聖書とは
2016年01月31日
聖書とは
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・聖書とは
・聖書には何が書かれているのか
・どうして聖書は難しいのか
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このカテゴリでは、聖書には何が書かれているのか、そしてどうして聖書が難しいのかを以下の記事で説明しています。
聖書には何が書かれているのか
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・聖書とは
・聖書には何が書かれているのか
・どうして聖書は難しいのか
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聖書には何が書かれているのでしょう
聖書は英語では「Bible(バイブル)」と言いますが、これはギリシア語の「ビブロス」から来ていて、「ビブロス」は「本」のことです。「本」を「ビブロス」と呼ぶようになったのは、当時地中海でパピルス(紙)を輸入していたフェニキアの港町が「ビブロス」と呼ばれたことに発しているようです。つまり「Bible」=「本」なのです。神聖なる神さまのことに関わる本だから、英語ではこれに「Holy(ホーリー:神聖な)」を冠して「Holy Bible(神聖な本)」と呼び、日本語では「本」を意味する「書」に「聖」の文字を冠して「聖書」としたのでしょう。どちらにしても「聖書」のタイトルの意味はただの「本」です。
聖書の中は大きく、旧約聖書と新約聖書に分かれます。実際には聖書の中には66冊の独立した本があり、これが大きく旧約聖書の39冊と新約聖書の27冊にまとめられています。単に「本」を意味する「聖書」という言葉の前に、ここで「旧約」と「新約」の二つの言葉がつきました。これらの意味は何でしょう。
「旧約」と「新約」、それぞれに含まれる「約」の文字は、契約・約束の「約」です。つまり「旧約」と「新約」は「古い約束」と「新しい約束」になります。旧約聖書は新約聖書よりもはるか昔に書かれた本の集まりなので、最初に結ばれた約束と後から結ばれた約束をそれぞれ「古い約束」「新しい約束」と呼んだのです。なるほどなるほど。だとすると次の質問は「それはどんな約束なのですか」ですね。
大まかに言うと旧約聖書は「救世主の訪れ」を約束し、新約聖書は「救世主の再来(もう一度来ること)」を約束しています。まず最初に旧約聖書が「救世主が来ます」と約束し、新約聖書の最初のところで、その約束どおりに救世主イエスが訪れます。新約聖書の中ではその救世主イエスが「自分はもう一度来る」と約束しています。簡単に言うと聖書はそういう本です。
こう書くといかにもシンプルに聞こえますが実際に本を開いてみるとどうも理解に苦しむ。そんな単純な本には見えない。そもそも「救世主」、英語では「Savior」「Messiah(メシア)」と呼ばれる存在の意味がわからない・・・、というようなことになります。その救世主とやらはいったい誰を何から救うのか・・・。実はその意味を知ることが聖書の書かれた理由、究極の課題だったりするのです・・・。
このセクションでは聖書の理解を難しくしている、その理由についていくつか書いてみようと思います。
どうしたら「聖書を知った」ことになるのか
私が最初に切実に「聖書について知りたい!」と思ったのは英語の教会の礼拝に通い始めた頃です。牧師さんが説教の途中で、たとえば「Luke chapter 2, verse 11(ルカの福音書第2章第11節)を開いて」と言うと、まわりの人がみんな一斉にパラパラと聖書のページをめくって言われたページをほぼ同時にサクっと開くのを見たときです。「おお~、カッコイイ!」「自分もあんな風になりたい!」というのが正直な気持ちでした。
何回か教会に通って説教を聞いていると、どうやらまわりのみんなは聖書に収録された「Gospel of Luke(ルカの福音書)」などの各本が聖書の中のどのあたりにあるか、の他にも「暗黙のうちに知っているはずの事柄」があるらしいことに気づきました。はっきり言って「聖書の各本が聖書のどのあたりにあるか」は、他の人より時間がかかったとしても「目次」を見れば見つかるわけです。そうではなくて長い間聖書や教会と親しんできたことで身に付いている何か、特別な知識があるようなのです。
それはだいたい次のようなカテゴリに整理できると思います:
- 聖書の構成 :聖書に収められた各本の名前と、そこに書かれているおおまかな内容。
- 主な登場人物 :旧約聖書なら、アブラハム、モーゼ、ダビデ、ソロモンを初めとする登場人物、新約聖書なら、イエス、洗礼者ヨハネ、マリア、ペテロ、パウロを初めとする登場人物。教会に通う人たちは実際はもっともっとたくさんの登場人物を知っています。
- 地理や歴史背景 :聖書は地中海の一番奥の東の海岸のあたり、中東のパレスチナ、いまのイスラエルの国周辺で起こる物語です。この地域の地理と歴史背景がある程度頭に入っています。
- 世界観 :聖書は世界の「始まり」から「終わり」までを記録しているのですが、その「始まり」から「終わり」までの間に、どんな出来事がどのような順番で起こるかについて。このとき「始まり」から「今日」まではすでに起こった出来事ですが、「今日」から「終わり」まではこれから起こる未来の出来事です。
- 教義 :「神とは何か」「罪(sin)とは何か」「救いとは何か」と言った聖書の「解釈」にあたる部分。言い換えると「聖書を読むと神とはこういう存在らしい」「聖書を読むと罪(sin)はこういうことを指すらしい」「聖書を読むと救いとはこういうことを指すらしい」というもの。「教義」は英語では「doctrine(ドクトリン)」と言います。
私は無性にこれらについて知りたくて知りたくて仕方なくなりました。しかも手っ取り早く(笑)。そこで書店で本を買って読みあさりました。「すぐわかる聖書」とか「世界の宗教」などの入門書的なものからある程度専門的なものも少し。結論は、入門書的なものはどうも嘘臭く(本当にわかって書いてるの?)、専門的なものは難解なものが多くて私には意味不明でした。
中にはバランス良く書かれた本もあることはあるのです、そういう本は日本語の意味はわかるのですが、本質的に何を言っているかがわかりませんでした。たとえば「人は救われるためには生まれ変わらなければならない」と書かれていたら、日本語として平易ですから文章の意味は理解できますが、「救われる」(何から?)とか「生まれ変わる」(どうやって?)がわかりませんよね。そんな感じです。また私の本の探し方も悪いのでなかなか良い本に巡り会えませんでした。
それで私は聖書とは何かを追い求めて勉強したのです。そして教えていただいたのです。時間がかかりました。「手っ取り早く」はなかったですがようやくおおまかなところがわかりました。それをこのブログに書きます。そうしたらきっと聖書を知りたい人の役に立つでしょうから。
聖書の構成は別出しにして「聖書の構成」のセクションを設けていますので何度でも見てください。主な登場人物は「新約聖書を読む」と「旧約聖書を読む」の中で説明します。地理や歴史背景は「最初に読む基本情報」セクションに書きます。世界観はあちらこちらに分散して載ることになります。「聖書の構成」の中や「聖書の興味深い話」の中のコラムのいくつかの中で、後には「聖書研究」の中で「終末論」を聖書の中から抜き出したいと思っています。教義には上にも書いたとおりいろいろなトピックがありますから(「神」「罪(sin)」「救い」、・・・)、このブログ全体でカバーされるイメージです。
文脈を知りたいと思いませんか
聖書は辞書や格言集ではありません。教会の礼拝に通ったり聖書を何度か開く機会があると、どうやら聖書が辞書や格言集のような書物ではないことに気づきます。つまりそもそも特定の目的に応じてこういうときにはここを読むというような、いちいちニーズに合わせた答を提供する目的で作られた本ではないということです。どうやら聖書は一冊の全体に意味があり、ある種物語のように流れているようなのです。
たとえば新約聖書に次の一節があります。Romans 10:9(ローマ人への手紙第10章第9節)です。
If you confess with your mouth that Jesus is Lord and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved.([NLT])
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。([新改訳])
どうでしょうか。英語も日本語も文章の意味はわかります。自分の口で「イエスは主です」と言い、自分が「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じるなら自分は「救われる」と言っています。それはわかります。でも、だから告白するか、だから信じるかと言うと、それはそれ別の話です。事はそう簡単ではありません。あるいは「イエスは主です」と自分の口で告白し「神はイエスを死からよみがえらせた」と信じます!と口に出して言ってみたところで、それで本当に自分が「救われた」のか確信が持てません(「主」ってどういうこと? イエスはよみがえったの? だいたい何から救われたの?)。
こうやって聖書の一部が引用されるときには、私はいつもまず文脈が知りたいと思いました。この部分の記述者はどういうことを伝えようとしてこの一節を書いたのか、それを知るためにこの部分の前後のつながりが読んでみたい、と。前後を少し読んでもわからなければもう少し前からもう少し前からと範囲を広げていって、とにかく何か自分で判断を下す前に記述者の言い分について論理的に納得したいと思いました。
これって自然だしフェアだと思います。同意ですか? でもひとつだけ。「本能」とか「直感」てありますよね。論理的には説明できないけど「好き」とか。言葉ではうまく説明できないけど「ヤバい」気がするとか。そういう心にガツンと来る何かは大切にした方が良いと思います。その「ガツン」と来る気持ちを大切にしながら、調べていくのが一番良いと思うのです。
何しろ「神さま」のことを書いた本なのですから最後まで論理で割り切れるはずがありません。でも聖書の中で神さま自身が預言者を通じて次のように呼びかけています。Isaiah 1:18(イザヤ書第1章第18節)です。
Come now, and let us reason together, saith the LORD: though your sins be as scarlet, they shall be as white as snow; though they be red like crimson, they shall be as wool.([KJV] )
「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。([新改訳])
この部分私は「Come now, and let us reason together」の響きが好きなので、ちょっと難解ですが英語は[KJV]で引用してみました。「reason」は名詞で「理由、わけ、動機」などを意味しますが、動詞になると「(論理的に)論じる」です。つまり[新改訳]にあるように「さぁ、来なさい。一緒に論じ合おうではないか。」と神さま自身が人間に呼びかけているのです。だから「ガツン」と来る直感・霊感を大切にしながら納得するまで調べて行きましょう。
どうして聖書は難しいのか
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・どうして聖書は難しいのか
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昔、遠くで、だれか他の人のために書かれた本だから
この記事には「聖書を読む前に頭の片隅に入れておいた方が良いこと」を三つ書いています。
「聖書は難しい」。実はこれは当然なのです。なぜってすごく古くて、すごく遠くで書かれていて、私たち日本人のためにではなくほとんどの部分がユダヤ人に向けて書かれた本だからです。
どのくらい古いかというと、聖書は大きく「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれていて旧約聖書の方が先に書かれたのですが、旧約聖書の一番古い部分は紀元前1500年頃の記述とされています。いまからざっと3500年前です。新しい方の新約聖書で一番最後に書かれた部分は西暦100年頃です。これもいまから1900年くらい前ということになります。では書かれた場所はどこかと言うと、中東、いまのイスラエルのあたりです。どうでしょうか、たとえば今から2000年前のイスラエルがどんな様子だったか頭に浮かびますか? 人々はどんな町に住んで何を着て何を食べ何を話していたのでしょうか。想定された読者がユダヤ人というのも日本人にとっては聖書を難解にします。ユダヤ人・・・、いったいどんな人たちなのでしょう。
たとえばある日私たちが書店で一冊の小説を手に取り、ページをめくると「そのとき突然、部屋の電話が鳴りだした」と書いてあったとします。これは読者が「電話」が何だか知っていることを想定して書かれているのですよね。だからわざわざ「電話」が何であるかは説明しません。では2000年前にイスラエルにいた聖書の記述者が、ユダヤ人の読者なら当然知っているはずと想定していたことは何なのでしょう。それはほとんどの読者が知っているはずの知識なのですから聖書にはわざわざ書かれないということになります。そしてもし私たちがそれを知らないのなら、聖書はきっと難しい本になると思います。
それから同じ観点で逆にちょっと注意した方が良いと思うこともあります。たとえば聖書に書いてあることを読んでそのままなんとなく意味がわかったつもりのことがあったとしても、当時の時代背景や風習を知ると実はもっとずっと深い意味があったとか、実はぜんぜん違う意味だったということもあるかも知れません。たとえば聖書の一節に「彼は突然着ていた服を切り裂いて泣き叫んだ」と書かれていたら、なんとなく情景を目に浮かべることができますが、私たちはこれまでに着ている服を切り裂いて泣く人をどれだけ見たことがあるでしょうか。「着ている服を切り裂く」という情景を想像することはできても、その行為が時代背景や文化背景の中でどういう意味があるのかはここだけではわかりません。
聖書を読む前に知っておいた方がよいことの一つ目は、聖書は、はるか昔にずっと遠くで、よく知らない人たちに宛てて書かれた本だからわからなくて当然ということです。
わざとわからないように書いているから
聖書が難解な理由をもうひとつ挙げると、それは「わざとわからないように書いているから」というのがあります。これは驚きの理由でしょうか。
イエスは新約聖書の福音書の中でたくさんの「たとえ話(parable)」をします。真相をズバリ言わないでいつも何かにたとえて話すのです。だからそれが本当は何のことを言っているのか、はっきりとよくわからないのです。聖書の中にイエスがたとえ話をした後で弟子たちが意味をたずねるくだりがありますが、そのときイエスが次のように「たとえ話の秘密」を明かしています 。Luke 8:9-10(ルカの福音書第8章第9節~第10節)です。英文は[NLT]、日本語は[新改訳]です。
9 His disciples asked him what this parable meant.
9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10 He replied, “You are permitted to understand the secrets of the Kingdom of God. But I use parables to teach the others so that the Scriptures might be fulfilled: ‘When they look, they won’t really see. When they hear, they won’t understand.’
10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
[新改訳]は[NLT]を訳して書かれているわけではないので「so that the Scriptures might be fulfilled」の部分が訳されていません。ここを訳すと「それは次の聖書の言葉が成就するためだ」です。で、その成就されるべき聖書の言葉が「彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らない」になります。つまりイエスはまず「聖書の言葉を実現するため」に「わざわざたとえ話を使っている」ということになります。
このイエスが引用している聖書の言葉は旧約聖書の中の「Isaiah(イザヤ書)」にあります。イエスの時代から700年ほど前に書かれた本です。預言者イザヤはそのとき神さまを見てしまうのです。聖書の中で神さまを見る人はあまりいませんが、神さまを見た人の反応はほとんど同じで、「あぁ、もうだめだ。自分は死ぬ。」と思うようです。神さまの存在があまりに気高く神聖なので、自分のような汚れたつまらない存在が神さまを見てしまったら、きっともう生きていられるはずがないと思うからです。
ところが驚いたことにそのときのイザヤは神さまの力で自分の汚れを清められます。そしてその後神さまが「誰かを遣わしたい」と言うのを耳にして「私を派遣してください!」と名乗り出ます。そのときに神さまがイザヤに命じて言った言葉がイエスの引用した部分になります。Isaiah 6:9-10(イザヤ書第6章第9節~第10節)英文は[NLT]、日本語は[新改訳]です。
9 And he said, “Yes, go, and say to this people, ‘Listen carefully, but do not understand. Watch closely, but learn nothing.’
9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10 Harden the hearts of these people. Plug their ears and shut their eyes. That way, they will not see with their eyes, nor hear with their ears, nor understand with their hearts and turn to me for healing.”
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
ここの部分の解釈は難しいですが、人間の心を鈍(にぶ)らせ理解できないようにしてしまえ、そうやって民が「立ち返っていやされることのないように」と言っています。もしかすると私たちは遠い昔に神さまの怒りに触れて呪いをかけられているということなのでしょうか。だから、私たちの心は鈍くされていて聖書を読んでも聞いても理解できず、結果として決していやされることがないようにされているということなのでしょうか。・・・これは困りましたね。
新約聖書の中にはどうしてイザヤがこれを書いたのかを説明している部分があります。「John(ヨハネの福音書)」の中の一節でまったく同じ箇所からイザヤ書を引用した後でヨハネはこう説明しています。John 12:41(ヨハネの福音書第12章第41節)です。
41 Isaiah was referring to Jesus when he said this, because he saw the future and spoke of the Messiah’s glory.([NLT])
41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。([新改訳])
旧約聖書は「キリストを指し示す本」と言われますがこの一節もそれに基づいていて、つまり預言者イザヤは自分の後700年して救世主として世に現れるイエスを見て(そしてイエスが現れる目的や意図やイエスの成就する事柄を理解して)言ったというのです。イエスが現れて人々がイエスの言葉や奇跡に触れても神さまさまに立ち返り救われるようなことのないように、人々の心を鈍くして理解できないようにしてイエスが聖書が預言した救世主であることに気づかないようにしているということです。・・・う~ん、いよいよ困りました。
求める者には与えられる
ですがあきらめるのはまだ早い。先ほどのイエスのたとえ話についての説明の続きの中で、イエスが次のように言っている部分があります。Luke 8:18(ルカの福音書第8章第18節)です。
18 “So pay attention to how you hear. To those who listen to my teaching, more understanding will be given. But for those who are not listening, even what they think they understand will be taken away from them.”([NLT])
18 だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。([新改訳])
イザヤ書を引用したイエスの言葉を受けて解釈すれば、人々の心は鈍くされ簡単には神さまの言葉が理解できないようにされている、だから注意して聞け、さもないと持っている人にはさらに与えられるが持っていない人からは持っていると思っているものまで取り上げられてしまうぞ・・・。これはひっくり返せば注意して聞けば持っている人にはさらに与えられるということになるでしょうか。
聖書には神さまを追い求める人には道が拓かれ逆に神さまから離れていく人には厳しい結果が待っている、そんな記述がたくさんあります。だから聖書はわからなくて当然、でもわかるまで追い求める、そんな気持ちで取り組むことが必要な本なのです。でも心配しなくても聖書はそもそも十分おもしろいし、読めば読むほど知れば知るほど興味がふくらみます。そして結局それが神さまを追い求めていることになるのです。
最後にもう一カ所、聖書から引用しておきます。Matthew 7:7-8(マタイの福音書第7章第7節~第8節)です。英文は[NLT]、日本語は[新改訳]です。
7 “Keep on asking, and you will receive what you ask for. Keep on seeking, and you will find. Keep on knocking, and the door will be opened to you.
7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8 For everyone who asks, receives. Everyone who seeks, finds. And to everyone who knocks, the door will be opened.
8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
つまり聖書を読む前に知っておいた方がよいことの二つ目は、聖書は読み手に理解できないように呪いがかけられた本なのかも知れないということです。でもあきらめずに追い求めれば必ず理解できるようになっている、とも書かれているということです。
聖書は神さまの言葉
聖書を読む前に知っておいた方が良いことを書いてきましたが、最後の一つは聖書に記述されているのが「神さまの言葉」だと言うことです。
聖書は英語で「God’s Word(神さまの言葉)」と呼ばれることもあります。日本語では「御言葉(みことば)」と呼んだりします。「聖書は神さまの言葉」の意味は聖書を実際に紙に記述したのは人間ですが、記述者は神さまの言葉を記述したのであって、不思議な力に操られるように神さまに動かされて書いたという考えです。これを「預言(prophecy)」と言います。これから起こることを言い当てる「予言(prediction, foretelling)」とは異なり、預言は「神さまの言葉を預かる」のです。
まさか神さまが書いた本だなんて!と思われる方もたくさんいると思います。それを信じるかどうかはともかくとして、聖書という本が少なくともそういう前提で編纂された本だということは知っておいてください。それを知っているだけで理解を助ける部分が多分にあるからです。そしてこれは聖書という本の「前提」なので文句をつけても仕方ないし、逆に言うと別の前提に沿って解釈することには意味がないのです。
神さまの言葉を預かる人を「預言者(prophet)」と言います。また預言者が神さまからの言葉を受け取ることを「Inspiration(インスピレーション)」と言います(日本語にすると「霊感」でしょうか・・・)。預言者の中には預かった言葉を書き物として記述する人もいれば、民の所へ派遣されてメッセージとして伝える人もいます。語る人と書き留める人、どちらも預言者です。また預言者は職業ではありません。預言はある日神さまからの言葉を受け取る形で行われるので、いろいろな職業の人がある日突然預言者になり得ます。またこうして伝えられる「預言」(=神さまの言葉)の中には、「予言」(=これから起こることの予告)もたくさん含まれています。
聖書にはトータルで66冊の本が含まれていて、記述をした人の数は40人を越え、実に様々な職業人です。記述された時期にも1600年の幅があります。それなのに聖書全体には驚くほどの調和が保たれていて聖書全体を貫くメッセージがあります。それは聖書を書いた神さまからのメッセージです。