蛇を竿の上に掲げたように、人の子もまた掲げられなければなりません。それは人の子を信じる者がみな永遠の命を持つためです。」 これは旧約聖書のNumbers 21:4-9(民数記第21章第4節~第9節)に書かれているエピソードに基づく話です。エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人は預言者モーゼに率いられてエジプト脱出に成功しますが、毎日砂漠を進む旅程の辛さに耐えかねて、人々はすぐに不平不満を言い始めます。神さまはこれを怒って人々の中に「燃える蛇」を送り、その蛇に噛まれた人が死んでいきます。

「4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」 6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」 9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」([新改訳])。

モーゼが掲げた青銅の蛇そのものに特別な力があったわけではありません。モーゼが人々に「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と伝えたとき、何の疑問も挟まずに青銅の蛇を見上げた者を評価して、神さまがその人を癒やしたのです。旗ざおの上に掲げられる蛇は、見事に十字架に掲げられるイエスさまの「型」になっていて、聖書はこうやって同じ「型」を違う形で繰り返して進むのです。そしておそらく旧約聖書の大半が救世主としてのイエスさまを指し示すように作られています。聖書は「救世主イエスさまの福音を信じる者は生きる」と言っています。これに何の疑問もなく、十字架の上のイエスさまを救世主として仰ぎ見る人を神さまは救うのです。

第16節のイエスさまの言葉は、聖書の中で最も有名な聖句としてよく知られています。この句が聖書全体を通して書かれたメッセージ、神さまが愛する人間を死から救い出すために、自分の子であるイエスさまを代償として差し出したということを要約しているらです。「神さまは本当に世界の人間を愛されたので、ご自身のたったひとりの息子をお与えになりました。それはその子を信じる者がすべて、滅びることなく永遠の命を持つためです。」 これは福音の意味、そのものです。

第17節~第18節、「神さまがご自身の息子を世界に送り出したのは世を裁くためではなく、その子を通じて世を救うためです。その子を信じる者に対する裁きはありません。ですが信じない者は神さまのたったひとりの息子を信じなかったことですでに裁かれているのです。」 二つのことが言われています。神さまがイエスさまを送り出したのはイエスさまを通じて人類を救済するため。しかし「信じない者」はすでに裁かれています。旧約聖書の律法を読めばわかりますが、神さまは天地の創造主として、また宇宙の支配者として、そこに存在するすべての存在から認知され、崇拝され、賛美されることを求めています。神さまの創造した地球の上で生活しているのに、創造者である神さまのことを一日に一度も気にかけることのない人間たちに対して激しく怒っています。その神さまが人類救済のために自分から送り出したイエスさまを信じない者は、その時点で有罪の判決が降りているのです。第18節の[KJV]も「but he that believeth not is condemned already」と現在完了形で、完了済みのこととして書かれています。

第19節~第21節には裁きの理由が書かれています。「そして裁きは次のような事実に基づくのです。神さまの光が世に来たというのに、人々は光よりも闇を愛しました。それは人々の行ないが邪悪だったからです。邪悪を行うすべての者が光を嫌います。そして自分の罪が明るみに出されることを恐れて光に近づくことを拒みます。しかし正しいことを行なう者は光の方へ来ます。それはその人たちが神さまの求めることをしている様子が他の人にも見えるようにです。」

「神さまの光が世に来た」と言うのはイエスさまが地上に来たことですね。ですがその光へ向かわない人がいたら、それは邪悪故に闇を愛したからだ、と言います。この部分には「邪悪」とか「自分の罪が明るみに出されることを恐れる」と書かれていますが、これは犯罪行為を行っているだとか、それが世の中にばれることを恐れているとか、そういう意味ではありません。ここで言う「正しい」とか「邪悪」の判断基準は神さまです。神さまがそれを見て「正しい」と言うか、「ガッカリする」と言うかです。では神さまはいつ「正しい」と言い、いつ「ガッカリ」するのか。Exodus 20(出エジプト記第20章)の「十戒」に要約された神さまの善悪判断基準は以下です。

一. 聖書の「神さま」以外の神を崇拝してはいけない。
二. 偶像(金属・木・石などで作る神仏の像)を作って拝んではいけない。
三. 神さまの名前をみだりに唱えてはいけない。
四. 安息日(いまの土曜日)を聖なる日として仕事を休む。
五. 父母を敬う。
六. 人を殺さない。
七. 姦淫(倫理にそむいた肉体関係を)しない。
八. 盗まない。
九. 嘘をつかない。
十. 他人のものを欲しがらない。

福音書の中のイエスさまは、律法の裏に隠された、人の心を読まれる神さまの意図を語りました。それはたとえば「人を憎んだら殺したのと同じこと」、「異性を見て淫らな気持ちをいだいたら姦淫したのと同じこと」、という大変厳しい内容です。これに基づく私の十戒の解釈は以下です。

一. 私は聖書の神さまを天地の創造主として宇宙の支配者として四六時中崇拝し、賛美できているだろうか。逆に聖書に書かれた神さま以外の何かを神格化して崇拝するようなことはないだろうか。
二. 私の心の中には偶像としてあたかも神さまのように崇拝している人やものはないだろうか。
三. 私は「神」という言葉を必要もないのに使うことはないだろうか。私は神さまを理由にして自分を正当化することはないだろうか。
四. たとえば週に一日の休日を心安らかにすごし、その日を神さまのことを考え、神さまに感謝して過ごす時間として使っているだろうか。
五. 私は心の中で父母に怒りを覚えたことはなかっただろうか(=父母を敬わなかったのと同じこと)。
六. 私は心の中で人に腹を立てることはないだろうか(=人を殺したのと同じこと)。
七. 私は倫理的に関係が許されない異性を見て心が動いたことはなかっただろうか(=姦淫を犯したのと同じこと)。
八. 私は心の中で他の人のものを欲しいと思うことはないだろうか(=盗んだのと同じこと)。
九. 私は嘘をついたことはないだろうか。
十. 私は心の中で他人をうらやんだことはないだろうか。

正しいことを行なう者が光の方へ来ると言うのは、たとえばこの十点の判断基準をことごとくクリアする人ではありません。そんな人は世の中にはひとりもいません。これを判断基準として神さまの王国入りが決まるのなら、入れる人はひとりもいません。

神さまの目に「正しい」と映る人は、十点の判断基準に自分を照らしてみて、自分が正しくないのだと知り、それを素直に認め、もしそうだとしたら自分を創り、自分の言動をずっと見てきた神さまに対して大変申し訳ないという気持ちを抱き、それを声に出して謝罪し、そんなダメダメの人間である自分のためにわざわざ救世主であるイエスさまを送ってくださった神さまに感謝し、イエスさまを救世主として認め、それを自分の口で宣言し、そのときからはいつも自分を見ている神さまの存在を意識し、少しでも神さまの目に正しく映ることができるように、少しでも神さまに喜んでいただけるように努力しようと心を改めるような人です。

そして最後の部分には「正しいことを行なう者は光の方へ来る」の理由が書かれています。「それはその人たちが神さまの求めることをしている様子が他の人にも見えるようにです。」 つまりイエスさまを救世主として告白したクリスチャンは、そのときから自分の言動を改めて少しでも神さまの目に正しく映ろうと努力するのですが、その姿を周りの人から見られることを恥じたり、恐れてはいけないのです。それは神さまをガッカリさせると言うことです。






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