ヨハネの福音書

2015年09月30日

ヨハネの福音書:はじめに

ヨハネの福音書


はじめに
第01章 第02章 第03章 第04章 第05章
第06章 第07章 第08章 第09章 第10章
第11章 第12章 第13章 第14章 第15章
第16章 第17章 第18章 第19章 第20章
第21章
全体目次




新約聖書の中に「Gospel(福音書)」の名前がつく本は最初に四つ収録されています。それは「Matthew(マタイ)」「Mark(マルコ)」「Luke(ルカ)」「John(ヨハネ)」の四冊で、ヨハネの福音書は四番目にあたります。

ヨハネを除く最初の三冊を、特別に「共観福音書」と呼びますが、これは、この三冊に共通する記述が多く、恐らく同じ文献から発していると考えられるからです。

私はメルマガの中で「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式を用いていますが、これは共観福音書の三冊のうち最初に書かれたとされるのがマルコで、マタイとルカはマルコの記述から10年あまりを経て、マルコからの引用と、「Q」と呼ばれるイエスさまの説教集の資料、さらにマタイとルカがそれぞれ独自に持っていた資料を組み合わせて編集されたことが推察されることを示しています。

これに対してヨハネは、共観福音書の三冊とはまったく異なる視点で書かれており、記述が行われたのもおそらく一番最後です。共観福音書がどちらかというとイエスさまの伝道に関する記録を行ったのに対し、ヨハネはイエスさまが地上に現れ、十字架に掛かって殺されて、その三日後によみがえった、その出来事の背景や目的、あるいはその意味や意図を伝えることを主眼としていると感じさせます。共観福音書が書かなかった、福音の本当の意味を伝える最後の福音書と言っても良いかも知れません。

実はヨハネの福音書が書かれた目的は、福音書の中に明確に書かれています。John 20:31(ヨハネの福音書第20章第31節)です、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」([新改訳])。読んだ人がイエスさまを信じるため、そしてその名前によっていのちを得るための福音書なのです。

記述者のヨハネが誰かについては議論があり、最初はイエスさまが選んだ十二人の使徒の一人で、イスラエル北部のガリラヤ湖の北岸にあるカペナウムという町の漁師のゼベダイと言う人の息子、やはり十二使徒のひとりであるヤコブと兄弟のヨハネがそうであろうとされていました。ヤコブとヨハネは聖書にはどちらが年長かは書かれていませんが、「ヤコブとヨハネ」という記述が多いのでヤコブが年長と考えられています。ゼベダイの一家は福音書には船や召し使いを所有していたという記述がありますから、かなり裕福な家だったようです。

記述者について後から出てきた有力な説は、ヨハネの福音書の中に何回か出てくる「イエスさまが愛した弟子」と言う人物は十二人の使徒とは別に存在する人物で、この人の名前がヨハネだったのだろうというものです。この「イエスさまが愛した弟子」の行動を見るとガリラヤ湖の漁師の息子と考えるのは不自然な箇所が多いのです。しかしこの福音書が「ヨハネの福音書」と呼ばれていて、他にも同じ人物が書いたとされる本が新約聖書の中には五冊収録されており、どれもがその記述者をヨハネという人物だとしているので、このヨハネは十二使徒のヨハネとは別人だろうと考えられました。

ヨハネの福音書の書き口は控えめで、「信じる」「愛」「真実」「世界」「光」「闇」「上」「下」「名前」「目撃の証」「罪」「裁き」「永遠のいのち」「栄光」「パン」「水」「時間」などの、象徴的なキーワードが多用されます。イエスさまを信じることがどれほど人を変えて行くのか、それがうかがい知れるような福音書です。結果としてヨハネの福音書は、他の福音書とはまったく異なる救世主イエスさま像を描き出し、人々の心を揺り動かす言葉でつづられた福音書になりました。ヨハネの福音書は、何世紀もの間、クリスチャンの間で最も読まれ愛された福音書です。




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ヨハネの福音書:第1章

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ヨハネの福音書第1章第1節~第18節:プロローグ:救世主、永遠の「ことば」

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Prologue: Christ, the Eternal Word

プロローグ:救世主、永遠の「ことば」


1 In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God.

1 最初に「ことば」はすでに存在していました。「ことば」は神さまとともにあって、「ことば」は神さまでした。

2 He existed in the beginning with God.

2 この方(「ことば」)は、最初に神さまとともに存在していました。

3 God created everything through him, and nothing was created except through him.

3 神さまはすべてのものを、この方(「ことば」)を通じて造りました。造られたもので、この方を通じずにできたものは一つもありませんでした。

4 The Word gave life to everything that was created, and his life brought light to everyone.

4 「ことば」は造られたものすべてにいのちを与えました。そしてそのいのちがひとりひとりに光をもたらしました。

5 The light shines in the darkness, and the darkness can never extinguish it.

5 その光は闇の中で輝きます。闇はその光を打ち消すことはできません。

6 God sent a man, John the Baptist,

6 神さまは一人の男を送りました。洗礼者ヨハネです。

7 to tell about the light so that everyone might believe because of his testimony.

7 この人はその光について伝えるために来ました。すべての人が彼の証言によって信じるためです。

8 John himself was not the light; he was simply a witness to tell about the light.

8 ヨハネ自身はその光ではありませんでした。その光について伝える、ただの証言者でした。

9 The one who is the true light, who gives light to everyone, was coming into the world.

9 すべての人に光を与える真の光である方が、世に来ようとしていました。

10 He came into the very world he created, but the world didn’t recognize him.

10 この方は、まさにご自身が造られた世に来られたのですが、世は、この方がわからなかったのです。

11 He came to his own people, and even they rejected him.

11 この方はご自分の人々のところへ来られたのに、その人々でさえこの方を拒絶したのです。

12 But to all who believed him and accepted him, he gave the right to become children of God.

12 しかし、この方を信じ、受け入れたすべての人々に対しては、この方は神さまの子供となる特権をお与えになりました。

13 They are reborn -- not with a physical birth resulting from human passion or plan, but a birth that comes from God.

13 その人々は生まれ変わるのです。それは人間の欲求や計画の結果生じる肉体的な誕生のことではなく、神さまから来る誕生です。

14 So the Word became human and made his home among us. He was full of unfailing love and faithfulness. And we have seen his glory, the glory of the Father’s one and only Son.

14 そこで「ことば」は人となり、私たちの間に住みました。この方は、絶えることのない愛と誠に満ちていました。そして私たちはこの方の栄光を見たのです。それは父の、ただ一人の子としての栄光です。

15 John testified about him when he shouted to the crowds, “This is the one I was talking about when I said, ‘Someone is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’”

15 洗礼者ヨハネは、この方(イエスさま)について証言し、群衆に向かって叫んで言いました。「『私の後から来る方がいる。この方は私よりはるかにまさる方である。なぜならこの方は私よりずっと先におられたのだから。』と私が言ったのは、まさにこの方のことです。」

16 From his abundance we have all received one gracious blessing after another.

16 この方の豊かさの中から、私たちはみな、恵み多き祝福を次々と受けたのです。

17 For the law was given through Moses, but God’s unfailing love and faithfulness came through Jesus Christ.

17 というのは、律法はモーゼを通して与えられましたが、神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れたのです。

18 No one has ever seen God. But the unique One, who is himself God, is near to the Father’s heart. He has revealed God to us.

18 いまだかつて神さまを見た者はいません。ですが、ご自身が神さまであるただひとりの方が、父(なる神さま)の心の近くにいるのです。この方が私たちに神さまを明らかにされたのです。




ミニミニ解説

ヨハネの第1章です。

第1節はとても有名な出だしです。[新改訳]では、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」となっています。

最初に読むと「ことば」?と、疑問符が浮かびます。「ことば」、何のことでしょう。この「ことば」が、どうやらイエス・キリストを指していることは、読み進むに連れてわかってきます。そして第14節で、「ことば」が人となり、私たちの間に住んだ、と説明されてそうであることがはっきりわかります。

「Word(ことば)」は、当時のユダヤ人とギリシア人の神学者や哲学者によって使われていた言葉だそうです。たとえば旧約聖書の中では、Psalm 33:6(詩編第33章第6節)に「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」([新改訳])と、「ことば」は神さまの手段(あるいは代理人のようにも受け取れます)のように書かれたり、あるいは神さまが人間に与えた預言や律法(法律)を指したりします。ギリシア哲学では、「ことば」は世界を支配する原理や、心の中にある思想として取り扱われるそうですが、ユダヤ人は「ことば」を神さまを指すもう一つの言葉として扱ったのです。ヨハネが「ことば」という表現にこめたのは、自分が接した一人の人としてのイエスさまであると同時に、宇宙の創造者であり、解き明かされた神さまの姿であり、地上に実在した正しく神聖な存在としてのイエスさまのことです。

第1節~第2節には、三つのことが書かれています。(1)イエスさまが最初からいたこと、(2)イエスさまが神さまと共にいたこと(ある意味、イエスさまは神さまとは別ということです)、(3)イエスさま自身も神さまであったこと(神さまとは別に、イエスさまという神さまがいたことになります)。これを読んだユダヤ人は、神さま以外に別の神さまを説くことを冒涜と感じたでしょうし、ギリシア人には「ことばが人になる」などという発想は通じなかったでしょう。

第3節、すべての物は神さまがイエスさまを通じて造ったのだ、と言っています。宇宙も神さまが造られたのだし、私たちひとりひとりも神さまに造られた、すべてが被創造物です。自分は神さまがいなければ存在しなかったのだし、自分が持っている肉体や能力もすべて神さまが与えた物です。それがすべてイエスさまを通じて行われています。神さまは、特別な愛情を持って、わざわざ自分の姿を模して人間を創造しました。ですから、自分に与えられた肉体や能力は、神さまの意図や計画に基づいているのです。もし自分の存在の意味や人生に疑問があるのなら、一人で悩むよりも、自分を造った神さまにきくのが一番だと思います。

第4節~第5節、イエスさまがいのちの源であり、そのいのちが光を与え、その光は闇に負けることがない、と書かれています。イエスさまが与える光は、愛であり、希望であり、平和です。また真理へと至る道です。イエスさまの与える光を受け取り、その光をたどろうとする人は、イエスさまと同様に、闇に負けることがない、というのです。

第6節に書かれた「洗礼者ヨハネ」は、ヨハネの福音書を記述したとされる「使徒のヨハネ」とは別人です。イエスさまが地上に現れる約400年前に記述された、旧約聖書の最後の本である「Malachi(マラキ書)」は、次のように締めくくられています。Malachi 4:5-6(マラキ書4章第5節~第6節)です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。この言葉の後、神さまからのメッセージは約400年の間沈黙しますが、その沈黙が破られた様子は、新約聖書のルカの福音書の冒頭に、この洗礼者ヨハネの誕生として描かれています。洗礼者ヨハネが、マラキの預言した「預言者エリヤ」であったことは、後に明らかになります。イエスさまの出現に先駆けて、洗礼者ヨハネは、道を整え、救世主としてのイエスさまを指し示すために現れたのです。

第10節~第11節、イエスさまが地上に現れると、イエスさまの行うことは旧約聖書に記述された救世主に関する預言をことごとく実現していたにも関わらず、ユダヤ人はイエスさまが救世主だとは気づかず、最後には拒絶して十字架にかけて殺してしまいました。ですが、イエスさまを信じ、救世主として受け入れた人には、神さまの子として、生まれ変わる特権が与えられたのです(第12節~第13節)。その生まれ変わり、誕生は、私たちが知っている肉体的な誕生ではなく、神さまから来る誕生だ、と書かれています。

私たちは肉体的な誕生を経て、肉体的ないのちを得ますが、そのままでは誰もが間違いなくある日死んでしまいます。ですが、神さまから来る誕生を経て、神さまから来るいのちを得れば、そのいのちは肉体が滅んだ後も永遠に生きるのです。これを聞くと、あぁ、なるほど宗教なのだな、天国に行くことを言っているのだな、そういう思いこみのことだろう、と考える方もいるかも知れません。が、聖書の記述が他の宗教と異なるのは、この神さまから来るいのちは、人が努力をして勝ち取る類のものではなく(つまり生きている間に行った善と悪のバランスなどで決まるのではなく)、いのちを司る神さまが、「ください」という人には、どんな人にでも一方的に与える、としているところです。逆に言えば、たかだか被創造物の人間が努力して勝ち取れるものは、つかの間の冨や名声、見せかけの幸福であって、それはある日失われてしまうのです。それともう一つ、キリスト教が他の宗教と大きく違うのは、約2000年前に書かれて変わることのない書物としての「聖書」が、いま私たちの目の前にあるということです。この本は誰でもどこでも買うことができます。何が書いてあるのか気になる人は、いつでも自分で聖書を開けて確認できるのです。

第14節、ことばは人となり、私たちの間に住みました。救世主に関する預言を実現するために、初めて神さまが肉体を持ち、地上に立ったのです。それがイエス・キリストです。イエスさまについては、「Father’s one and only Son」と書かれていて、ここで強調されているのは「one and only」(ただ一人の)の部分です。また子供の部分には「Son」という単語をあてています。イエスさまを信じる人が神さまの子供になる、という場合に使われるのは、「God's children」で、「Son」が使われるのはイエスさまについての場合です。なお、聖書の預言によれば、救世主はもう一度地上に戻ってくることになっています。旧約聖書の預言がことごとく実現してイエスさまが現れたのならば、イエスさまの再来も預言どおりに実現すると考えるのはしごく普通なのではないか、と思います。そのときの様子は、同じヨハネによる本で新約聖書の最後の「Revelation(ヨハネの黙示録)」に書かれています。「終わりの日」に地上で起こる悲惨な出来事の様子です。

第17節、モーゼは旧約聖書の律法五書である「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Levitecus(レビ記)」「Nubmers(民数記)」「Derteronomy(申命記)」の記述者とされ、これらの本には「Ten Commandments(十戒)」に代表される、神さまがユダヤの民に与えた律法(法律)が書かれています。「律法が書かれている本」というと「六法全書」のような法律書を想像されるかも知れませんが、旧約聖書のこの部分は物語として書かれていますので、印象はだいぶ異なります。またここには「神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れた」とありますが、他の場所でイエスさまは、自分は律法を成就、あるいは完成させるために来た、というようなことを言っています。

たとえば法律は「これこれの手続きをとれば離婚が成立する」と定めますが、この法律が存在することと、「離婚」が法の制定者の意図であったかは別のことです。夫婦は本来最初から別れるために結びついたわけではありません。が、人がその結婚の意図や意味を理解できない事態になったなら、事が穏便に済むように、言うならば「仕方なく」離婚の手続きを定めたのが、離婚に関わる法律ということなのかも知れません。と言うことは法律は、その条文を読むときに、制定者の意図を考えないと適切な遵守ができないと言うことになります。イエスさまは、モーゼが神さまから預かってユダヤの民に伝えた律法について、その後ろにある、神さまの意図を具現化した人として地上に現れました。神さまは最初に「ことば」としての律法をモーゼを通じて人々に示し、今度はその「ことば」を人格化して具体的なひとりの人として人々に示したのです。「ことば」が人となったのです。当時のエルサレムで政治的に大きな影響力を持っていたファリサイ派は、律法の拡大解釈をたてにして、この後イエスさまを追いつめようとして行くのですが、神さまが定めた律法の意図である、慈悲、愛、誠、許しの視点から発言するイエスさまの言葉には、周囲の聞き手を十分に納得させる権威があり、人々は「こんな話はきいたことがない」とイエスさまへの支持を強めていきます。

第18節、イエスさまの権威は、イエスさま自身が神さまであり、律法を定めた神さまのもとから来たからこそ、備わっているものなのです。






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ヨハネの福音書第1章第19節~第34節:洗礼者ヨハネの証言、イエスさま、神さまの子羊

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Testimony of John the Baptist

洗礼者ヨハネの証言


19 This was John’s testimony when the Jewish leaders sent priests and Temple assistants from Jerusalem to ask John, “Who are you?”

19 ユダヤの指導者たちがエルサレムから祭司と寺院の者たちを送り、洗礼者ヨハネに「あなたは誰なのですか。」とたずねさせたときのヨハネの証言はこうでした。

20 He came right out and said, “I am not the Messiah.”

20 ヨハネはまっすぐに出てきて言いました。「私は救世主ではありません。」

21 “Well then, who are you?” they asked. “Are you Elijah?” “No,” he replied. “Are you the Prophet we are expecting?” “No.”

21 彼らはたずねました。「では、いったいあなたは誰なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは答えました。「いいえ、違います。」「あなたは我々が待ち望むあの預言者なのですか。」「いいえ、違います。」

22 “Then who are you? We need an answer for those who sent us. What do you have to say about yourself?”

22 「だったらあなたは誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事を持ち帰らなければならないのです。あなたは自分自身を何だと言われるのですか。」

23 John replied in the words of the prophet Isaiah: “I am a voice shouting in the wilderness, ‘Clear the way for the Lord’s coming!’”

23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉をもって答えました。「私は、『道を整えよ、主が来られる。』と、荒野で叫ぶ声です。」

24 Then the Pharisees who had been sent

24 それから遣わされたファリサイ派の人たちが

25 asked him, “If you aren’t the Messiah or Elijah or the Prophet, what right do you have to baptize?”

25 たずねました。「あなたが救世主でもなく、エリヤでも、あの預言者でもないのなら、何の権限であなたは洗礼を授けているのですか。」

26 John told them, “I baptize with water, but right here in the crowd is someone you do not recognize.

26 ヨハネは言いました。「私は水で洗礼を授けますが、ちょうどこの群衆の中に、あなた方の知らない方がおられます。

27 Though his ministry follows mine, I’m not even worthy to be his slave and untie the straps of his sandal.”

27 その方の活動は、私の活動に続くことになるのですが、私にはその方の召使いとなる価値もないし、その方のサンダルの紐を解く価値もないのです。」

28 This encounter took place in Bethany, an area east of the Jordan River, where John was baptizing.

28 この出会いは、ヨルダン川の東岸川のベタニヤでの出来事です。ヨハネはそこで洗礼を授けていたのです。



Jesus, the Lamb of God

イエスさま、神さまの子羊


29 The next day John saw Jesus coming toward him and said, “Look! The Lamb of God who takes away the sin of the world!

29 その翌日、ヨハネはイエスさまが自分の方へ来られるのを見て言いました。「見なさい。世の中の罪を取り除く神さまの小羊です。

30 He is the one I was talking about when I said, ‘A man is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’

30 この方こそ、私が、私の後から来る人がいる、その方は私よりはるかにまさる方である、なぜならその方は私よりずっと先におられたからだ、と言った人です。

31 I did not recognize him as the Messiah, but I have been baptizing with water so that he might be revealed to Israel.”

31 私はこの方が救世主とは知りませんでした。しかし私が水で洗礼を授けていたのは、この方がイスラエルに明らかにされるためだったのです。」

32 Then John testified, “I saw the Holy Spirit descending like a dove from heaven and resting upon him.

32 ヨハネは証言して言いました。「私は聖霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまるのを見ました。

33 I didn’t know he was the one, but when God sent me to baptize with water, he told me, ‘The one on whom you see the Spirit descend and rest is the one who will baptize with the Holy Spirit.’

33 私にはこの方がそうだとは知りませんでしたが、神さまが水で洗礼を授けさせるために私を遣わされたとき、次のように私に言われました。『ある人の上に聖霊が降りてきて、とどまるのが見えたなら、その方こそ、聖霊によって洗礼を授ける方である。』

34 I saw this happen to Jesus, so I testify that he is the Chosen One of God.”

34 私はそれがイエスさまに起こるのを見たのです。だから私は証言します。この方こそが、神さまに選ばれた方です。」




ミニミニ解説

ヨハネの第1章です。

第19節、ユダヤの指導者たちがエルサレムから祭司と寺院の者たちを送ります。第24節にはファリサイ派の人たちも送られていたと書かれています。この出来事の場所は第28節にベタニヤだと書かれていますが、このベタニヤはどうやらエルサレム郊外のベタニヤとは別の場所のようで、エルサレムから東へ15kmほど行き、ヨルダン川が死海へ注ぎ込む少し北を東へ渡ったあたりのようです。

派遣された祭司と寺院で働く人たちは、ユダヤの氏族の中でレビ族に属する人たちになります。レビ族は旧約聖書の律法五書の中で、神さまが自分のための仕事をする氏族として特別に選んだ氏族です。恐らくヨルダン川の東に、何やら人を集めて洗礼を与えている者がいる、という情報がエルサレムに届き、いったい何が言われ、何が行われているのかを確認する目的で派遣されたのでしょう。イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国は属州を管理する上で、征服民に一定の統治権を与える方法を取りました。しかし属州内に不穏な動きがあれば、ローマ帝国は問題の芽を摘むために乗り出して来て、統治権を取り上げてしまうかも知れません。ユダヤの指導者たちはローマ帝国から許された既得権を維持したかったので、イスラエル内のいろいろな動向に気を配っていたのです。

第20節~第23節のやりとりは、以下の旧約聖書の預言に基づいています。Deuteronomy 18:15(申命記第18章第15節)で、モーゼは「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」([新改訳])と予告して言っています。これが「あの預言者」です。

またMalachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節には、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])と書かれており、これが「あなたはエリヤですか。」の問いの意味になります(洗礼者ヨハネの外観や服装は、旧約聖書に描かれた預言者エリヤに酷似していました)。そして救世主(メシア)です。イスラエルに救世主が現れることは、旧約聖書の何カ所かで予告されています。エルサレムから来た使節団は、旧約聖書に基づいて、この三つの可能性を検証しました。

これに対するヨハネの答は、私は、『道を整えよ、主が来られる』と荒野で叫ぶ声です、でした。これはIsaiah 40:3-5(イザヤ書第40章第3節~第5節)に書かれている言葉です。「3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」([新改訳])。ヨハネは自分が誰なのかを問われて、それには答えず、ただ自分が来た目的を旧約聖書から引用して答えました。つまり、救世主の先駆者として道を整える自分の到来も、旧約聖書に予告されているのですよ、と告げたのです。

洗礼者ヨハネは、その名の通り、人々に洗礼(バプテスマ)を授けていたのでした。洗礼を受けたいという人と共にヨルダン川にザブザブと入っていき、その人を一度水の中に水没させる、そんな儀式です。当時、エッセネ派と呼ばれる人たちがいて、ユダヤ人の中でも特に厳格で禁欲的な派として知られていました。このエッセネ派は、「浄化」「清め」の目的で洗礼の儀式を行っていました。が、洗礼を授ける対象は、普通はユダヤ人でない人で、異国人がユダヤ主義に改宗したいと表明したときに、汚(けが)れた存在である異国人を清めるために洗礼を授けていたそうです。

第25節でエルサレムから派遣された人たちが「何の権限であなたは洗礼を授けているのですか。」とたずねたのは、まずユダヤ人には清めは不要だと言う考えがあるからだと思います。ユダヤ人はユダヤ民族であるが故に既に清いと言う考えです。それでどうして清める必要のない、つまり生まれつき清いユダヤ人にわざわざバプテスマを授けるのか、という意図でたずねているのです。

さらに言うと、神さまから選ばれた民であるユダヤ人が清めのための洗礼を要するほど汚れている、だから清めのための洗礼を授けるなどというのは、人間のできることではありません。大変畏れ多いことなのです。そんな儀式を堂々と行うとは、そんな権威をいったい誰から得たのか、と批判しているのです。たとえば旧約聖書のEzekiel 36:24-26(エゼキエル書第36章第24節~第26節)には次の記述があります。「24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」([新改訳])。ここで「わたし」と言っているのは預言者エゼキエルに語りかけている神さまです。汚れたユダヤ人に清い水を振りかけ、ユダヤ人を清められるのはそれが神さまだからです。

第26節~第27節、ヨハネの答は「私は水で洗礼を授けているが、私の後からもっと偉大な人が現れる」という内容でした。自分は、水で洗礼を授けるという象徴的な儀式をして、ただ後に備えて準備をしているにすぎず、真の意味で罪を清める権威を持った救世主は自分の後から来る、というのです。第27節で、ヨハネは自分はイエスさまのサンダルの紐を解く価値もない、と言っていますが、一方のイエスさまが洗礼者ヨハネのことを評価した箇所が、Luke 7:28(ルカの福音書第7章第28節)にあります。ここには「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」([新改訳])と書かれていて、イエスさまはヨハネはこれまでに生まれた人間の中で誰よりも一番優れている、というのです。なんというほめ言葉でしょうか。でもイエスさまの言葉にはさらに続きがあって、そこには「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」と書かれています。これは、地上にいる人間は、神さまから見れば、どの人も等しく汚れた存在であり、その意味ではそれほど優れたヨハネさえ、そのままでは神聖な神の国(天国)には入れない、と言うことです。ではどうしたら、人は天国に入れるのでしょうか。その方法は、ヨハネの福音書を読んでいくうちに、たびたび登場します。

第28節、最初に書いたように、このベタニヤは、エルサレム郊外でマリヤとマルタの姉妹が住んでいたベタニヤとは別の場所で、エルサレムから東へ15kmほど行って、ヨルダン川を東へ渡ったあたりのようです。

第29節、ヨハネが群衆の前でイエスさまを指さして「神の羊」と言います。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人にとっての羊は「いけにえ」として捧げられる動物です。毎朝、毎夕、エルサレムの寺院では羊がいけにえとして捧げられます(儀式の手順に従って殺し、燃やし尽くします)。これはモーゼの律法書に定められた手順で、神聖な神さまに対する人の「汚れ」について、その代償を支払うために、繰り返し羊の「いのち」が捧げられなければならないと定めているからです。

旧約聖書はイエス・キリストを指し示す、と言われますが、旧約聖書に書かれた律法や預言は、ことごとく救世主としてのイエスさまが成就する事柄の「型」(英語では「antitype」)になっています。旧約聖書には、光としての救世主イエスさまの「影」が書かれている、という人もいます。旧約聖書の中に、イエスさまが地上に現れる700年近く前に記述された「Isaiah(イザヤ書)」という預言書があり、その中に救世主について記述した箇所があります。第53章全体が救世主についての記述なのですが、その中でIsaiah 53:7(イザヤ書第53章第7節)には、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」([新改訳])と書かれています。神さまが用意した人間救済の計画は、最後の完璧ないけにえとして、神さまであるイエスさまを人として地上に立たせ、このイエスさまのいのちを奪うことで、人の汚れを完全にぬぐい去る、罪に対する支払いを完了させる、というものでした。だから、イエスさまは「神の羊」と呼ばれるのです。

イエスさまは洗礼者ヨハネの洗礼を受けました。たとえばMatthew 3:13(マタイの福音書第3章第13節)から、そのときの様子が書かれていますが、ヨハネは最初は立場が逆である(自分こそイエスさまの洗礼を受けなければいけない存在なのに)と拒絶します。しかしイエスさまが「正しいことをすることがふさわしい」と言うので、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。するとそのとき天が開いて、神さまの霊が鳩のように下ってきて、イエスさまの上にとどまり、さらに天からは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という声が聞こえたのです。第32節でヨハネが「私は聖霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまるのを見ました。」と言っているのはこのときのことです。

第33節、ヨハネが神さまから告げられていた言葉の中では、イエスさまのことを「その方こそ、聖霊によって洗礼を授ける方」と言っています。Matthew 3:11-12(マタイの福音書第3章第11節~第12節)では、やはりヨハネが「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新改訳])と言っています。ヨハネは「水」で洗礼を授け(これは救世主のために道を整えていた象徴的な儀式です)、イエスさまは「聖霊」と「火」の洗礼を授けるのです。

聖霊の洗礼の様子は、「Acts(使徒の働き)」の第2章に書かれています。イエスさまが十字架死の三日後に死者の中から復活し、40日地上に滞在して天に戻ってから七週間後、イエスさまを信じる人たちのところに聖霊が現れ、ひとひとりの信者に宿りました。イエスさまに関する福音が成就した後は、イエスさまを信じる人ひとりひとりに聖霊が与えられるのです。これが聖霊の洗礼です。一方、火の洗礼は、イエスさまが「終わりの日」に再来するときに起こります。つまりまだ実現しておらず、これからこの世の中に起こることです。聖書の中でいくつかの場所でそのときの様子が預言されています。マタイから引用したように、そのときのイエスさまは、福音書に書かれたイエスさまの印象とはまったく異なります。王として戻るイエスさまは、麦と殻を分けて(何かの基準で人を選り分けて)、麦は大切に蔵に納め、殻を消えることのない火で焼き尽くすのです。






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ヨハネの福音書第1章第35節~第51節:最初の弟子

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The First Disciples

最初の弟子


35 The following day John was again standing with two of his disciples.

35 その翌日、(洗礼者)ヨハネは、再び二人の弟子とともに立っていました。

36 As Jesus walked by, John looked at him and declared, “Look! There is the Lamb of God!”

36 イエスさまが歩いて通りかかると、ヨハネはそれを見て言いました。「見なさい。神さまの小羊です。」

37 When John’s two disciples heard this, they followed Jesus.

37 二人の弟子はこれを聞いて、イエスさまについて行きました。

38 Jesus looked around and saw them following. “What do you want?” he asked them. They replied, “Rabbi” (which means “Teacher”), “where are you staying?”

38 イエスさまは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言いました。「何を求めているのですか。」彼らは言いました。「ラビ(『先生』の意味)、どちらにお泊まりですか。」

39 “Come and see,” he said. It was about four o’clock in the afternoon when they went with him to the place where he was staying, and they remained with him the rest of the day.

39 イエスさまは言いました。「一緒に来て見ればよい。」 それは午後四時頃のことで、彼らはイエスさまが泊まっているところまで行ったのでした。そして彼らはその日をイエスさまと共に過ごしました。

40 Andrew, Simon Peter’s brother, was one of these men who heard what John said and then followed Jesus.

40 シモン・ペテロの兄弟アンデレがこの二人のうちの一人で、(洗礼者)ヨハネから聞いてイエスさまにについて行ったのでした。

41 Andrew went to find his brother, Simon, and told him, “We have found the Messiah” (which means “Christ”).

41 アンデレは兄弟のシモンを探しに行って告げました。「私たちはメシヤ(『救世主』の意味)を見つけました。」

42 Then Andrew brought Simon to meet Jesus. Looking intently at Simon, Jesus said, “Your name is Simon, son of John -- but you will be called Cephas” (which means “Peter”).

42 アンデレはシモンをイエスさまに会わせるために連れて来ました。イエスさまはシモンを熱心に見て言いました。「あなたの名前はヨハネの子シモンですが、ケパ(『ペテロ』の意味)と呼ぶことにします。」

43 The next day Jesus decided to go to Galilee. He found Philip and said to him, “Come, follow me.”

43 翌日、イエスさまはガリラヤに行くことを決めました。ピリポを見つけると言いました。「私に着いて来なさい。」

44 Philip was from Bethsaida, Andrew and Peter’s hometown.

44 ピリポはベツサイダの出身で、そこはアンデレとペテロの故郷でした。

45 Philip went to look for Nathanael and told him, “We have found the very person Moses and the prophets wrote about! His name is Jesus, the son of Joseph from Nazareth.”

45 ピリポはナタナエルを探しに行き、彼に告げました。「私たちは、モーゼや預言者が記述した、まさしくその人物を見つけました。名前はイエス、ナザレの人、ヨセフの子です。」

46 “Nazareth!” exclaimed Nathanael. “Can anything good come from Nazareth?” “Come and see for yourself,” Philip replied.

46 「ナザレだって?」ナタナエルは声を上げました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」ピリポは答えて言いました。「来て、自分の目で見なさい。」

47 As they approached, Jesus said, “Now here is a genuine son of Israel -- a man of complete integrity.”

47 二人が近づいてくると、イエスさまは言いました。「さぁ、真のイスラエルの息子が来ました。完全な誠実さを持った人です。」

48 “How do you know about me?” Nathanael asked. Jesus replied, “I could see you under the fig tree before Philip found you.”

48 ナタナエルはたずねました。「どうして私をご存じなのですか。」イエスさまは答えました。「ピリポがあなたを見つける前に、私にはあなたがいちじくの木の下にいるのが見えました。」

49 Then Nathanael exclaimed, “Rabbi, you are the Son of God -- the King of Israel!”

49 ナタナエルは声を上げました。「先生、あなたは神さまの息子、イスラエルの王です。」

50 Jesus asked him, “Do you believe this just because I told you I had seen you under the fig tree? You will see greater things than this.”

50 イエスさまがたずねました。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、と私が言ったから、あなたは信じるのですか? あなたはこれから、もっと大きなことを見ることになります。」

51 Then he said, “I tell you the truth, you will all see heaven open and the angels of God going up and down on the Son of Man, the one who is the stairway between heaven and earth.”

51 そしてイエスさまは言いました。「あなた方に真実を告げましょう。あなた方は、天が開き、神さまの天使たちが人の子の上を上り下りするのを見ることになります。人の子は、天と地をつなぐ階段なのです。」




ミニミニ解説

ヨハネの第1章です。

今回書かれているのは、イエスさまに最初についていった弟子たちの様子です。イエスさまは洗礼者ヨハネの洗礼を受け、ヨハネから「神さまの子羊」と呼ばれた直後、最初の弟子を持ちました。ここに登場するアンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルは、後に弟子たちの中から、特に十二人の使徒として選ばれる人たちに含まれます。ピリポ、アンデレ、ペテロは、ベツサイダ出身と書かれています。ヨハネが洗礼を授けていたのは死海の北岸の少し上のあたりでしたが、ベツサイダはそこから100kmほど北へヨルダン川を遡ったところにあるガリラヤ湖の北岸の港町です。

第40節を読むと、アンデレともう一人は洗礼者ヨハネの弟子だった、と書かれていますから、つまり彼らはわざわざ100km以上も離れた町から死海の辺りまで来て、洗礼者ヨハネと共にいたことになります。イスラエルの都エルサレムは、緯度的には死海の北岸とほぼ同じ位置にありますから、100km北にある田舎町から南の都へ上ってきて、洗礼者ヨハネのメッセージを聞き、ヨハネの弟子になっていた、というところでしょうか。

この頃、やはりイエスさまの弟子として加わったのが、ヨハネの福音書を記述したとされるヨハネと、その兄弟のヤコブですが、その様子はここには書かれていません。ですのでアンデレと一緒にいたもう一人は、ヨハネではないかと思われます。 この二人は、洗礼者ヨハネが「神さまの子羊に着いて行きなさい」と指し示す形で、従う師を洗礼者ヨハネからイエスさまに変えたのでした。 ところが、イエスさまが最初に二人にかけた言葉は、「What do you want?」です。端的に訳すと「何の用だ?」で、英会話では、どちらかと言うと「あっちへ行け」に近いニュアンスで使われます。興味深いです。きちんと理由を言えないような人がやたらと着いてきても困ると言うのでしょうか。それに対して二人は明確には答えず、「どちらにお泊まりですか。」と食い下がります。イエスさまになんとか着いていきたい、という一心なのでしょうか。

第40節、アンデレが兄弟のペテロを探しに行き、「メシアを見つけた!」と告げます。アンデレは短期間で、イエスさまが救世主だと確信し、それをペテロに告げたのです。 ペテロはこの後、聖書の中で大変重要な役割を果たしますが、そのペテロをイエスさまに引き合わせたのは、兄弟のアンデレだった、ということです。

第42節、イエスさまはペテロと出会い、新しい名前を授けました(ペテロはイエスさまに呼ばれるまではシモンだったのです)。「ペテロ」はギリシア語、「ケパ」はアラム語で、「石」の意味です。イエスさまはアラム語を話していたようです。 聖書に登場する人名や地名には、必ずこういう「意味」があり、物語の展開と少なからぬ関係を持ちます。また人名や地名をつけたり、つけ直したりする場面も多数存在します。ペテロはイエスさまが十字架死を遂げるまでは、決して「石」のような存在ではないのですが、イエスさまが復活して天に戻った後で、最初の教会の中で「石」のような確固たる存在となって行きます。神さまは「時間」を超越していると言われますが、イエスさまはこの時点で、そのときのペテロをすでに見ているのでしょう。

ピリポは、知り合いのナタナエルを連れてきます。ナタナエルが最初に言った言葉、「ナザレだって? ナザレから何か良いものが出るとでも言うのか?」の理由は、まずナザレがエルサレムから北へ100kmも離れた田舎にあること、当時は恐らく人口数百人程度の小さな村であったこと、さらには統治国であるローマ帝国の部隊が駐屯していたことなどから、来ていると思われます。それから当時は救世主はダビデ王の家系から出ると信じられていて、旧約聖書のMicah 5:2(ミカ書第5章第2節)には「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」([新改訳])の預言があり、ベツレヘムはダビデの出身地なので、救世主はきっとベツレヘムから来ると思われていました。ベツレヘムはエルサレムと同じくイスラエルの南部にあります。これもナザレを頭から否定する理由になったのかも知れません。

それにしてもそれをわざわざ口に出して言うか、という問題は残ります。つまりナタナエルはズケズケとこういう発言をする人で、イエスさまも「完全な誠実さを持った人」と言っていますから、正しいと思うことを臆面なくズバリ言う人だったはずで、もしかすると周囲の人からは煙たがられるような、そんな人だったのかな、と思います。 その正直で率直なナタナエルに対して、イエスさまは「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」「真のイスラエルの息子」と、理解を示す言葉をかけました。ナタナエルは、ようやく自分を理解してくれる師に巡り会えた、そんな気持ちになったのかも知れません。

第51節、イエスさまがもっとすごいことを見る、として挙げたのが「あなた方は、天が開き、神さまの天使たちが人の子の上を上り下りするのを見る」です。実はこの一節は、旧約聖書の「Genesis(創世記)」の中で、アブラハムの孫ヤコブが見た夢として登場します。Genesis 28:10-15(創世記第28章第10節~第15節)です。

「10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」([新改訳])。

イエスさまは、本当に自分の頭の上に天使が物理的に現れる、と言っているのでなくて、自分はやがて神さまと人をつなぐ階段の役目を果たすことになる、と聖書の一節を引用しながら告げているのだと思われます。






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