使徒の働き

2015年08月30日

使徒の働き第2章第1節~第13節:聖霊が訪れる

第2章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Holy Spirit Comes

聖霊が訪れる


1 On the day of Pentecost all the believers were meeting together in one place.

1 五旬節の日、信者全員が一つ所に集まっていました。

2 Suddenly, there was a sound from heaven like the roaring of a mighty windstorm, and it filled the house where they were sitting.

2 突然、天から激しい風がごうごう言うような音がして、信者たちの座っていた家をいっぱいにしました。

3 Then, what looked like flames or tongues of fire appeared and settled on each of them.

3 それから炎のような、あるいは火の舌のようなものが現われて、信者たちひとりひとりの上にとどまりました。

4 And everyone present was filled with the Holy Spirit and began speaking in other languages, as the Holy Spirit gave them this ability.

4 そしてそこにいた全員が聖霊に満たされ、他のことばで話し始めました。聖霊が信者たちにこの能力を与えたのです。

5 At that time there were devout Jews from every nation living in Jerusalem.

5 この頃のエルサレムには、あらゆる国から来た信心深いユダヤ人たちが住んでいました。

6 When they heard the loud noise, everyone came running, and they were bewildered to hear their own languages being spoken by the believers.

6 ユダヤ人たちは大きな音を聞くと、みなが走ってやって来て、自分たち自身のことばが信者たちによって話されるのを聞いてうろたえました。

7 They were completely amazed. “How can this be?” they exclaimed. “These people are all from Galilee,

7 ユダヤ人たちは完全に仰天していました。彼らは叫びました。「これはどういうことか。この人たちはみなガリラヤ地方の出身です。

8 and yet we hear them speaking in our own native languages!

8 それなのに私たちは彼らが私たちの国のことばで話すのを耳にしています。

9 Here we are -- Parthians, Medes, Elamites, people from Mesopotamia, Judea, Cappadocia, Pontus, the province of Asia,

9 ここにいる私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポント、アジアの地方、

10 Phrygia, Pamphylia, Egypt, and the areas of Libya around Cyrene, visitors from Rome

10 フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、クレネ周辺のリビヤ地方の人たち、そしてローマからの訪問者、

11 (both Jews and converts to Judaism), Cretans, and Arabs. And we all hear these people speaking in our own languages about the wonderful things God has done!”

11 (そこにはユダヤ人もいればユダヤ教への改宗者もいる)、クレテ人、アラビヤ人です。そして私たち全員は、この人たちが私たち自身のことばで、神さまが行ったすばらしい事柄について話すのを耳にしています。」

12 They stood there amazed and perplexed. “What can this mean?” they asked each other.

12 ユダヤ人たちは仰天し、困惑してそこに立っていました。彼らは互いにたずね合いました。「これは何を意味するのだろうか。」

13 But others in the crowd ridiculed them, saying, “They’re just drunk, that’s all!”

13 しかし群衆のなかの他の人たちは「彼らはただ酔っている、それだけの話だ」と言って信者たちをあざけりました。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第2章です。

第1章では、復活して弟子たちに現れたイエスさまが、弟子たちが見守る前で天へと上げられて雲の中に見えなくなりました。弟子たちはエルサレムへと戻って来て、ペテロ主導の下、イエスさまを裏切ったユダに代えてマッテヤを使徒に選びました。

五旬節(ペンテコステ)はユダヤ人の年次の三大祭りのひとつで、過越の祭り(これはイエスさまの十字架刑が執行された時期です)の最後に行われる「収穫の初穂の祭り」から七週間後(50日後)に行われます。別名、「七週の祭り」とも呼ばれます。 私たちのカレンダーでは5~6月頃にあたり、この頃に小麦の収穫が終わりを迎えます。伝統的にモーゼがシナイ山で神さまから律法を授かった出来事に結びつけて祝われます。

五旬節は聖書には次のように書いてあります。Leviticus 23:15-22(レビ記第23章第15節~第22節)です。

「15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン -- 主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの -- 二個を持って来なければならない。18 そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。19 また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。20 祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。21 その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」( [新改訳])

Deuteronomy 16:9-12(申命記第16章第9節~第12節)です。

「9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。10 あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。」( [新改訳])

第1節、今回の舞台となる信者たちが集まっていた場所は、最後の晩餐が行われたのと同じ家で、その階上の部屋と思われます。前回、信者は約120人いたと書かれていて、全員が一つの家の階上にいるのは不可能かと思われますが、そこはこのまま読み進みましょう。

第2節、信者たちの集まっていた家がとつぜん、天から聞こえてきた、ごうごう言う強風のような音で満たされます。

第3節、そして室内に炎のような、あるいは火の舌のようなものが現われて、信者たちひとりひとりの上にとどまります。恐ろしく、そして不思議な光景です。まるでここだけ旧約聖書を読んでいるみたいです。

第4節にはまず、「全員が聖霊に満たされた」と書いてあります。聖書の霊体は人間の肉体に入り込んで憑依することができます。炎のような、あるいは火の舌のようなものの正体は聖霊で、聖霊が信者のひとりひとりの中に入ってその人を満たしたのです。

何度も書いて来ましたが、「聖霊」は三位一体の位相のひとつです。三位一体とは、父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三つが一つの神さまで、それぞれ別の位相で現れているに過ぎないという考え方です。と言うことは信者が聖霊で満たされた、と言うのは、信者ひとりひとりが神さまで満たされたことになります。信者は人として「罪(Sin)」で汚れた状態だったはずですが、その中に神聖な神さまが侵入し、そして満たしたことになります。その結果、何が起こったか。信者たちはそれぞれが別々の外国語で話し始めたのです。そしてこの能力は聖霊が信者たちに与えたのだと書いてあります。この現象は「異言(いげん)」と呼ばれます。人が一度も学んだことのない外国語や、あるいは何語なのか判別さえ不可能な言語を操ってペラペラと話す超自然現象です。

第5節以降は、ユダヤ人によるこの異言現象の目撃談になります。第5節には「この頃のエルサレムには、あらゆる国から来た信心深いユダヤ人たちが住んでいました」と書かれていますが、この頃、ユダヤ人はパレスチナのみならず、大多数が地中海沿岸の各地に住んでいました。この人たちにとってのエルサレムは神さまの降臨する寺院を持つ聖地であり、可能な限り、年次の三大祭りの折りには巡礼して寺院に参拝していました。そして可能ならば晩年はパレスチナへ戻って、エルサレムの周辺に住みたいと願っていました。「あらゆる国から来た信心深いユダヤ人たちが住んでいました」と言うのは、そうやってエルサレムへ戻ることを実現した人たちということでしょう。第9節以降に書かれているのが、当時、ユダヤ人が住んでいた海外の拠点です。

第7節~第8節で、ユダヤ人たちは、「これはどういうことか。この人たちはみなガリラヤ地方の出身です。それなのに私たちは彼らが私たちの国のことばで話すのを耳にしています。」と驚愕しますが、それはガリラヤ地方の人たちは、イエスさまも含めてアラム語しか話さないことを知っているからです。

第11節、信者たちはいろいろな国の言葉でいったい何を話していたのか。それは「神さまが行ったすばらしい事柄について」なのですね。何しろ、聖霊が信者たちに話させているのですから。それにしても素晴らしいことです。

第13節、ところが見ている人たちの中に、信者たちが酔っているのだ、と言う人たちがいました。次回はこれを聞いたペテロが、聖霊に導かれるままに群衆に向かって話します。



english1982 at 22:00|Permalink

使徒の働き第2章第14節~第41節:ペテロが群衆に説教をする

第2章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Peter Preaches to the Crowd

ペテロが群衆に説教をする


14 Then Peter stepped forward with the eleven other apostles and shouted to the crowd, “Listen carefully, all of you, fellow Jews and residents of Jerusalem! Make no mistake about this.

14 そこでペテロは他の十一人の使徒たちとともに前へ出て、群衆に向かって声を上げました。「ユダヤ人のみなさん、そしてエルサレムにお住まいのみなさん、全員、よく聞いてください。このことについて間違えてはいけません。

15 These people are not drunk, as some of you are assuming. Nine o’clock in the morning is much too early for that.

15 あなた方の中に決めてかかっている方がいるようですが、この人たちは酔っていません。朝の九時はそれにはずいぶん早すぎます。

16 No, what you see was predicted long ago by the prophet Joel:

16 違います。あなた方が見ているのは預言者ヨエルによって遠い昔に予告されていたことなのです。

17 ‘In the last days,’ God says, ‘I will pour out my Spirit upon all people. Your sons and daughters will prophesy. Your young men will see visions, and your old men will dream dreams.

17 『神さまは言います。終わりの日に私は私の霊をすべての人に注ぎます。あなた方の息子や娘は預言します。若い男たちは幻を見て、年老いた男たちは夢を見ます。

18 In those days I will pour out my Spirit even on my servants -- men and women alike -- and they will prophesy.

18 その日には私は私のしもべにも私の霊を注ぎます。男にも女にも。そして彼らは預言します。

19 And I will cause wonders in the heavens above and signs on the earth below -- blood and fire and clouds of smoke.

19 そして私は天に不思議なわざを起こし、下の地にはしるしを示します。血と火と煙の雲です。

20 The sun will become dark, and the moon will turn blood red before that great and glorious day of the Lord arrives.

20 偉大で輝かしい主の日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなります。

21 But everyone who calls on the name of the Lord will be saved.’

21 しかし主の名を呼ぶ者はみな救われます。』

22 “People of Israel, listen! God publicly endorsed Jesus the Nazarene by doing powerful miracles, wonders, and signs through him, as you well know.

22 イスラエルのみなさん、聞いてください。みなさんがよく知っているように、神さまはナザレの人イエスさまを通して力ある奇跡と不思議としるしを行うことで、イエスさまを公に認めたのです。

23 But God knew what would happen, and his prearranged plan was carried out when Jesus was betrayed. With the help of lawless Gentiles, you nailed him to a cross and killed him.

23 しかし神さまは何が起こるかを知っていました。そしてイエスさまが裏切られたとき、神さまがあらかじめ予定していた計画が実行されたのです。律法を知らない異邦人の力を借りて、あなた方はイエスさまを十字架につけて殺しました。

24 But God released him from the horrors of death and raised him back to life, for death could not keep him in its grip.

24 しかし神さまはイエスさまを死の恐怖から解放し、生き返らせました。なぜなら死はイエスさまを支配していることができなかったからです。

25 King David said this about him: ‘I see that the Lord is always with me. I will not be shaken, for he is right beside me.

25 ダビデ王はかつてイエスさまについて言いました。『私は主がいつも自分と共にいるのを見ています。主が私のすぐ横にいるので、私は揺り動かされません。

26 No wonder my heart is glad, and my tongue shouts his praises! My body rests in hope.

26 私の心が喜び、私の舌が主の賛美を叫ぶのに不思議はありません。私の肉体は希望の中に安らぎます。

27 For you will not leave my soul among the dead or allow your Holy One to rot in the grave.

27 なぜならあなたは私の魂を死者の中に置くことも、あなたの聖なる者を墓の中で腐らせることもありません。

28 You have shown me the way of life, and you will fill me with the joy of your presence.’

28 あなたは私にいのちの道を見せてくれました。そしてあなたはあなたの存在の喜びで私を満たしてくださいます。』

29 “Dear brothers, think about this! You can be sure that the patriarch David wasn’t referring to himself, for he died and was buried, and his tomb is still here among us.

29 「兄弟たち、このことを考えてみてください。父祖ダビデが自分のことを言っていたのではないことは確かです。なぜならダビデは死んで葬られ、墓はいまでも私たちのところにあるからです。

30 But he was a prophet, and he knew God had promised with an oath that one of David’s own descendants would sit on his throne.

30 しかしダビデは預言者でした。そして神さまがダビデの子孫のひとりを彼の王座に座らせると誓って約束したことを知っていたのです。

31 David was looking into the future and speaking of the Messiah’s resurrection. He was saying that God would not leave him among the dead or allow his body to rot in the grave.

31 ダビデは未来をのぞき見て救世主の復活のことを言ったのです。神さまは救世主を死者の中に置いておかず、救世主の身体を墓の中で腐るままに捨て置かないと言ったのです。

32 “God raised Jesus from the dead, and we are all witnesses of this.

32 神さまはこのイエスさまを死者の中からよみがえらせました。私たちはみな、それを目撃したのです。

33 Now he is exalted to the place of highest honor in heaven, at God’s right hand. And the Father, as he had promised, gave him the Holy Spirit to pour out upon us, just as you see and hear today.

33 いまイエスさまは神さまの右にある天の最高の名誉の場所へとあげられました。そして父なる神さまは、約束どおり、私たちに注ぐようにと聖霊をイエスさまに与えたのです。あなた方が今日ちょうど見て聞いたとおりです。

34 For David himself never ascended into heaven, yet he said, ‘The Lord said to my Lord, “Sit in the place of honor at my right hand

34 ダビデ自身は天に上ったわけではありません。それなのに言っています。『主は私の主に言われた。 私の右手の名誉の場所に座っていなさい、

35 until I humble your enemies, making them a footstool under your feet.”’

35 私があなたの敵をくじいて、あなたの足の下の足台とするまで。』

36 “So let everyone in Israel know for certain that God has made this Jesus, whom you crucified, to be both Lord and Messiah!”

36 ですからイスラエルのすべての人に、あなた方が十字架にかけたこのイエスさまを、神さまが主であり救世主にしたのだと確実に知らせなければなりません。」

37 Peter’s words pierced their hearts, and they said to him and to the other apostles, “Brothers, what should we do?”

37 ペテロの言葉は人々の心を刺しました。そして人々はペテロと他の使徒たちに言いました。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」

38 Peter replied, “Each of you must repent of your sins and turn to God, and be baptized in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins. Then you will receive the gift of the Holy Spirit.

38 ペテロは答えました。「あなた方のひとりひとりが自分の罪を後悔し、神さまに向き直らなければなりません。そしてあなたの罪の許しのために、イエス・キリストの名前によって洗礼を受けるのです。そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。

39 This promise is to you, to your children, and to those far away -- all who have been called by the Lord our God.”

39 この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」

40 Then Peter continued preaching for a long time, strongly urging all his listeners, “Save yourselves from this crooked generation!”

40 それからペテロは長い時間説教を続けて、聞いている人たちに強く迫りました。「この曲がった時代からあなた方自身を救いなさい。」

41 Those who believed what Peter said were baptized and added to the church that day -- about 3,000 in all.

41 ペテロの言ったことを信じた人たちは、その日に洗礼を受けて教会に加えられました。全部で3000人ほどです。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第2章です。

前回、第2章の冒頭、五旬節(ペンテコステ)の日に信者が一箇所に集まっていると、突然、上空からごうごうと激しく風が吹くような音がして、それから炎のような、あるいは火の舌のようなものが現われて、信者たちひとりひとりの上にとどまります。するとそこにいた信者の全員が聖霊に満たされて、一度も学んだことのないさまざまな外国語で神さまを褒め称える言葉をベラベラと話し始めたのです。異言(いげん)の現象です。地中海沿岸の外国から五旬節のためにエルサレムを訪れていたたくさんの人々が、いったい何の騒ぎかと集まって来て、信者たちが自国の言葉を話しているのを耳にして驚きますが、中には信者たちが酔っているのだろうという人たちもいました。

そこで第14節、ペテロが他の十一人の使徒と共に前に進み出て話し始めます。しかしその内容は、エルサレムから100キロも北へ離れたガリラヤ地方の漁師が、たくさんの群衆を前に話せるような内容とはとても思えません。イエスさまが以前弟子たちに、人々の前で話す機会が来たら何を話せば良いのかと心配するには及ばないと言ったとおりです。ペテロは明らかに聖霊に導かれて話しています。ペテロは最初に朝の九時という時間はたくさんの人が酒に酔うには早すぎると、冷静に状況を説明した上で、いま自分たちの目の前で起こっている不思議な現象は、実は旧約聖書のヨエルの預言書の中にあらかじめ予告されていたことなのだと言います。これは聞いているユダヤ人たちの心をつかむ効果的な導入だと思います。

引用箇所はJoel 2:28-32(ヨエル書第2章第28節~第32節)です。

「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」([新改訳])。

つまり信者たちに聖霊が注がれて、神さまから預かった言葉をベラベラと語り出す不思議な現象は、この第28節と第29節の預言の成就だと説明します。ヨエルの預言は第30節以降、「主の大いなる恐るべき日」の説明に入りますから、第28節と第29節の預言が成就された以上、終わりの日の到来が近いのではないかという危機感がユダヤ人の間に募ります。

ペテロの話はヨエルの預言の導入を終えて第22節から本題に入ります。ペテロは「イスラエルのみなさん、聞いてください。」と改めて周囲の群衆の注意を集めます。まずペテロはイエスさまの伝道活動を思い起こさせるため、神さまはナザレの人イエスさまを通して力ある奇跡と不思議としるしを行うことで、イエスさまを公に認めたのだと話し、イエスさまが神さまから遣わされたこと、それはイエスさまの行った奇跡の数々で証明できることを伝えます。それからその後で起こったイエスさまの十字架刑は、神さまが最初から用意していた計画の実行なのだと伝えます。ローマ帝国による十字架刑は神さまの計画のために利用されたのだと言います。ここまでは、ペテロの話を聞いている群衆もよく知っている情報です。既知の出来事がペテロによって聖書に沿って説明されていきます。そして群衆は最後に、まだ知らなかった新しい情報を耳にします。それが第24節です。神さまはイエスさまを死から解放し、生き返らせたと言う知らせです。神さまの計画どおりに殺されたイエスさまは、計画を成就した後で神さまによってよみがえらされたと言うのです。これがペテロが群衆に伝えたいメッセージの中心部分でしょう。

それからペテロはこの事実を補足するために、イエスさまの復活までもが、旧約聖書に預言されていたのだと、再び聖書の引用を示します。引用箇所はPsalm 16:8-11(詩編第16章第8節~第11節)のダビデによる詩です。

「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」( [新改訳])。

この中の第10節の「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」が、復活の預言なのだと説明します。そして神さまはダビデに「いのちの道」を示すのです。

第29節、ペテロはこの部分の「私のたましい」とか「あなたの聖徒」が、ダビデ自身のことを言っているのではない、と言います。その根拠は自分たちがダビデが死んだことと、その墓の存在を知っているからだと言います。つまりダビデはいまも「よみ」に置かれ、墓の穴の中にいることになります。ちなみに「よみ」には「黄泉」の漢字があてられ、それは死者の魂が送られ、終わりの日に行われる最後の審判までの時間を待つ場所のことです。

第30節~第31節、これがダビデ自身のことではないとしたらいったい誰のことなのか。ペテロはダビデは預言者だったので、神さまに未来を見せていただいてそのことを書き留めたのだと言います。 また、ダビデが神さまがダビデの子孫のひとりを彼の王座に座らせると誓って約束したことを知っていたと言いますが、それは、2 Samuel 7:12-14(サムエル記第二第7章第12節~第14節)に基づいています。これは神さまが預言者ナタンにダビデに告げるようにと授けた言葉で、ナタンがダビデ王に告げて言っています。引用の中の「あなた」はダビデ王のことです。

「12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる」([新改訳])。

これはダビデが死んだ後にダビデの家から出る世継ぎの子が王となってイスラエル王国が確立し、その王国の王座は永久に立つ、という予告です。この預言は一度は実現したように見えて、ダビデの世継ぎのソロモンがダビデの次に第三代の王となると、ソロモン王の代でイスラエルは栄華を極めて巨大な王国となりました。しかしソロモンの子供の代でイスラエルは南北に分裂してしまい、最終的には北朝のイスラエルも南朝のユダも滅びてしまうのです。つまり王座は永久には立たなかったので、この預言は成就していないのです。

ソロモンの次の代でイスラエルが分裂し、後に滅びてしまったことを知っている後の世の人たちは、この預言がソロモンを指していないだろうと考えられるのですが、果たしてこれを聞いた時点でのダビデはナタンの言葉を受けて、どのように思ったでしょうか。自分の次にはソロモンが王となり、その王国が永遠に続くのかも知れないと考えたでしょうか。ペテロはそれはなかったと言っているのです。ダビデは預言者として神さまから未来を示す幻を見せてもらったと言うのです。その幻の中では、自分の家系から出たイエスさまが死者の中からよみがえり、終わりの日には地上へ再来してサタンを葬り去り、ついには永久に続く王国を打ち立てるのです。

第32節には、「神さまはこのイエスさまを死者の中からよみがえらせました」とあります。これがダビデが神さまから見せてもらった未来の絵です。そしてペテロの言葉は「私たちはみな、それを目撃したのです」と続きます。信者たちは復活したイエスさまに実際に会っています。そして身体に聖霊を受けています。だからこそ旧約聖書の部分部分を組み合わせて解釈し、ダビデが未来を見ていたのだとわかるのです。

第33節、天に昇ったイエスさまは「神さまの右にある天の最高の名誉の場所」にいると書かれています。ペテロはその根拠も詩編の中に求めます。Psalm 110:1(詩編第110章第1節)です。「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」( [新改訳])。 これはイエスさま自身が福音書の中で群衆に問いかけた一節です。Luke 20:41-44(ルカの福音書第20章第41節~第44節)です。「41 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。42 ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。43 「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』 44 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」」([新改訳])。

ここの解釈は少しややこしいです。ここにはダビデ自身の言葉で「主」が「私の主」に言っていると書いてあります。ふたりの別の「主」が登場しているのですね。そのうち「主」の方が「私の主」に話す内容が、「自分が敵をあなたの足台とするまでは、私の右の座に着いて待っていなさい」です。ダビデの「主」は神さまです。つまり「主」である神さまが「私はおまえの敵を倒しておまえの足下にひざまずかせる予定だから、それまでの間は自分の右側で待機して待っていなさい」と「私の主」に言ったのです。つまりこれは「主」である神さまが「私の主」のために舞台を整えてあげるよ、という約束なのです。神さまが敵を倒して舞台を整えてあげる人というのは、イスラエルにやがて現れる待望の救世主のことです。神さまが舞台を整えてあげる「私の主」が救世主なのだとしたら、ダビデはその人を「私の主」と呼んでいることになります。もし人々が信じるように救世主が「ダビデの息子」なのだとしたら、どうしてダビデは自分の息子を「私の主」と呼ぶのか、立場と呼び方がおかしいではないかと言うのがイエスさまの質問です。

ダビデの死後、約1000年を経てダビデの血を引く家系から出たイエスさまが十字架死で人類を救い、死者の中から復活して救世主となりました。ダビデは自分の死後、遠い将来に起こるイエスさまの復活と、「あなたの敵をあなたの足台とする」時、つまり「終わりの日」に神さまがサタンの計画を完全にくじく出来事を見て知っているのです。それが神さまがイエスさまに言った、「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」の意味なのです。

第36節がペテロによるここまでの話の結論です。「ですからイスラエルのすべての人に、神さまがこの、あなた方が十字架にかけたイエスさまを、主であり救世主にしたのだと確実に知らせなければなりません。」つまり、どうですかイスラエルのみなさん、イエスさまが私たちの主であり、待望の救世主なのですよ、と言っているのです。こうして読むとこれは理屈です。聖書はそのように解釈できる、と言う話です。しかしこのときのペテロたち信者にとっては理屈ではありません。大切なのは最初の信者たちは復活したイエスさまに実際に会っていると言うことです。彼らには理屈ではなく事実なのです。そして信者たちは復活したイエスさまを見ていない人たちに、そのことを伝えようとしているのです。聞き手の人たちは私たちと同じ立場です。ヨハネの福音書で、たまたま復活したイエスさまが現れた場所に居合わせなかった使徒のトマスは、他の使徒たちがイエスさまに会ったのだと言っても信じることを拒みました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言うのです。イエスさまが次にトマスを含む信者たちの前に現れたとき、イエスさまはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言っています。ペテロたち信者はイエスさまを見て信じました。しかしイエスさまを目撃することなくイエスさまを信じる人が祝福を受けるのです。

第37節、ペテロの説教を聞いて自分たちがまさに救世主を殺してしまったのだと心を刺された人々は、使徒たちに「私たちはどうしたらよいでしょうか」とたずねます。

第38節~第39節、ペテロは「あなた方のひとりひとりが自分の罪を後悔し、神さまに向き直らなければなりません。そしてあなたの罪の許しのために、イエスさま・キリストの名前によって洗礼を受けるのです。そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」と答えました。何度も書きましたが、聖書における「罪(sin)」とは「的を外すこと」の意味であり、つまりは神さまの期待から外れて神さまをガッカリさせることです。神さまはどうしてガッカリしたのか。それは神さまの送ったイエスさまを人々が救世主だと認めなかったからです。だから人々はいまこそ自分がどれほど神さまをガッカリさせたのかを考え、後悔し、イエスさまを救世主と認めなければなりません。

それからペテロの言葉は「罪の許しのために、イエス・キリストの名前によって洗礼を受けなさい」と続きます。イエスさまは一番最初にヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けて、そのときに鳩の姿をした聖霊を受けて伝道の活動を開始します。ヨハネの洗礼の儀式は人を水中にすっかり水没させる儀式ですが、このとき以降、福音書には洗礼の儀式は一度も登場しません。イエスさまは信者の誰にも洗礼を施していません。先ほど紹介したトマスの話でも、イエスさまは「信じる」という行為の大切さを言っているだけで、証拠として洗礼を受けろなどとは一言も言いません。信じるか信じないか、それは自分で決めることです。

一方、「Acts(使徒の働き)」や、初期の教会でやりとりされた書簡を読むと、当時の信者たちの間で洗礼の儀式が行われていたことがわかります。ここから「洗礼」についての誤解が生じてしまいます。つまり「洗礼」が天国行きの切符になる、洗礼の儀式を通過することが神さまとの和解には不可欠である、という誤解です。確かにイエスさまを信じると決めても、いざ洗礼を受けるとなると大きな覚悟を迫られます。洗礼を受けるためには、他の信者たちの前で、勇気を出して自分の口でイエスさまに対する信仰を告白しなければなりません。そういう意味で洗礼は、自分にクリスチャンとしての覚悟を促す、とてもよい実践だと思います。また自分がイエスさまを信じると、他の人の前で宣言する姿や、他の信者たちの見守る中で水没の儀式を通過して、大きな祝福を受ける姿は、神さまの目にも正しく映るはずです。しかし間違えてはいけないのは、洗礼と言う儀式が天国行きを約束するわけではないと言うことです。洗礼を受ける理由となった、自分がイエスさまを信じるという決心、その決心を神さまにお祈りとして自分の口で告げることで、信者と神さまとの間に契約が成立し、その契約がその人の罪の汚れを洗い流して、その人に天国行きの資格を与えるのです。

さてイエスさまを信じると何が起こるのでしょうか。ペテロが言います。「そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」 イエスさまに対する信仰を告白し、神さまと契約を結んだ人には、聖霊が贈られ、聖霊はその人に宿るのです。聖霊は三位一体の神さまのひとつ、つまり自分の中に神さまを持つことになります。 聖霊を受ける資格はすべての人にあります。「私たちの神さまである主によって呼ばれた」と言うのは、人それぞれに異なりますが、何かがきっかけとなって神さまや聖書の福音と関わるようになる、その不思議な「きっかけ」を受けとった、というような意味でしょう。

第41節、この日、エルサレムでは3000人が信者に加わっています。


english1982 at 21:00|Permalink

使徒の働き第2章第42節~第47節:信者たちが共同体を作る

第2章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Believers Form a Community

信者たちが共同体を作る


42 All the believers devoted themselves to the apostles’ teaching, and to fellowship, and to sharing in meals (including the Lord’s Supper), and to prayer.

42 信者たち全員が使徒たちの教えや、信者同士の親交や、食事を共にすることや(主の晩餐も含めて)、お祈りを熱心に行っていました。

43 A deep sense of awe came over them all, and the apostles performed many miraculous signs and wonders.

43 深い畏怖の念が信者全員に生じ、使徒たちはたくさんの奇跡のしるしと不思議を行いました。

44 And all the believers met together in one place and shared everything they had.

44 信者たち全員がひとつの場所に集い、持ち物のすべてを共有していました。

45 They sold their property and possessions and shared the money with those in need.

45 信者たちは財産や持ち物を売り、お金はそれを必要とする人たちと分け合いました。

46 They worshiped together at the Temple each day, met in homes for the Lord’s Supper, and shared their meals with great joy and generosity -- 

46 信者たちは毎日、寺院で共に礼拝し、主の晩餐のために家に集まり、大きな喜びと慣用をもって食事を共にしていました。

47 all the while praising God and enjoying the goodwill of all the people. And each day the Lord added to their fellowship those who were being saved.

47 そして常に神を賛美し、すべての人たちから好意を持たれていました。日々、主は救われる人たちを仲間に加えました。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第2章です。

前回、ペテロの説教に心を指された人たちが、一日で3000人も信者に加わったと書かれていましたが、今回は最初に形成された教会の様子が書かれています。

第42節、信者たちが行っていたのは、使徒の教えを聞くこと、信者同士の親交を深めること、食事を共にすること、そしてお祈りをすることです。このうち「食事を共にすること」のところには、「including the Lord’s Supper(主の晩餐も含めて)」と注釈がついていて、これはつまり通常の食事と区別して、特別に「主の晩餐」という食事が行われていたことを意味します。

これは「最後の晩餐」と呼ばれる、イエスさまが逮捕される直前にイエスさまが弟子たちと共にした食事が下敷きになっていると思われます。ルカでは、Luke 22:14-20(ルカの福音書第22章第14節~第20節)です。

「14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」 17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」 19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」 20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」([新改訳])。

イエスさまはパンを裂いて弟子たちに与えるところで、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい」と言っていますから、パンを裂いて配ることをイエスさまに結びつけて行うことが、イエスさまから命じられていて、弟子たちはこれを忠実に実行したものと考えられます。食事の最初に家長がパンを裂いて神さまに感謝の祈りを捧げることはユダヤ人の通常の習慣で、これはすべての食事の時に行われていました。しかし「主の晩餐」では、特別にこの習慣をイエスさまに結びつけて、食事を共にする信者たちの間でイエスさまを思い出したのです。

第43節、信者たちは畏怖の念に打たれています。自分たちの共同体に、何か不思議な力が働いていることが信者全員に感じられて、信者たちは恐ろしい気持ちに支配されているのです。聖書では人が神さまと接するときに感じるのは「恐怖」です。神さまの偉大さや神聖さを前にすると人は自然と怖さを感じるのです。また第43節では、使徒たちがたくさんの奇跡のわざを行ったことが書かれています。どのような奇跡が行われたのか、そのいくつかはこの後にも登場して来ます。

第44節~第45節、初期の教会の共同体の活動を維持していくため、信者たちはすべての物を共有しています。そして自分の財産を売り、それを必要に応じて分け合っています。信者たちは個人の利害よりも、共同体の活動を最優先に考えて行動していたのです。これは驚くべきことですが、信者たちはどうしてそのようなことができたのでしょうか。それはきっと信者たちに明日への不安がなかったからでしょう。旧約聖書では明日に不安を抱くことは神さまに対する不信仰と考えられました。そして何よりも、当時の信者たちにはイエスさまが明日にも天から戻るだろうという、大きな期待と希望があったのではないかと思います。現代に生きる私たちにも大変勉強になる部分です。明日に不安を抱かないほどの神さまに対する信仰、イエスさまの再来についての大きな期待と希望、これは決して忘れてはいけない要素だと思います。

第46節、信者たちは毎日寺院に参拝しています。当時は午後三時が寺院でお祈りを捧げる時間とされていたので、信者たちはこの時間に寺院に参拝し、共にお祈りを捧げていたと考えられます。

第47節、このように神さまを賛美し、熱心に信仰生活を営む共同体の姿は、周囲の人たちから好意を持って迎えられ、信者の数は日々増えていったのです。



english1982 at 20:00|Permalink

使徒の働き第3章第1節~第11節:ペテロが身体の不自由な乞食を癒やす

第3章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Peter Heals a Crippled Beggar

ペテロが身体の不自由な乞食を癒やす


1 Peter and John went to the Temple one afternoon to take part in the three o’clock prayer service.

1 ある午後、ペテロとヨハネは三時のお祈りの礼拝に参加するため寺院へ行きました。

2 As they approached the Temple, a man lame from birth was being carried in. Each day he was put beside the Temple gate, the one called the Beautiful Gate, so he could beg from the people going into the Temple.

2 ふたりが寺院に近づくと、生まれつき足が不自由な人が運ばれて来るところでした。毎日この人は寺院の「美しい門」と呼ばれる門の横に置かれ、それでこの人は寺院に入っていく人たちからお金を請うことができました。

3 When he saw Peter and John about to enter, he asked them for some money.

3 彼はペテロとヨハネが入ろうとするのを見ると、ふたりにいくらかのお金を求めました。

4 Peter and John looked at him intently, and Peter said, “Look at us!”

4 ペテロとヨハネはこの人を真剣に見つめ、そしてペテロが言いました。「私たちを見なさい。」

5 The lame man looked at them eagerly, expecting some money.

5 彼はお金を期待して、ふたりを熱心に見つめました。

6 But Peter said, “I don’t have any silver or gold for you. But I’ll give you what I have. In the name of Jesus Christ the Nazarene, get up and walk!”

6 しかしペテロは言いました。「私はあなたのための銀も金も持っていません。ですが私はあなたに私が持っているものをあげましょう。ナザレの人、イエス・キリストの名により、立ち上がり、歩きなさい。」

7 Then Peter took the lame man by the right hand and helped him up. And as he did, the man’s feet and ankles were instantly healed and strengthened.

7 それからペテロは足が不自由な人の右手を取って、立ち上がるのを手伝いました。彼が立ち上がると、足とくるぶしは瞬時に癒やされ、丈夫になりました。

8 He jumped up, stood on his feet, and began to walk! Then, walking, leaping, and praising God, he went into the Temple with them.

8 彼は跳び上がり、自分の足で立って歩き始めました。そして歩き、跳びはね、神さまを褒め称えながら、ふたりと一緒に寺院へ入っていきました。

9 All the people saw him walking and heard him praising God.

9 すべての人々が彼が歩くのを見て、神さまを褒め称えるのを聞きました。

10 When they realized he was the lame beggar they had seen so often at the Beautiful Gate, they were absolutely astounded!

10 人々はそれが「美しい門」のところで頻繁に見かけた足の不自由な乞食だとわかると、すっかり驚いてしまいました。

11 They all rushed out in amazement to Solomon’s Colonnade, where the man was holding tightly to Peter and John.

11 人々はみな驚いて「ソロモンの回廊」へ、どっと駆けていきました。そこでは男がペテロとヨハネの手をしっかりと握っていました。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第3章です。

第1節、ペテロとヨハネがお祈りの礼拝に参加するために寺院へ出かけます。第2章には信者たちが毎日寺院に参拝していたと書かれていました。当時は午後三時が寺院でお祈りを捧げる時間とされていたので、信者たちはこの時間に一緒に寺院に参拝し、共にお祈りを捧げていたと考えられます。

第2節~第3節、ふたりは「美しい門」と呼ばれる門から寺院へ入ろうとしています。これは城塞都市のエルサレムへ入る門ではなくて、市内の北東にある寺院内部へ入る門ですが、これがどの門なのか、いまでははっきりとはわからないようです。ちょうどそのとき門のところへ男の人が運ばれてきます。この人は生まれつき足が不自由で、おそらくこの人の家族が、この人を毎日門のすぐ横のところへ運んで来ます。そうすればこの人は、寺院の参拝客に声をかけてお金を施してくれるように請うことができるからです。男の人はペテロとヨハネが寺院に入っていくのを見て、いつものように、お金を恵んでくれと声をかけます。

第4節~第5節、声をかけられたふたりはこの人を真剣に見つめ、それからペテロが声をかけます。「私たちを見なさい。」  男の人はふたりがお金を恵んでくれるのだろうと思い、期待して見つめ返します。

第6節、ペテロが言います。「私はあなたのための銀も金も持っていません。ですが私はあなたに私が持っているものをあげましょう。」 ペテロは男の人に、あなたにお金をあげるのではない、と言った後で、「私が持っているもの」をあげる、と言います。ペテロが持っているもの、それはイエスさまから授かったもので、イエスさまの名前によって奇跡のわざを行う権威です。たとえばヨハネの福音書の最後の晩餐の場面で、イエスさまは使徒たちに次のように言っています。John 14:12-14(ヨハネの福音書第14章第12節~第14節)です。「12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」( [新改訳]) 。ペテロは男の人に言います。「ナザレの人、イエス・キリストの名により、立ち上がり、歩きなさい。」 これはイエスさまの名前によって求められたことなので、このとき父である神さまの右の座にいるイエスさまは、これを聞き届け、それを実行に移すのです。

第7節、これを言った後でペテロは男の人の手を取って立たせます。このときのペテロは以前のペテロと違い、揺るぐことのない信仰に立っていますから、イエスさまの名前によって命じられたことは100%実現すると知っています。おそらくここにあげられたエピソードの他にもたくさんの奇跡を行ってきたのでしょう。なので、この男の人を立たせるときに、うまく行くだろうかなどという躊躇はなかったはずです。第7節の後半を読むとペテロに助けられた男の人の方も、躊躇やよどむことなく立ち上がっているように読めます。生まれつき足が不自由で一度も歩いたことのない人のはずなのに、ペテロの「私たちを見なさい。」「ナザレの人、イエス・キリストの名により、立ち上がり、歩きなさい。」という毅然とした命令口調に促されて、やはり疑う間もなく立ち上がってしまうのです。そしてその瞬間、男の人の足は癒やされてしまいます。イエスさまの行う奇跡はいつも瞬時に完了します。病気や不自由な場所がだんだん良くなるというのではなくて、瞬時に完治してしまいます。この男の人は生まれつき一度も歩いたことのない人ということですから、足は萎えてしまっていて、骨格も筋力もほとんど発達していないはずですが、足は瞬時に歩いたり跳ねたりするのに十分な力をつけてしまいます。

第8節、足を癒やされた男の人の喜びは想像することができません。まさか自分の足で歩く日が来るとは思っていなかったでしょうから。男の人は跳び上がり、自分の足で立って歩き始めます。何よりも素晴らしいのは、この人がこの奇跡について、神さまを褒め称えながら寺院へ入って行ったことです。これは「神さまに栄光を帰す」などと言いますが、自分の身に起こった喜びは「やった!」と自分自身で喜ぶための出来事ではなく、「神さまは素晴らしい!」「神さまを褒め称えます!」「神さまに感謝します!」と、その良いことのすべては神さまから来た物であると考えて、神さまを褒め称え、神さまに感謝するための出来事なのです。

第9節~第10節、寺院に参拝しに来ていた人々は、この男の人が歩く姿を目撃し、神さまを褒め称えて歩くのを耳にします。そしてこの男の人が、いつも「美しい門」の横に座ってお金を請うていた足の不自由な男の人だと気づき、すっかり仰天してしまいます。まったくあり得ないことが目の前で起きているからです。

第11節、人々は「ソロモンの回廊」へと一斉に走っていきます。「ソロモンの回廊」はヨハネの福音書に一度登場しています。John 10:23(ヨハネの福音書第10章第23節)以降です。「23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」 25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」([新改訳])。エルサレムの寺院は内部へ進むほど聖域度の進む構造になっているのですが、その一番外側にある広いエリアが「異邦人の庭」で、これをぐるりと取り囲む壁のところには、太い石柱に支えられた屋根のある回廊が作られています。ソロモンの回廊は異邦人の庭の東側の部分の呼称のようです。人々が一斉にここに向かって走ったのは、イエスさまの弟子たちがいつもここに集まって共にお祈りをしたり、使徒の説教を聞く学びをしていたことを知っていたからだと思います。果たしてそこには足を癒やされた男が、ペテロとヨハネの手をしっかりと握って立っているのでした。

次回はペテロが集まってきた人々に説教をします。




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