福音:一番大切な話

2016年01月24日

福音とは何か

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「福音(ふくいん)」は英語の「Gospel」(ゴスペル)にあてられた日本語訳です。英語の「Gospel」の意味は、語源が「god(=good)」+「spel(=news)」で、合わせると「good news」となり、つまり福音は「良い知らせ」のことです。

聖書には新約聖書の最初に「福音書」の名前がついた本が四つ収録されています。「マタイの福音書」「マルコの福音書」「ルカの福音書」「ヨハネの福音書」です。これら四つの本に書かれているのはイエス・キリストの誕生、伝道活動、十字架死、復活です。つまりイエス・キリストについての一連の話が「福音書」であり、すなわち「良い知らせ」ということです。

聖書は大きく旧約聖書と新約聖書に分かれます。全体の四分の三を占める前半部分の旧約聖書は、全体が「イエス・キリストを指し示す本」と言われています。後半の新約聖書で4冊の福音書を除く残りの23冊はイエス・キリストを信じる人に宛てられた手紙の集まりなので、やはり「イエス・キリストに関わる本」ということになります。ということは聖書は全体がイエス・キリストについて書かれた本であり、つまり聖書全体が「良い知らせ」ということです。

「あなたに良い知らせがあります!」と言われたら「なになに?」と聞きたくなるのが心情です。それでは聖書全体に書かれている「良い知らせ」とは何のことなのでしょうか。それがこのセクションに書かれている、みなさんに必ず読んでいただきたい「一番大切な話」なのです。次のふたつの記事をいますぐ読んでください。




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一番大切な話

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この記事はこのブログの中で一番大切な話です。聖書に書かれている「福音(=良い知らせ)」とは何か。それは「天国へ至る方法」です。聖書には人が天国に入るには特別な労力はいらないと書かれています。天国へ入る資格が欲しいのなら「欲しい」と言えば無償であげると書かれています。これは「良い知らせ」ではありませんか?

「あなたはどうすれば天国へ行けると思いますか」と質問すると、天国の存在自体を信じるかどうかを別にすると、たぶん死んだ後に、生きている間に行った「善い行い」全部と「悪い行い」全部を大きな天秤ばかりにかけるような「裁き」があり、はかりが「善い」の方へ傾いたら天国に行けるのだと思う、というような回答をする人がいます。そしてその人には天秤ばかりがどちらに傾くかについての確証はありません。これだと自分が天国へ行けるのかどうかは非常にあいまいで、そのときになるまでわからないことになります。「それでは大変不安でしょう?」ときくと「大変不安ではあるが、それはあたりまえのことで、逆に天国行きの確証がある人というのは存在するのですか」ときき返されます。

聖書には、天国行きの資格は何かしらの努力を経て「勝ち取る」とか「達成する」ものではなくて、神さまから「受け取る」ものだと書かれています。しかもその代償として私たち人間の側から神さまに差し出さなければならないもの、払わなければならない対価はありません。神さまが私たちに一方的にくれるのです。いったいどういうことなのでしょうか。意味がわかりませんよね。気前が良すぎますか? そんな虫の良い話があるわけがない? ただより高いものはない? それをこのページで説明します。


罪(sin)について

天国と地上の違いは何でしょうか。天国には神さまがいて地上には人間がいます。神さまは永遠に生きる存在で人間はある日死んでしまいます。人間が死んだ後で肉体から抜け出た魂が神さまのいる天国へ行けるかどうかを決める要因があります。それが「罪(sin)」です。この話をすると、なるほど罪のある人間は天国へ入れないと言っているのだな、それはわからない話ではないと言う人は多いです。

ところで日本語で「罪(つみ)」と言うと「犯罪」をイメージしやすいです。「犯罪」にあたる英単語は「crime(クライム)」ですが、聖書に書かれている「罪」は「crime」のことではありません。これから説明する「罪」は、英単語では「sin(シン)」にあてられた訳語です。「sin」を辞書で引くと「I (宗教・道徳上の)罪, 罪業、II 〔世間の習慣・礼儀作法に対する〕過失, 違反、III 《口語》 ばち当たりなこと, ばかなこと」と書かれていて([研究社:新英和中辞典第6版])、一般的にも「crime」と「sin」が区別されていることがわかります。

繰り返しますが、聖書によると人間が天国へ入れるかどうかを決める要因は「罪(sin)」です。罪(sin)があれば人は天国には入れません。では罪(sin)とは何なのか、自分には罪(sin)はあるのか、罪(sin)の有無は誰が決めるのか、ということになります。

聖書では天地を最初に作ったのは創造主である神さまで、神さまは天地を支配する王です。天国では今日も無数の天使が神さまを褒め称えています。つまり神さまひとりが王であり法律です。神さまが善いと言うものは善く、悪いというものは悪い、ということになります。「そんなきまぐれな」と嘆く必要はありません。なぜなら神さまは不変であり、神さまの下す善悪の判断基準もいつも不変だからです。聖書を読むと、そこに書かれている善悪の判断基準は特別なものではないとわかります。辞書にも「(宗教・道徳上の)罪」と書かれていたように、私たちの知っている道徳観・倫理観と通じる部分がたくさんあるのです。

「罪(sin)」という言葉はもともと「的(まと)から外れること」を意味します。聖書によると人間は神さまが天地を創造した過程の中で土から造ったのですが、その際には他の動物とは違ってわざわざ神さまが自分のイメージを映して創造しています。他の動物から区別して特別に愛情を注ぎ、特別な「意図」を持って造ったのです。ところが造られた人間は神さまの期待を裏切って神さまを繰り返し失望させてしまいます。これが罪(sin)です。つまり罪(sin)とは神さまの意図から外れて「神さまをガッカリさせてしまうこと」の総称です。神さまがあなたを見て何かにガッカリしたらあなたには罪(sin)があるということです。

それから神さまがあなたを見ていて、あなたのこういう面にはガッカリしたけど、こっちの方を見るとかなり見所があると思えると言うような、いわゆる「天秤ばかり」的な話は、天国へ入る資格には通用されません。神さまが何かにガッカリしたらそこには確かに罪(sin)が存在したのです。天国へ入れるかどうかを決めるのは「罪(sin)の有無」なのですから、代わりにどんなことをしても自分の罪(sin)を埋め合わせることはできません。罪(sin)がひとつでもあったら、神さまが一回でもガッカリしたらアウト、その時点で失格なのです。


律法

罪(sin)がひとつでもあったらアウト、これは大変厳しいルールです。では神さまはいったいどんなときにガッカリするのでしょうか。神さまは過去に一度、自分の判断基準である法律を人間に示したことがあります。いまから約3500年前に神さまがユダヤ人のモーゼという人を介してユダヤ人に与えた法律集です。それは聖書の中では旧約聖書の「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Levitecus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」の五冊の本に書かれていて、英語ではこの部分を「Law」、日本語では「律法(りっぽう)」と呼んでいます。

律法は狭義では「Ten Commandments(十戒)」に集約されると言われ、広義では律法五書と、さらにユダヤの慣習法までのすべて合わせると数百件の命令になると言われています。ちなみに「十戒」は私の言葉で要約すると次のようになっています:

  • 一. 聖書の「神さま」以外の神を崇拝してはいけない。
  • 二. 偶像(金属・木・石などで作る神仏の像)を作って拝んではいけない。
  • 三. 神さまの名前をみだりに唱えてはいけない。
  • 四. 安息日(いまの土曜日)を聖なる日として仕事を休む。
  • 五. 父母を敬う。
  • 六. 人を殺さない。
  • 七. 姦淫(倫理にそむいた肉体関係を)しない。
  • 八. 盗まない。
  • 九. 嘘をつかない。
  • 十. 他人のものを欲しがらない。

神さまはこれらのことに背いたらガッカリすると言っているのです。最初の四つは自分と神さまとの関係、残りの六つは自分と他の人との関係についての命令です。私たちの知っている道徳観・倫理観とかなり通じる部分がたくさんあると思いませんか。聖書では神さまの判断基準である「善悪の概念」はあらかじめ人間の心に書いてある、だから聖書を読まなくても善悪の判断はつくだろうと書かれた部分がありますが、なるほどたしかにそうかも知れません。さて自分には「罪(sin)」はあるでしょうか。天国に入れそうですか? ちなみに聖書の律法では父母を敬わなかった人は死罪です。


神さまは人の心を見る

いまから約2000年前にいまのイスラエルにイエスという人が現れ、人々に「神さまの王国」について教え始めました。イエスの時代のイスラエルには「ファリサイ派」と呼ばれる政治派閥がありました。この人たちは聖書の学者で自分たちは十戒はもちろんのこと、数百件に及ぶ律法の命令はすべて守っていると主張して人々の尊敬を集めていました。これに対してイエスは「たとえば律法は人を殺してはいけないと定めているが、(実際に殺害の行為には到らなくても)正当な理由もないのに人に腹を立てる人は裁きをうけなければならない」「たとえば律法は姦淫してはいけないと定めているが、(実際の姦淫の行為には到らなくても)情欲を抱いて女性を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したことになる」と言いました。つまり腹を立てれば殺したのと同じこと、情欲を抱いたら浮気をしたのと同じこと、その人たちには「罪(sin)」があると言うのです。

イエスが言ったのは律法の制定者の意図のことです。たとえば「50キロの制限速度」という法律は「50キロの制限速度を超えた人から罰金を徴収するため」「罰金さえ払えば50キロ制限を超えた人も社会で許容するため」に作られた法律ではありません。制定者の意図は「交通の安全を守りたい」「社会の安全を犯す者には適切に罰を加えたい」「そうやって安全を犯す危険な行動を抑止したい」というところにあったはずです。だとしたら「50キロを超えても大した問題ではない。そもそも捕まらなければ良いのだし、たとえ捕まっても罰金を払えば済むこと」と思っている人は、その時点でこの法律の制定者の意図に反してしまい、制定者をガッカリさせていることになる、というのがイエスの話の趣旨です。

聖書には「神さまは人の心を見る」と書かれている部分が何カ所かあります。もし神さまが私たちの実際の行動ではなく心を見ながら罪(sin)の有無を判断しているのだとしたら、天国行きはかなり難しくなるのではないでしょうか。たとえば先ほどの十戒は次のように読み替えることができるのかも知れません:

  • 一. 私は聖書の神さまを崇拝しているだろうか。逆に聖書に書かれた神さま以外の何かを神格化して崇拝していないだろうか。
  • 二. 私の心の中には偶像としてあたかも神さまのように崇拝している人やものはないだろうか。
  • 三. 私は「神」という言葉を必要もないのに使うことはないだろうか。私は神さまを理由にして自分を正当化することはないだろうか。
  • 四. 「安息日」はどう解釈したら良いのだろう。神さまの守りと導きを疑いなく信じて、思い煩うことや心配することなく週に一日の休日を安らかにすごすこと、あるいは神さまを覚え神さまに感謝し神さまを賛美するための日を週に一日確保するということだろうか・・・。
  • 五. 私は心の中で父母に怒りを覚えたことはなかっただろうか(=それは父母を敬わなかったのと同じこと)。
  • 六. 私は心の中で人に腹を立てることはないだろうか(=それは人を殺したのと同じこと)。
  • 七. 私は倫理的に関係が許されない異性を見て心が動いたことはなかっただろうか(=それは姦淫を犯したのと同じこと)。
  • 八. 私は心の中で他の人のものを欲しいと思うことはないだろうか(=それは盗んだのと同じこと)。
  • 九. 私は嘘をついたことはないだろうか。
  • 十. 私は心の中で他人をうらやんだことはないだろうか。

こうなると天国行きはかなり難しいどころか可能性はほとんどゼロでしょう。しかも人生の間で神さまが一度でもガッカリすることがあればそこで有罪が確定なのです。そしてどんな方法でも埋め合わせることはできない・・・。本当に基準はそんなに厳しいのか、そもそもこれで天国に入れる人がいるのか、と思うでしょうか。


罪のない人はひとりもいない

それはそのとおりで、この条件をクリアして天国に入れる人などあり得ません。聖書によれば天国に入れる人はひとりもいないのです。神さまは「神聖(holy)」です。神さまのいる天国も神聖です。神聖とは「まったく汚(けが)れがない」ことを言います。これに対して神さまから見たとき「罪(sin)」は「汚れ」なのです。罪(sin)で汚れた人間は神聖な天国には入れません。この話のどこが「福音(=良い知らせ)」なのかと思われるかも知れません。福音が福音である理由は、天国行きの資格が、何かしらの努力を経てそんな逆境から「勝ち取る」とか「達成する」ものではなくて、神さまから「受け取る」ものだからなのです。話の続きに期待してください。

ところで「罪」があれば「罰」があります。「福音(=良い知らせ)」の仕組みを説明する前に「罰」の話をしておきます。罪(sin)に対して人間に課せられた罰は「死」です。ひとつでも罪(sin)を犯せば人は死ななければなりません。でも死なない人はいませんよね。どんな人でもいつかは死ぬ。実はその理由は、人に罪(sin)があるからなのです。もともと人間は神さまと同じ、死なない存在として造られたのですが、神さまの期待を裏切って罪(sin)を犯したので、その罰として死ぬことになったのです。

聖書によると「死」は「切り離されること」を意味します。そして罪(sin)に対する死は二段階でやって来ることになっています。第一段階は私たちが知っている死のことです。これは「魂が肉体から切り離される」ことを言います。第二段階は最後の最後に「その魂が神さまから完全に切り離される」ときのことを言います。このとき天国に入れなかった魂は火の池に投げ込まれることになっています。聖書には、そこは投げ込まれた魂が永遠に火に焼かれ、蛆(うじ)に食われ、歯ぎしりの声が絶えることがない場所だと書かれています。それがどんなところなのかとても想像できませんが、行きたくなるような場所でないことは確かです・・・。


罪の購(あがな)い

「購(あがな)い」という言葉は私たちの日常の会話で聞くことはありません。「購(あがな)う」は「お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをする」ことで([新明解国語辞典])、英語では動詞が「atone(アトーン)」、名詞が「atonement(アトーンメント)」です。

「罪(sin)」をどのように購うのでしょうか。罪(sin)について、旧約聖書の律法には「お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをする」方法が書かれています。その埋め合わせの方法は「いのち」なのです。罪(sin)に対する罰が死なのですから、埋め合わせをする方法がいのちなのは当然と言えば当然です。でも自分の罪(sin)を購うために自分のいのちを差し出しては埋め合わせにはなりません。旧約聖書の律法で、埋め合わせのために捧げるいのちは自分の身代わりとなる「いけにえ」のいのちなのです。聖書には「生き物のいのちは血の中にある」と書いてあります。このため律法が定める罪(sin)の購いの儀式では、定められた手順に沿っていけにえを殺して神殿の祭壇に血を注ぐのです。聖書の律法にはこの手順が事細かに書かれています。

ところがそうやって人間の身代わりになって捧げられる羊などの動物の血の効力は限定的なのです。限定的であるが故に、身代わりのいけにえの血は、定期的に繰り返し捧げなければならないと定められています。聖書の他の箇所ではこのことについて、もし羊の血が罪(sin)を完全に購うのなら、祭壇に羊の血を振りかけた時点で心の中から罪の意識がぬぐわれるはずだ、しかしそのようなことは一向に起こらない、だから羊の血はあくまでも間に合わせにすぎないのだとも書いています。


福音

ここからがいよいよ福音(=良い知らせ)の話です。ここまでの話を要約すると、神さまを一度もガッカリさせないでいられる人間はひとりもいない。すべての人は例外なく罪(sin)で汚れている。汚れた人間は神聖な天国には入れない。罪(sin)に対する罰は死である。だから人間は必ず死ぬことになった。汚れを洗い流すために聖書に示された方法、いけにえの羊の血による購いは間に合わせの方法なので最終的な解決方法ではない。だから罪(sin)について自分の力ではどうしようもない。こうして私たち人間は絶望的な状況に置かれることになりました。創造主である神さまの期待を裏切ってしまった結果です。

これに対する解決策は神さまの側から用意されました。ひとえに神さまの優しさと思いやりによるものです。それが福音(=良い知らせ)です。その方法とは「完璧ないけにえの血による罪の購い」です。羊のような間に合わせのいけにえではなく、完璧ないけにえを神さまが用意しました。その「完璧ないけにえ」がイエス・キリストなのです。

罪(sin)で汚れた人間の身代わりにいけにえの動物を殺しても完全な購いとはならない。動物ではなく別の人間を殺してもその人も同じように汚れているのですから購いにはなりません。購いのために殺すとしたら「汚れのない完璧な人間」でなければなりません。すべての人間が汚れている以上そんないけにえは地上にはいません。完璧ないけにえとなったイエスは人間の姿をとって天から地上に降り立った神さまなのです。

イエスは神さまのひとり息子です。イエスは神さまの意志を全うするために、神としての能力をすべて捨てて、ひとりの人間として地上に降りました。イエスは神さまなので「神聖(holy)」です。汚れはありません。そしてイスラエルの都、エルサレムで十字架刑に処されました。
いまから約2000年前の出来事です。このときイエスは、過去から未来に渡り、世界中のすべての人間の罪(sin)を購ういけにえとなったのです。これで人間に課された罰に対する支払いが完済したのです。つまり神さまは、特別な愛情を注いで創造した人間を救うために、自分のたったひとりの息子をいけにえとして捧げたということです。

購いが完了し、罪(sin)に対する罰として課された死がなくなれば人間は死ぬ必要はありません。神さまは人類救済の計画を完遂させたイエスを褒め称え、十字架死の三日後にイエスを死者の中から復活させました。聖書には数百人の人が復活したイエスを目撃したと書かれています。イエスの復活は、死が克服できることの証明です。福音を信じる人には同じことが起こると、神さまはイエスを最初の例として示したのです。復活したイエスは40日後に天へ戻り、いまは父なる神さまの右の座に就いて、福音を信じる人たちのためにいろいろな取りなしをしてくださっています。


この話が信じられますか?

どうですか? この話が信じられますか? 天国へ入るための方法は神さまが用意してくれました。すべての人間の罪(sin)の購いはいまから2000年前に済んでいます。あなたも私も神さまの恵みにより天国へ招かれているのです。これは神さまからの一方的なご好意です。

聖書にはもしあなたがこの招待に応じたいのならその旨をきちんと自分の口で告白してくださいと書いてあります。罪(sin)の購いが済んだからすべての人間を自動的に天国へ招くというわけではないのです。神さまは王です。私たち人間はさまざまな局面で王である神さまの期待を裏切ってガッカリさせて来ました。それなのに神さまは、自分の側からわざわざ救いの手を差し伸べてくださいました。ここで私たち人間がしなければいけないのは自分の罪(sin)を認め、謝罪して許しを乞い、今後は神さまの期待に沿えるように行いを改めると誓い、神さまの用意された購いの計画を褒め称え、感謝して受け取ることなのです。

もしこの話が信じられるのであれば次のようなお祈りをしてください。下に書いたお祈りはひとつの例です。同じ趣旨のお祈りを自分の心から自分の言葉で告白してください。誰かと一緒でも自分ひとりでもかまいません。自分の部屋でも車の中でもかまいません。必ずきちんと声に出して言ってください。

神さま、
私は自分の罪を認めます。私は何度も神さまをガッカリさせてきたことでしょう。
大変申し訳ないことをしました。ごめんなさい。どうか私を許してください。
神さまはこんな私のためにわざわざイエスさまを地上へ送ってくださいました。
私はイエスさまが神さまであると信じます。
イエスさまは私の身代わりになって私の罪を背負い十字架で死んでくださいました。
そして神さまは三日後にイエスさまを復活させ、死が克服できることを証明してくれたのです。
私はこれからは神さまの期待に応えられるように行いを改めたいと思います。
ですからどうか私の中に入り、いつも私と一緒にいて私を守り導いてください。
このお祈りをイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン

このお祈りをすることで人は「福音(=良い知らせ)」を受け入れたことになります。そういう人を「救われた(saved)」人と言います。天国で記録されていた私たちの罪(sin)に関する記録はその時点ですべて消去され、私たちは神さまからあたかもそれまで一度も罪(sin)を犯していない真っ白な人間として扱われます。その人と神さまの間を隔てていた罪(sin)が消滅するので、その人は神さまとの関係を取り戻します。罪(sin)による汚れがまったくないので初めて神聖な神さまの前に立つことができるのです。

聖書は「救われた(saved)」人は「洗礼(baptism:バプティズム)」を受けるように記述しています。「洗礼(baptism)」は通常はキリスト教会で行われ、クリスチャンの兄弟・姉妹が見守る中で全身を水没させる儀式です。「洗礼(baptism)」はあくまでも福音を受け入れた後に行う儀式ですから、行わなかったからと言って天国行きが取り消されることはありません。その一方で聖書が行うように記述している儀式なのですから、チャンスがあるのに行わなければ神さまは失望するのではないかと思います。これは自分が福音を恥じないことを行動として示す儀式なのです。 

聖書はまた「救われた(saved)」人が教会に集うように記述しています。「洗礼(baptism)」と同様に、教会に所属しなかったからといって天国行きが取り消されることはありません。が、やはり聖書が記述することなのでチャンスがあるのに教会に加わらなければ神さまは失望するのではないかと思います。


受け入れられない理由

ひととおりこの話をした後で「どうですか? この話を信じますか? 一緒に福音を受け入れるお祈りをしますか?」ときくと躊躇する人はたくさんいます。荒唐無稽すぎて信じられないという人もいれば、細かなところで納得できないからお祈りはしたくないという人もいます。

どうでしょうか。神さまはあなたを愛していて天国へ招きたいと願っています。決して中途半端な気持ちで上のようなお祈りをして欲しいわけではないでしょう。でも何だかすごく気になる、胸騒ぎがする、本当の話のような気がするのだがどうしてもお祈りをする決断がつかないという人は、代わりにたとえば次のようなお祈りをしてみたらどうでしょうか。

神さま、
私は今日福音に関する話を聞きました。
信じたいという気持ちはあるのですが決心がつかないのです。
どうかお願いです。私を信じさせてください。
どうしたら信じられるのか教えてください。
私を救ってください。


お祈りをしたけれど不安だと言う人へ

福音を受け入れる決断をしてお祈りをしたのだがなんだか不安だという人もたくさんいます。自分が本当に救われたのかどうか確信が持てないし、心の底から神さまを信じられているのかわからない、それは自分の信仰が弱いせいなのかも知れないし、自分の日々の行動が神さまの目にどのように映っているのかとても気になる、という人です。

そういう人たちに私がひとつ言えるのは、もしあなたのそういう不安が天地の創造主であり王である神さまを恐れ崇拝する気持ちから来ているのなら何も心配はないということです。あなたの不安はあなたの最大の関心が神さまにあることの証明なのですから十戒の最初の三つの命令にピッタリ合致しているのではないでしょうか。

不安がどうしても消えないという人は上に書いたのと同じような要領で「私は神さまをもっともっと信じたいのです」「私をもっと信じさせてください」「どうしたらもっと信じられるのか教えてください」と主イエスの名前でお祈りするとよいと思います。










english1982 at 22:00|Permalink

ローマ人の道:Romans Road

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「Romans Road(ローマンズ・ロード)」は直訳すると「ローマ人の道」です。これはクリスチャンが聖書を知らない人に「福音」とは何か、を説明するために用意されたステップのことで、聖書の引用が容易なように考えられています。「Romans」というのは新約聖書に収録されている本の名前で、日本語の聖書では「ローマ人への手紙」にあたります。「Romans」の中からの引用を、順番に道のようにたどれば、福音の意味が論理的にわかりやすく理解できる、ということから「Romans Road」と名付けられたのではないでしょうか。

新約聖書の「Romans(ローマ人への手紙)」は、使徒パウロがローマにいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。内容はパウロがローマを訪れるにあたり、日頃自分がどのような話をしているか、つまりローマに着いた際にはみなさんにこんな話をしますよと、あらかじめ伝えておくために書かれた手紙です。パウロは日々人々にイエスに関する福音を伝えていましたから、手紙の内容も福音を論理的に説明する内容になっていて、そのため福音を伝えるときに引用しやすいのです。当時ローマの教会にいたクリスチャンにはユダヤ人と異邦人(=非ユダヤ人)の両方が含まれていたので、そういう意味でもバランスのとれた本です。

このページでは私が前のページで説明した「一番大切な話」が聖書の中には実際にどのように記述されているのかを示そうと思います。前半は人が罪(Sin)を持つようになった経緯について、後半が人間に示された救済の計画の話です。後半部分の引用が「Romans Road」に近くなるのでこのページをそのように名付けました。



人間の創造

聖書は天地の創造で幕を開けます。神さまは創造の過程の最後に人間を作ります。そのときの様子を読んでみましょう。


Genesis 1:26-29 [NLT]/ 創世記第1章第26節~第29節 [新改訳]

26 Then God said, “Let us make human beings in our image, to be like us. They will reign over the fish in the sea, the birds in the sky, the livestock, all the wild animals on the earth, and the small animals that scurry along the ground.”

26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

27 So God created human beings in his own image. In the image of God he created them; male and female he created them.

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

28 Then God blessed them and said, “Be fruitful and multiply. Fill the earth and govern it. Reign over the fish in the sea, the birds in the sky, and all the animals that scurry along the ground.”

28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

29 Then God said, "Look! I have given you every seed-bearing plant throughout the earth and all the fruit trees for your food.

29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。


神さまは人間を作るときにわざわざ「われわれに似せて」、つまり神さまご自身の姿を映して作りました。そして目的も「地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」、つまり地上の支配者として創造したのです。


人間に与えられたルール

最初の人間はアダムです。神さまがアダムに与えたルールはひとつだけでした。後に神さまがモーゼを介して示した律法では狭義なら「十戒」の10のルール、広義なら数百件のルールがありますが一番最初のルールはたったひとつだったのです。


Genesis 2:16-17 [NLT]/ 創世記第2章第16節~第17節 [新改訳]

16 But the Lord God warned him, “You may freely eat the fruit of every tree in the garden --

16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

17 except the tree of the knowledge of good and evil. If you eat its fruit, you are sure to die.”

17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


神さまは人間を創造したときに「わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる」と言って地上のすべての木をアダムに与えました。でもその中にひとつだけ例外があったのです。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない」。ルールはこれだけです。ただしルール違反をした場合の罰則は強烈です。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」ですので。

地上のあらゆる木の実は自分の好きなように食べて良かったのです。その中にたった1本だけ、その実を食べてはいけない禁断の木があるのです。これは「欲しがること」を悪とするルールです。神さまは「強欲であってはならない」と命じているのです。どうでしょう。自分がアダムだったらこのルールは守れるでしょうか。


ルール違反

神さまは男のアダムのパートナーとして女のエバを与えました。最初のカップルです。ルール違反をしてしまったのはエバの方でした。ヘビにそそのかされてしまったのです。そのときの様子を読んでみましょう。


Genesis 3:1 [NLT]/ 創世記第3章第1節 [新改訳]

1 The serpent was the shrewdest of all the wild animals the Lord God had made. One day he asked the woman, “Did God really say you must not eat the fruit from any of the trees in the garden?”

1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」


ヘビがやってきてエバに話しかけますが、このときヘビは神さまの言葉をわざとねじ曲げます。神さまはアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言ったのです。ところがヘビは「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか!?」と神さまの言葉を逆転させて事態を大げさにねじ曲げてふっかけます。

神さまからの命令を直接聞いたのは夫のアダムでした。エバはアダムからルールを聞かされていたはずです。神さまから直接命令を受けていないエバを狙うあたり、ヘビは巧妙です。


Genesis 3:2-3 [NLT]/ 創世記第3章第2節~第3節 [新改訳]

2 “Of course we may eat fruit from the trees in the garden,” the woman replied.

2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

3 “It’s only the fruit from the tree in the middle of the garden that we are not allowed to eat. God said, ‘You must not eat it or even touch it; if you do, you will die.’”

3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」


エバはヘビの相手なんかしなければ良いのに誘いに乗って話し始めます。「いえいえ違いますよ。木の実はどれでも食べて良いのです・・・」という風に。ところが話の途中で禁じられた木の実について「それに触れてもいけない」とエバは言っています。神さまはそんなことは言っていません。エバの感情が少し入ったのです。ヘビは狡猾です。「あぁ、少し不満に思っているな・・・」とエバのどこを攻めれば落ちるのかに気づきます。


Genesis 3:4-5 [NLT]/ 創世記第3章第4節~第5節 [新改訳]

4 “You won’t die!” the serpent replied to the woman.

4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

5 “God knows that your eyes will be opened as soon as you eat it, and you will be like God, knowing both good and evil.”

5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」


「あなたがたは決して死にません」は嘘です。神さまははっきりと「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言いましたから。ヘビはエバの言葉の中に不満の色を感じ取ったので、嘘をついてだましにかかります。でもいったい何のためにだまそうというのでしょうか。

これに続く「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っている」は木の実に関する秘密をこっそり暴露しましょう、という感じです。本当はあの木にはこんなにすごい秘密があるんですよ、でも神さまをそれをあなたたち人間に分け与えるつもりなどないのです、神さまはずるいと思いませんか!という感じです。


Genesis 3:6a [NLT]/ 創世記第3章第6a節 [新改訳]

6a The woman was convinced. She saw that the tree was beautiful and its fruit looked delicious, and she wanted the wisdom it would give her. ...

6a そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。・・・


そう言われてエバは木の実を見ます。すると木の実は本当に食べ頃に熟れていておいしそうです(ということはエバとヘビは問題の木のすぐ近くで話していたのでしょうか)。しかも食べれば神さまのように賢くなると言うのです。そうしたら自分たちが神さまになれるのかも知れない・・・。そんなことを考えていたらエバの心の中は食べたい気持ちで一杯になります。「あぁ、食べたい」「食べたい」「食べたい」。「神さまはずるい」「ずるい」「ずるい」。こうなると人間は欲望を抑えることはできません。


Genesis 3:6b [NLT]/ 創世記第3章第6b節 [新改訳]

6b ... So she took some of the fruit and ate it. Then she gave some to her husband, who was with her, and he ate it, too.

6b それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。


結局食べてしまいます。まずエバが食べて続いてアダムも食べます。アダムはいったいいつから一緒にいたのでしょうか。きっとヘビが来たところからずっと一緒にいたのです。


Genesis 3:7[NLT]/ 創世記第3章第7節 [新改訳]

7 At that moment their eyes were opened, and they suddenly felt shame at their nakedness. So they sewed fig leaves together to cover themselves.

7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。


実を食べた二人は自分たちが裸であることに気づきます。そして恥ずかしくなってイチジクの葉をつづり合わせて腰のまわりにまといました。

聖書の中では「裸」は「罪(sin)」の象徴です。実を食べたアダムとエバは突然「恥ずかしく」なりました。何だかわからないけど裸でいることについていままでに味わったことのない、居ても立ってもいられない「不安な気持ち」になったのです。そして不安から逃れるためにイチジクの葉をまとった。そうしたら「少し安心した」のです。

どうして恥ずかしくて不安なのでしょうか。これは人間が「神さまから切り離されたこと」の自覚症状です。人間は神さまから切り離されると不安になるのです。その不安な気持ちへの対処法は今回は「イチジクの葉」でした。これは「人間独自の知恵と努力」のことです。人間はなんとか神さま抜きでやっていこうと知恵をしぼり努力してイチジクの葉を考案したのです。

すごいですか。涙ぐましくて情けないです。これで不安は解消されたのでしょうか。ほんの一時しのぎです。神さまから切り離されている限り人間は不安です。そしてそれを紛らわすための知恵や努力はみな一時しのぎで根本的な解決にはならないのです。


罪(sin)に対する罰

アダムとエバがたったひとつのルールを破って木の実を食べたことで、神さまはまずガッカリしました。木の実を食べた人間は裸の状態が不安になり、恥ずかしくて居ても立ってもいられなくなりました。だったらその時点で神さまに謝罪すれば良かったのに、二人は自分たちの知恵と努力でイチジクの葉を身につけました。これは「自分たちは神さま抜きでやっていく」という意思の表明です。神さまはさらにガッカリです。

人間に対する期待が裏切られて神さまはガッカリしました。神さまの意図や期待から外れることが「罪(sin)」なのです。こうして人間に「罪(sin)」が生じました。神聖で嘘のない神さまにとって「罪(sin)」は「汚れ」(けがれ)です。神さまはもはや人間と一緒にいることはできません。特別な愛情を注いで作った大切な人間なのに、神さまは自分の元から追放しなければならなくなりました。


Genesis 3:17-19[NLT]/ 創世記第3章第17節~第19節[新改訳]

17 And to the man he said, “Since you listened to your wife and ate from the tree whose fruit I commanded you not to eat, the ground is cursed because of you. All your life you will struggle to scratch a living from it.

17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

18 It will grow thorns and thistles for you, though you will eat of its grains.

18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

19 By the sweat of your brow will you have food to eat until you return to the ground from which you were made. For you were made from dust, and to dust you will return.”

19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」


この部分は神さまが人間を「呪う」場面です。神さまは神聖なので悪を見逃すことはできません。悪には必ず報いが与えられます。人間が神さまを裏切ったことで「地上」全体が呪われました。それは人間が食を得るために苦しまなければならないようにするためです。人間はそうやって苦しんで苦しんで食を得るためにがんばったあげく最後には死ぬ。これが人間にかけられた「呪い」です。

人間はどこから来てどこへ行くのだろうと考えたことがあるでしょうか。これがその答えです。人間には苦しみの中を生きて最後には死んで土に返るように神さまから呪いがかけられているのです。これが禁じられた果物を食べた罪(sin)に対する罰です。



その後どうなったか

こうして神さまはアダムとエバをエデンの園から追放しました。ですがこれはきっと神さまが示した愛情なのです。戸棚に入れておいた大切なお菓子、絶対に触れてはいけないと言っておいたのに、子供は悪いやつにそそのかされてつい食べてしまった。誰にでもあることです。ところが子供は素直にあやまることができません。「私が悪かったです」「ごめんなさい」「許してください」「もうしません」が言えません。だからお父さんは「お前はうちの子じゃない。出て行きなさい!」と子供を外に追い出します。誰にでも想像できると思います。遠い昔の最初の人間にも同じことが起こったのです。

お父さんは子供に何を期待しているでしょうか。「お前はうちの子じゃない。出て行きなさい」は本心ではありません。お父さんは心を鬼にして子供を突き放しているのです。お父さんだって心配で仕方ありません。でも悪いことは悪いと学んで欲しいのです。子供には後悔して自分の行いを改める決心をして謝罪の言葉と共に自分のところへ帰ってきて欲しいのです。

ところが聖書ではこの後の人間は神さまの期待を裏切りっぱなしです。神さまはその途中で自分のメッセージを世界へ伝える民としてユダヤ民族を選びます。その最初の人となったアブラハムこそ神さまから「信仰厚い」との言葉をいただきますが、代が進むにつれて神さま離れは甚だしくなります。本当にまれに「神さまに立ち返ろう」と信仰の復興が起こるのですが、ほとんどの時代は神さまをガッカリさせっぱなしの状態です。

みなさんのまわりを見回してみてください。天地を創造した神さまを信じている人がいるでしょうか。私たちひとりひとりの人間は、神さまが特別な愛情を注いで行った創造と言う活動の産物なのです。それなのに私たちが日々の生活の中で誰も造り主のことを気にかけていないのだとしたら、さらに「自分だけが頼り、自分で何とかしよう」と思って生きているのだとしたら、そして「人間はどこから来てどこへ行くのだろう」「結局最後には死んでしまうのだよな」「死ぬのは嫌だな」などと思い悩んでいるとしたら、神さまはさぞかしガッカリでしょう。



血の購(あがな)い

神さまがモーゼを通じてユダヤ民族に与えた律法の中に「罪(sin)の代償を支払う方法」を書いた箇所が何カ所かあります。それは「血の購い」です。たとえば次のように書いてあります。


Leviticus 17:10-11[NLT]/ レビ記第17章第10節~第11節 [新改訳]

10 “And if any native Israelite or foreigner living among you eats or drinks blood in any form, I will turn against that person and cut him off from the community of your people,

10 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

11 for the life of the body is in its blood. I have given you the blood on the altar to purify you, making you right with the Lord.[e] It is the blood, given in exchange for a life, that makes purification possible.

11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。


まず「肉のいのちは血の中にある」と書かれています。聖書によると「いのち」=「血」なのです。そしていのちである「血」は「これをあなたがたに与えた」と書かれていますから、神さまから私たち人間に与えられたものなのです。そしてその目的は「あなたがたのいのちを祭壇の上で贖うため」とされています。

「贖(あがな)う」は「お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをすること」です([新明解国語辞典])。私たちが神さまをガッカリさせて背負った「罪(sin)」に対する「罰」は「死」でした。そしてその代償としての「いのちの購い」、つまり「代わりの埋め合わせ」は祭壇の上に血を注ぐことで行うのです。いけにえとして捧げられるいけにえの動物の血(=いのち)は、その目的で私たち人間に与えられているのです。

聖書には、地上でたった一カ所だけ定められたユダヤの神殿の祭壇で、どのような手順で動物の血を捧げるべきかが詳細に記されています。血の購いの儀式です。注目すべきはこの儀式は繰り返し行うことが義務づけられているということです。人間が犯した罪(sin)についての埋め合わせにいけにえの動物の血を捧げて行いますが、動物の血の効力は限定的なのです。たとえ動物の血を捧げても「恥ずかしい」「居ても立ってもいられない」と言うような不安な気持ちは一向に解消されません。それは動物の血による購いは神さまから律法で定められた儀式とは言え、結局のところ間に合わせにすぎないからです。



救世主の約束

神さまは期待を裏切り続けるユダヤ民族に対して「預言者」を次から次へと送ります。「預言(prophecy)」は「予言(prediction)」とは異なり、神さまの「言葉」を「預かる」ことを言います。預言者がユダヤ民族に繰り返し告げたメッセージは次のように要約できます:

  • 創造主である神さまに立ち返りなさい。
  • 自分の罪を認め、後悔し、行いを改めなさい。
  • もしも行いを改めなければ他民族にイスラエルを攻めさせ国外へ追放する。

預言者は神さまからの言葉としてユダヤ民族に対して厳しい勧告を行いました。王にも役人にも人々にも耳が痛い言葉なので歓迎されません。預言者は迫害され、ときには捕らえられて監禁され、挙げ句の果てには殺されたりもしました。

「悔い改めよ」と告げる預言者がもうひとつ伝えたメッセージがあります。それが救世主の約束です。神さまは預言者を通じて次のように約束します。

  • だが自分はユダヤ民族を最後まで捨て置くことはしない。必ず救世主を送る。

救世主の到来はどのように預言されていたのでしょうか。旧約聖書の「イザヤ書」には救世主がどのように人間の罪を購うかまでが具体的に書かれていますので、やや長いですがここから引用して読んでみます。イザヤはイエスの時代から700年も前の預言者です。


Idaiah 53:1-12[NLT]/ イザヤ書第53章第1節~第12節 [新改訳]

1 Who has believed our message? To whom has the Lord revealed his powerful arm?

1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

2 My servant grew up in the Lord’s presence like a tender green shoot, like a root in dry ground. There was nothing beautiful or majestic about his appearance, nothing to attract us to him.

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 He was despised and rejected -- a man of sorrows, acquainted with deepest grief. We turned our backs on him and looked the other way. He was despised, and we did not care.

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4 Yet it was our weaknesses he carried; it was our sorrows that weighed him down. And we thought his troubles were a punishment from God, a punishment for his own sins!

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 But he was pierced for our rebellion, crushed for our sins. He was beaten so we could be whole. He was whipped so we could be healed.

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6 All of us, like sheep, have strayed away. We have left God’s paths to follow our own. Yet the Lord laid on him the sins of us all.

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 He was oppressed and treated harshly, yet he never said a word. He was led like a lamb to the slaughter. And as a sheep is silent before the shearers, he did not open his mouth.

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 Unjustly condemned, he was led away. No one cared that he died without descendants, that his life was cut short in midstream. But he was struck down for the rebellion of my people.

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 He had done no wrong and had never deceived anyone. But he was buried like a criminal; he was put in a rich man’s grave.

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

10 But it was the Lord’s good plan to crush him and cause him grief. Yet when his life is made an offering for sin, he will have many descendants. He will enjoy a long life, and the Lord’s good plan will prosper in his hands.

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

11 When he sees all that is accomplished by his anguish, he will be satisfied. And because of his experience, my righteous servant will make it possible for many to be counted righteous, for he will bear all their sins.

11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 I will give him the honors of a victorious soldier, because he exposed himself to death. He was counted among the rebels. He bore the sins of many and interceded for rebels.

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


これによると「彼」と訳された救世主は:

  • 私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない(つまり救世主は華々しく王のように出現するわけではない)。
  • さげすまれ人々からのけ者にされ悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ私たちも彼を尊ばなかった(逆に迫害を受け苦難の道を歩む) 。
  • 私たちの病を負い私たちの痛みをになった。だが私たちは彼は罰せられ神に打たれ苦しめられたのだと思った(救世主は人々に代わって痛みを担うが、人々は彼の苦難の理由は彼自身に罪があるのだと誤解する)。
  • しかし彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。
  • 私たちはみな羊のようにさまよいおのおの自分かってな道に向かって行った(自分たちは自分勝手な道を歩み神さまをさんざんガッカリさせたのに)。しかし主は私たちのすべての咎を彼に負わせた(神さまはそんな人間の罪をすべて救世主に背負わせて身代わりにした)。
  • 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
  • 彼の時代の者でだれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ生ける者の地から絶たれたことを(救世主を見ている人たちは救世主が自分たちの身代わりになっていることに気づかない)。
  • 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが(彼自身は悪いことをすることもなかったし嘘の証言もなかったが、他の悪者と共に裁かれて葬られた)。
  • しかし彼を砕いて痛めることは主のみこころであった。もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ主のみこころは彼によって成し遂げられる(だが救世主を裁くことが神さまの意図だった。救世主が自分のいのちを犠牲にして捧げることで、その子供となる人間はいのちを得る。こうして神さまの意志が成就する)。



救世主の到来

いまから約2000年前、神さまの約束通りに救世主イエスが地上に現れました。イエスは人々の前で奇跡の技を行い、数百年以上も前の預言を次々と成就して自分が神さまのもとから来た神さまのひとり子、待望の救世主であることを証明しました。

ですがやはりこれも預言のとおり人々はイエスが救世主であることに気づかずに、イエスを十字架にかけて殺してしまいます。次の聖書の引用は聖書全体を要約した句として、聖書の中で最も有名な部分です。


John 3:16[NLT]/ ヨハネの福音書第3章第16節 [新改訳]

16 “For God loved the world so much that he gave his one and only Son, so that everyone who believes in him will not perish but have eternal life.

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


イエスはすべての人間の罪を背負って身代わりとして死にます。そうすることで罪(sin)に対する支払いは完了します。こうして人間が神さまのもとへ戻る道が用意されたのです。

神さまは任務を完了させたイエスを褒め称え、十字架刑の三日後にイエスを死者の中から復活させます。神さまの力は私たちが何よりも恐れる死を克服できると証明したのです。弟子たちは復活したイエスと出会いイエスが救世主であると確信します。そしてイエスがかねてから約束していたとおり、イエスが天へ戻った後でイエスを信じる人ひとりひとりに「Holy Spirit(聖霊)」が訪れます。弟子たちは聖霊を受けとると力強くイエスに関わる良い知らせ(=福音)を伝え始めます。

ここまで「ユダヤ人」「ユダヤ人」と書いてきましたが、弟子たちが福音を伝えていく過程で福音が異邦人(=ユダヤ人以外の人)にも開かれていることがわかります。これは旧約聖書の中にも預言されていたことです。



ローマ人の道

ここまでの話を新約聖書の「Romans(ローマ人への手紙)」の中から引用したものが「Romans Road(ローマ人への道)」です。


Romans 3:23[NLT]/ローマ人への手紙第3章第23節 [新改訳]

23 For everyone has sinned; we all fall short of God’s glorious standard.

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・


すべての人は例外なく罪(sin)を犯し神さまをガッカリさせています。神さまの善の基準に到達できる人はひとりもいません。


Romans 6:23a[NLT]/ローマ人への手紙第6章第23節前半 [新改訳]

23a For the wages of sin is death,

23a 罪から来る報酬は死です。


罪(sin)に対する罰は死です。人間は神さまをガッカリさせたので、その罰として死ななければなりません。


Romans 6:23b[NLT]/ローマ人への手紙第6章第23節後半 [新改訳]

23b but the free gift of God is eternal life through Christ Jesus our Lord.

23b しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


ですが良い知らせがあります。神さまはプレゼントとしてイエス・キリストを通じた永遠のいのちを私たちに用意してくださっています。


Romans 5:8[NLT]/ローマ人への手紙第5章第8節 [新改訳]

8 But God showed his great love for us by sending Christ to die for us while we were still sinners.

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。


神さまは私たち人間のためにわざわざ自分のひとり息子であるイエスを地上に送り私たちの身代わりのいけにえとして捧げてくださいました。これが神さまが人間に示した愛なのです。


Romans 10:13[NLT]/ローマ人への手紙第10章第13節 [新改訳]

13 For “Everyone who calls on the name of the Lord will be saved.”

13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。


イエスを救い主として呼び求める人には誰にでもいのちが与えられます。


Romans 10:9-10[NLT]/ローマ人への手紙第10章第9節~第10節 [新改訳]

9 If you confess with your mouth that Jesus is Lord and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved.

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10 For it is by believing in your heart that you are made right with God, and it is by confessing with your mouth that you are saved.

10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。


イエスに関する福音を信じそれを自分の口で告白することで神さまからの福音の贈り物を受け取ることができます。心で信じることで神さまはその人を正しいと認め、その人が自分の口で告白をするのを聞いて永遠のいのちを授けるのです。


Revelation 3:20[NLT]/ヨハネの黙示録第3章第20節 [新改訳]

20 “Look! I stand at the door and knock. If you hear my voice and open the door, I will come in, and we will share a meal together as friends.

20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


イエスから招かれていると感じる人は告白をして戸を開けばイエスがその人の中に入ります。イエスは神さまですから約束を破ることができません。イエスがあなたから離れることは決してありません。



このブログでは「Romans(ローマ人への手紙)」を実際に読むこともできます。興味のある方はどうぞ。



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