ローマ人への手紙

2015年07月30日

ローマ人への手紙第2章第1節~第16節:神さまによる罪の裁き

ローマ人への手紙 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


God’s Judgment of Sin

神さまによる罪の裁き


1 You may think you can condemn such people, but you are just as bad, and you have no excuse! When you say they are wicked and should be punished, you are condemning yourself, for you who judge others do these very same things.

1 あなた方はそういう人たちを非難できると思うかも知れません。しかしあなた方は同じくらい悪く、言い訳もできません。あなた方が彼らは邪悪で罰せられるべきだと言えば、あなた方は自分自身を咎めているのです。他の人を裁くあなた方はまったく同じことをしているのですから。

2 And we know that God, in his justice, will punish anyone who does such things.

2 神さまは公明正大であり、そういうことをする人たち全員を罰すると私たちは知っています。

3 Since you judge others for doing these things, why do you think you can avoid God’s judgment when you do the same things?

3 あなた方は、そういうことをするという理由で他の人を裁くのに、あなた方が同じことをするとき、どうしてあなた方は神さまの裁きを免れることができると思うのですか。

4 Don’t you see how wonderfully kind, tolerant, and patient God is with you? Does this mean nothing to you? Can’t you see that his kindness is intended to turn you from your sin?

4 あなた方は神さまがどれほどあなた方に驚くほど親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのですか。これはあなた方には何の意味もないのですか。神さまの親切は、あなた方を罪から向き直ることを意図しているとわからないのですか。

5 But because you are stubborn and refuse to turn from your sin, you are storing up terrible punishment for yourself. For a day of anger is coming, when God’s righteous judgment will be revealed.

5 しかしあなた方は頑固に罪から向き直ることを拒むので、あなた方は自分自身に恐ろしい罪を積み上げているのです。怒りの日が来ます。神さまの正しい裁きが明らかとなる日です。

6 He will judge everyone according to what they have done.

6 神さまはひとりひとりを、その人が何をしたかに応じて裁きます。

7 He will give eternal life to those who keep on doing good, seeking after the glory and honor and immortality that God offers.

7 神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求めて善いことを続ける人たちに、神さまは永遠のいのちを与えます。

8 But he will pour out his anger and wrath on those who live for themselves, who refuse to obey the truth and instead live lives of wickedness.

8 しかし自分たちのために生きる人たち、真実に従うことを拒み、代わりに邪悪の人生を歩む人たちには神さまは怒りと憤りを注ぐのです。

9 There will be trouble and calamity for everyone who keeps on doing what is evil -- for the Jew first and also for the Gentile.

9 邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。

10 But there will be glory and honor and peace from God for all who do good -- for the Jew first and also for the Gentile.

10 しかし善を行う人全員には栄光と栄誉と平安があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。

11 For God does not show favoritism.

11 神さまにえこひいきはありません。

12 When the Gentiles sin, they will be destroyed, even though they never had God’s written law. And the Jews, who do have God’s law, will be judged by that law when they fail to obey it.

12 異邦人が罪を犯せば滅ぼされます。たとえ神さまの律法の書物を持たなくてもです。そして律法の書を持つユダヤ人は、それに従うことができなければ、その律法によって裁かれます。

13 For merely listening to the law doesn’t make us right with God. It is obeying the law that makes us right in his sight.

13 単に律法を聞くことで私たちが神さまに対して正しくなるわけではありません。律法に従うことが私たちを神さまの目に正しく映すのです。

14 Even Gentiles, who do not have God’s written law, show that they know his law when they instinctively obey it, even without having heard it.

14 神さまの律法の書物を持たない異邦人でさえ、本能的に律法に従うことで、彼らが神さまの律法を知っていることを示します。聞いたこともないのにです。

15 They demonstrate that God’s law is written in their hearts, for their own conscience and thoughts either accuse them or tell them they are doing right.

15 異邦人は神さまの律法が心に書かれていることを示しています。自分の良心や考えが彼らを責めたり、正しいことをしていると告げたりします。

16 And this is the message I proclaim -- that the day is coming when God, through Christ Jesus, will judge everyone’s secret life.

16 これが私が伝えるメッセージです。神さまがイエス・キリストを通じてすべての人の隠された生涯を裁く日が来るのです。



ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第2章です。

第1節は「あなた方はそういう人たちを非難できると思うかも知れません。」と始まります。ここで「そういう人たち」というのは第1章の最後で説明された人たちのことです。

第1章の後半はパウロがいまの世の中の状況を説明しました。人が世界を見渡せば、そこに創造者である神さまがいることは容易に理解できたはずなのに、それを自分で作り上げた「偶像」という嘘と引き換えにしました。この世界に生を得た自分という存在について、その世界を創造し支配する神さまを信じ褒め称える代わりに、自分が心の中に作り上げた偶像を追求すると言う選択をしました。結果として人は神さまの怒りを買い、見切りをつけられて捨て去られて、自分の妄想が作り上げたあらゆる邪悪へと引き渡される結果となりました。そうやって人の間に生まれた邪悪の数々をパウロは列挙しました。

第1節はそういう「邪悪を営む人たち」を見て非難する人たちに向けて書かれます。自分はそういう人たちとは違う、自分はそういう人たちよりも上にいると考える人たちに、パウロは「あなた方は同じくらい悪く、言い訳もできません」と言います。

章を読み進めていくと、これはユダヤ人に宛てられたメッセージであるとわかります。ユダヤ人は神さまから選ばれ、神さまの言葉である聖書を託された民族です。ユダヤ人は聖書の教えに従い、そうすることで神さまの祝福を受けて、ユダヤ人ではない人たち、つまり異邦人に神さまの素晴らしさを伝えるべき立場にありました。

私たちはいま旧約聖書を読むとその内容に驚きます。旧約聖書はユダヤ人がどれほど神さまの期待を裏切り続け、ユダヤ人がどれほど神さまの怒りを買ったかの歴史を連綿と積み重ねた書物だからです。しかしパウロから強烈に非難を浴びせられる1世紀のユダヤ人は、自分たちが始祖アブラハムの子孫として生まれ、モーゼを始めとする預言者たちを通じて神さまの言葉を預かった特別な民族であるという、ただそれだけの理由で神さまから祝福を受けて天国に迎えられる、そういう権利を持つと信じている人たちなのです。そうやって他の人よりも上に立つ視点で他の人を裁くユダヤ人は、その人たちとまったく同じことをしている、とパウロは言います。

私たち日本人はユダヤ人ではありませんが、自分自身を同じ文脈に含めて読むことができます。もし自分は第1章の後半でパウロが書き綴った邪悪な人たちとは違う、自分はそういう邪悪な人たちとは異なるタイプの人間である、そういう邪悪な人たちこそが神さまから裁かれるべきなのだと考えるなら、その言葉はそのまま自分に返って来る可能性があります。パウロが第1章の終わりに綴った人の邪悪な行為の数々は、神さまが人間に見切りをつけて人間を邪悪へと引き渡した結果として生じた物です。ことの始まりは、宇宙の創造者であり支配者である神さまの存在を認め、信じ、褒め称え、従うかどうかでした。神さまを信じないことが悪、神さまを信じないことが罪なのです。

第2節~第3節、「神さまは公明正大であり、そういうことをする人たち全員を罰すると私たちは知っています。あなた方は、そういうことをするという理由で他の人を裁くのに、あなた方が同じことをするとき、どうしてあなた方は神さまの裁きを免れることができると思うのですか。」

神さまは裁きに於いて分け隔てをしません。公明正大です。他の人を邪悪だと言う自分が、神さまを認めず、神さまに従わず、結果として同じ邪悪を為しているのなら、自分だけが裁きを免れるということはありません。

第4節、「あなた方は神さまがどれほどあなた方に驚くほど親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのですか。これはあなた方には何の意味もないのですか。神さまの親切は、あなた方を罪から向き直ることを意図しているとわからないのですか。」

もしかすると邪悪な人を罰する裁きを下す神さまを、無慈悲だとか残酷だと考える人がいるかも知れません。パウロはそういう人たちに、どれほど神さまが親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのか、と問いかけます。神さまは世の中にあふれる邪悪を目にしながら、いま裁きの日を先延ばしにしています。そうやって人間に向き直るための猶予を与えているのです。

第5節、「しかしあなた方は頑固に罪から向き直ることを拒むので、あなた方は自分自身に恐ろしい罪を積み上げているのです。怒りの日が来ます。神さまの正しい裁きが明らかとなる日です。」

しかし人は頑として自分の罪を認めることをせず、神さまに向き直ろうとしません。神さまを信じないこと、神さまに向き直らないことが、神さまに対する罪悪なのにです。そうやって神さまを拒み続けることで、自分の罪はどこまでも積み上がっていきます。

第6節には「神さまはひとりひとりを、その人が何をしたかに応じて裁きます。」と書かれています。これは多くの人の「最後の裁き」についての考え方に近いのではないでしょうか。もし天国と地獄があるとしたら、その決定は自分が生まれてから死ぬまでの間に何をしたかに応じて行き先が決まるのではないか、と考える人が世の中にはたくさんいるのではないか、と思います。

第7節では天国へ行く人たちについて書かれています。「神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求めて善いことを続ける人たちに、神さまは永遠のいのちを与えます。」 神さまは善いことを続ける人たちに永遠のいのちを与えます。ここで「善いことを続ける人たち」と言うのは、神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求める人たち、つまりは神さまを信じる人たちのことです。

第8節では地獄へ落とされる人たちについて書かれています。「しかし自分たちのために生きる人たち、真実に従うことを拒み、代わりに邪悪の人生を歩む人たちには神さまは怒りと憤りを注ぐのです。」 神さまの栄光を追うのではなく、自分のために生きる人たち、宇宙の創造主であり支配者である神さまの存在という真実に従うことを拒む人たち、その真実を偶像と引き換えにして偶像を追いかけて生きる人たち、そういう人たちに神さまは怒りと憤りを注ぎます。

第9節~第11節、「邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。しかし善を行う人全員には栄光と栄誉と平安があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。神さまにえこひいきはありません。」

ここには神さまに分け隔てやえこひいきはない、と書かれています。ユダヤ人と異邦人の区別なく、神さまの存在を拒み、邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があり、神さまをほめたたえ、善を行う人全員に栄光と栄誉と平安があります。

第12節は異邦人とユダヤ人を対比して、異邦人は律法を持たない人、ユダヤ人は律法を持つ人とされます。つまりユダヤ人は聖書を託された民族、異邦人は聖書について何も知らない人たちと言うことです。

まず、「異邦人が罪を犯せば滅ぼされます。たとえ神さまの律法の書物を持たなくてもです。」と書かれています。異邦人は、たとえ聖書を持っていなくても、つまり聖書を持っていないから罪が何であるかを一度も説明されていなくても、罪を犯せば神さまによって滅ぼされます。「罪を犯せば」と言うのは、ここまでで明らかになっているとおり、「神さまの意志に背けば」であり、「神さまを信じ、神さまの栄光を追い求める人生を歩まなければ」ということです。

次に「そして律法の書を持つユダヤ人は、それに従うことができなければ、その律法によって裁かれます。」と書かれています。ユダヤ人は罪がなんであるかを規定した律法を聖書として託されているので、聖書に従わなければ聖書に沿って裁きを受けると言うことです。

パウロの時代にはまだ旧約聖書は今日の形では成立しておらず、旧約聖書に含まれる39冊の本は、膨大なユダヤの文献の中にばらばらに存在していました。後に正典として成立することになる旧約聖書の中で律法と呼ばれるのは、モーゼが記述したとされる「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Leviticus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」の5冊のことで、「モーゼ五書」などとも呼ばれます。

当時、広義の律法として考えられていたのは、これら5冊の他に、慣習法としてユダヤ人の間で共有されてきた、細則までもを含む数百件の掟になります。そして狭義の律法と言えるのが「Exodus(出エジプト記)」に含まれる「Ten Commandments(十戒)」です。十戒は十個の命令ですが、Exodus 20:1-17(出エジプト記第20章第1節~第17節)に、次のように書かれています。

「1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。-- あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も -- 11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。13 殺してはならない。14 姦淫してはならない。15 盗んではならない。16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」」([新改訳])

要約すると次のようになります。

一. 聖書の「神さま」以外の神を崇拝してはいけない。
二. 偶像(金属・木・石などで作る神仏の像)を作って拝んではいけない。
三. 神さまの名前をみだりに唱えてはいけない。
四. 安息日を聖なる日として仕事を休む。
五. 父母を敬う。
六. 人を殺さない。
七. 姦淫(倫理にそむいた肉体関係を)しない。
八. 盗まない。
九. 嘘をつかない。
十. 他人のものを欲しがらない。

最初の四つは自分と神さまとの関係、残りの六つは自分と他の人との関係についてです。特に後半の六つについては、私たちの知っている道徳観・倫理観とかなり通じる部分があり、不自然な印象は受けません。

第13節には「単に律法を聞くことで私たちが神さまに対して正しくなるわけではありません。律法に従うことが私たちを神さまの目に正しく映すのです。」とあります。

これは聖書を持つユダヤ人に対しての言葉でしょう。聖書を読んでいるとか、知っているとか、聞いているとか、それだけのことで自分が神さまに対して正しくなるわけではありません。聖書を託されたユダヤ民族の一員だからという理由で神さまに対して正しくなるわけではないのです。聖書に書かれた掟に従う、その自分の行動が、自分を神さまの目に正しく映すのです。

第14節~第15節、「神さまの律法の書物を持たない異邦人でさえ、本能的に律法に従うことで、彼らが神さまの律法を知っていることを示します。聞いたこともないのにです。異邦人は神さまの律法が心に書かれていることを示しています。自分の良心や考えが彼らを責めたり、正しいことをしていると告げたりします。」

これは私たち異邦人についてです。異邦人は聖書を持っていないにも関わらず、本能的に、人としてやって良いこととやってはいけないことを知っています。パウロはこれはつまり異邦人も神さまの律法、聖書に書かれていることを知っている証であると言います。私たち異邦人は、たとえ聖書を見たり聞いたりしたことがなくても、神さまの律法が、創造の時点ですべての人間の心に書かれていることの例証なのです。悪いことをしようとすると良心の呵責があり、良いことをすると自分は正しいことをしていると心が自分に告げます。これは神さまが律法を私たちの心に刻んでおいてくれたからなのです。

第16節、パウロは「これが私が伝えるメッセージです。神さまがイエス・キリストを通じてすべての人の隠された生涯を裁く日が来るのです。」と言います。神さまが、すべての人について隠された生涯を明らかにし、それを裁く日が来ます。それを行うのは天から再来するイエス・キリストです。







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ローマ人への手紙第2章第17節~第29節:ユダヤ人と律法

ローマ人への手紙 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Jews and the Law

ユダヤ人と律法


17 You who call yourselves Jews are relying on God’s law, and you boast about your special relationship with him.

17 自分をユダヤ人と呼ぶ人は神さまの律法に頼り、自分と神さまとの特別な関係を自慢します。

18 You know what he wants; you know what is right because you have been taught his law.

18 あなた方ユダヤ人は神さまが求める物を知っています。あなた方は神さまの律法を教えられたのですから、何が正しいかを知っています。

19 You are convinced that you are a guide for the blind and a light for people who are lost in darkness.

19 あなた方は、自分が目の不自由な人への案内人であり、暗闇の中に失われている人々への光であると確信しています。

20 You think you can instruct the ignorant and teach children the ways of God. For you are certain that God’s law gives you complete knowledge and truth.

20 あなた方は、自分は無知な人たちや子供に神さまの道を教えられると思っています。それはあなた方が、神さまの律法があなた方に完全な知識と真実を与えると確信しているからです。

21 Well then, if you teach others, why don’t you teach yourself? You tell others not to steal, but do you steal?

21 それならば、もしあなた方が他者を教えるのなら、どうして自分自身を教えないのですか。他の人たちに盗むなと言いながら、あなた方は盗むのですか。

22 You say it is wrong to commit adultery, but do you commit adultery? You condemn idolatry, but do you use items stolen from pagan temples?

22 あなた方は不義を犯すことは過ちだと言いながら、自分は不義を犯すのですか。あなた方は偶像崇拝を強く非難しながら、自分は異教の寺院から盗んできたものを使うのですか。

23 You are so proud of knowing the law, but you dishonor God by breaking it.

23 あなた方は律法を知っていることをそれほどまでに自慢しながら、それを破ることであなた方は神さまの名誉を汚しているのです。

24 No wonder the Scriptures say, “The Gentiles blaspheme the name of God because of you.”

24 聖書が言うのも不思議はありません。「あなた方のせいで異邦人がみだりに神さまの名前を言って不敬を働く。」

25 The Jewish ceremony of circumcision has value only if you obey God’s law. But if you don’t obey God’s law, you are no better off than an uncircumcised Gentile.

25 ユダヤの割礼の儀式は、あなた方が神さまの律法を守るのなら価値があります。しかしもしあなた方が神さまの律法に従わないのなら、あなた方は割礼のない異邦人と変わりません。

26 And if the Gentiles obey God’s law, won’t God declare them to be his own people?

26 もし異邦人が神さまの律法に従うのなら、神さまはその人たちが自分の民だと言わないでしょうか。

27 In fact, uncircumcised Gentiles who keep God’s law will condemn you Jews who are circumcised and possess God’s law but don’t obey it.

27 実際に、神さまの律法を守る割礼を受けていない異邦人が、割礼を受け、神さまの律法を持つあなた方ユダヤ人を裁きます。

28 For you are not a true Jew just because you were born of Jewish parents or because you have gone through the ceremony of circumcision.

28 ユダヤ人の両親から生まれたから、割礼の儀式を受けたからといって、あなた方は本当のユダヤ人ではありません。

29 No, a true Jew is one whose heart is right with God. And true circumcision is not merely obeying the letter of the law; rather, it is a change of heart produced by the Spirit. And a person with a changed heart seeks praise from God, not from people.

29 違います。本当のユダヤ人は心が神さまに対して正しい人です。本当の割礼とは単に律法の文字に従うことではありません。霊によって生まれる心の変化です。そして心が変化した人は、人からではなく、神さまからの賞賛を求めます。




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第2章です。

第2章の前半の最後、第16節には「神さまがイエス・キリストを通じてすべての人の隠された生涯を裁く日が来るのです。」と書かれていました。第2章の前半には、ユダヤ人であるかないかは関係なく、ユダヤ人も異邦人も、生涯の行いに応じて裁かれると書かれていました。そしてその善悪の裁きの基準は、自分が神さまの目に正しく映るかどうかであり、すなわち神さまを信じて神さまの栄光を追い求める選択をするか、あるいは神さまの存在の真実を否定して自分の偶像を追い求めるという選択をするか、で決まるのです。

第2章の後半はユダヤ人についてです。

第17節、「自分をユダヤ人と呼ぶ人は神さまの律法に頼り、自分と神さまとの特別な関係を自慢します。」

「自分をユダヤ人と呼ぶ人」と言うのはは「自称ユダヤ人」、本当はユダヤ人ではないのに自分のことを自分でユダヤ人だと言う人のことです。パウロはそういう自称ユダヤ人と言うのは、旧約聖書の律法を根拠にして自分と神さまとの特別な関係を自慢する、そういう人たちだと言います。

第18節、「あなた方ユダヤ人は神さまが求める物を知っています。あなた方は神さまの律法を教えられたのですから、何が正しいかを知っています。」

ユダヤ人は神さまが求める物を知っている人たちです。ユダヤ人は神さまがモーゼを通じて授けた律法についての教育を受けているのですから、神さまが何を正しいとするかを知っているのです。

第19節、「あなた方は、自分が目の不自由な人への案内人であり、暗闇の中に失われている人々への光であると確信しています。」

これは比喩です。目が不自由であるとか、暗闇の中に失われていると言うのは、神さまという光を知らない異邦人のことです。ユダヤ人は、神さまの祝福を受けて世の中で光り輝くような存在となり、異邦人に希望を与え、暗闇の中にいる異邦人を神さまの光へと導く、そういう立場にあります。

第20節、「あなた方は、自分は無知な人たちや子供に神さまの道を教えられると思っています。それはあなた方が、神さまの律法があなた方に完全な知識と真実を与えると確信しているからです。」

「無知な人たちや子供」と言うのもやはり異邦人のことでしょう。ユダヤ人は自分たちは異邦人に神さまの道を教えられると思っています。それは自分たちが習い親しんできた旧約聖書の律法こそが世の中で最高の権威を持つものであり、律法が人に完全な知識と真実を与える力を持つと確信しているからです。

第21節、「それならば、もしあなた方が他者を教えるのなら、どうして自分自身を教えないのですか。他の人たちに盗むなと言いながら、あなた方は盗むのですか。」

パウロは「それならば」と言い、どうして自分が他者を教えられると信じながら、自分自身には教えないのか、とユダヤ人を批判します。完全な知識と真実を与える律法に親しみながら、ユダヤ人は、それを守るという行動を起こしていないからです。

またパウロは「他の人たちに盗むなと言いながら、あなた方は盗むのですか。」と言います。律法の十戒には「盗んではならない。」と書いてあります。Exodus 20:15(出エジプト記第20章第15節)です。ユダヤ人は誰でもこれをよく知っていて、「たとえば十戒には盗んではならないと書いてある」と異邦人に自慢げに教えるのでしょう。そうやって他の人たちに「盗むな」と教えながら、ユダヤ人はたとえばちょっとしたごまかし程度の盗みなら誰でもするのです。何が盗みにあたり、何が盗みにあたらないかは誰が決めるのでしょうか。

第22節、「あなた方は不義を犯すことは過ちだと言いながら、自分は不義を犯すのですか。あなた方は偶像崇拝を強く非難しながら、自分は異教の寺院から盗んできたものを使うのですか。」

パウロは「あなた方は不義を犯すことは過ちだと言いながら、自分は不義を犯すのですか。」と責めます。同じく十戒には「姦淫してはならない。」と書いてあります。Exodus 20:14(出エジプト記第20章第14節)です。ユダヤ人は姦淫の罪は死罪にあたると知っています。しかしユダヤ人の間でも不倫の話は後を絶ちません。

偶像崇拝についても十戒に「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」と書いてあります。Exodus 20:4(出エジプト記第20章第4節)です。しかしイスラエルの国外に暮らすディアスポラ系のユダヤ人たちは、自分たちの住む町で、ギリシヤ神話やローマ神話の神々を偶像にして奉る寺院に捧げられた食物を何のためらいもなく食べているのです。

第23節、「あなた方は律法を知っていることをそれほどまでに自慢しながら、それを破ることであなた方は神さまの名誉を汚しているのです。」

ユダヤ人は「神さまの律法」「神さまの律法」と偉そうに自慢しながら、それを行動に移して実践して示すことがありません。この一貫性の欠如は異邦人の目にも明白なはずで、異邦人はユダヤ人を冷笑するでしょう。そうやってユダヤ人は神さまの名誉を汚(けが)しているとパウロは言います。

第24節、「聖書が言うのも不思議はありません。「あなた方のせいで異邦人がみだりに神さまの名前を言って不敬を働く。」」

パウロの引用は、Isaiah 52:5(イザヤ書第52章第5節)ですが、ここでは、Isaiah 52:1-5(イザヤ書第52章第1節~第5節)を引用します。

「1 さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。2 ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。3 まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」 4 まことに神である主がこう仰せられる。「わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。5 さあ、今、ここでわたしは何をしよう。-- 主の御告げ -- わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。-- 主の御告げ -- また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。」([新改訳])。

第25節以降は「割礼」の話になります。割礼は男性器の包皮を切除する外科手術の儀式です。旧約聖書の「Genesis(創世記)」に定められています。引用はGenesis 17:10-14(創世記第17章第10節~第14節)です。

「10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。 14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」([新改訳])。

第25節、「ユダヤの割礼の儀式は、あなた方が神さまの律法を守るのなら価値があります。しかしもしあなた方が神さまの律法に従わないのなら、あなた方は割礼のない異邦人と変わりません。」

割礼の儀式は外科手術的な儀式により肉の上の印となって残ります。ユダヤ人はその印によって自分がユダヤ人であることの証とし、その印によって神さまの祝福を受け、天国に迎えられると信じています。しかしパウロは肉の上の割礼の印は律法を守るのであれば価値があるが、たとえば盗みを働いたり、不義をしたり、偶像に捧げられた肉を平気で食べたりして、そうやって律法に従っていないのなら、割礼のない異邦人と何も変わらないと言います。

第26節~第27節、「もし異邦人が神さまの律法に従うのなら、神さまはその人たちが自分の民だと言わないでしょうか。実際に、神さまの律法を守る割礼を受けていない異邦人が、割礼を受け、神さまの律法を持つあなた方ユダヤ人を裁きます。」

逆に異邦人でも、神さまを信じて律法に従うことを行動に移している人がいたら、神さまはその人たちこそが自分の民だと言う、とパウロは言います。そして実際に最後の裁きの場では、神さまの律法を守る割礼を受けていない異邦人が、肉体に割礼を受け、神さまの律法を持つユダヤ人を裁くのだ、と言います。最後の裁きで裁判官を務めるのは再来するイエス・キリストですが、福音を信じる異邦人は、この裁判の席でイエス・キリストのいる裁判官の側に座る、そういう意味でしょう。

第28節、パウロは「ユダヤ人の両親から生まれたから、割礼の儀式を受けたからといって、あなた方は本当のユダヤ人ではありません。」と言います。これが当時のユダヤ人が信じていたことです。自分を確実にユダヤ人にする物、それによって神さまからの祝福と天国行きを約束する物、それは血筋と割礼の儀式の印なのです。

第29節、「違います。本当のユダヤ人は心が神さまに対して正しい人です。本当の割礼とは単に律法の文字に従うことではありません。霊によって生まれる心の変化です。そして心が変化した人は、人からではなく、神さまからの賞賛を求めます。」

パウロは「本当のユダヤ人」と言うのは、血筋や割礼の有無が決めるものではなく、「心が神さまに対して正しいかどうか」だと言います。そして「割礼」もまた、律法として書かれた文字に従って受ける外科手術のことではなく、「霊によって生まれる心の変化」だと言います。聖霊の働きで心が変化した本当のユダヤ人は、血筋や表面的な遵法によって人からの称賛を求めるのではなく、神さまを信じ、褒め称え、従うことで神さまからの賞賛を求めるようになるのです。

割礼が肉の上の印を言うのではなく、神さまを信じる信仰の有無が心に刻む印となったものを指すと言うのは、ここでパウロが言い出したことではなく、旧約聖書にも最初から何カ所かに登場しています。

たとえばDeuteronomy 10:15-16(申命記第10章第15節~第16節)はモーゼの律法そのものですが、「15 主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」([新改訳])と、「心の包皮を切り捨てなさい」と表現されています。

あるいはJeremiah 4:3-4(エレミヤ書第4章第3節~第4節)には、「3 まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。4 ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」([新改訳])と書かれています。






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2015年07月29日

ローマ人への手紙:第3章

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ローマ人への手紙第3章第1節~第20節:神さまはいつも誠実、すべての人が罪人

ローマ人への手紙 第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


God Remains Faithful

神さまはいつも誠実


1 Then what’s the advantage of being a Jew? Is there any value in the ceremony of circumcision?

1 それならばユダヤ人であることで何が良いのでしょうか。割礼の儀式には価値があるのでしょうか。

2 Yes, there are great benefits! First of all, the Jews were entrusted with the whole revelation of God.

2 はい。大きな利益があります。まず最初にユダヤ人には神さまのすべての啓示が託されています。

3 True, some of them were unfaithful; but just because they were unfaithful, does that mean God will be unfaithful?

3 確かにユダヤ人の中には不誠実な人もいます。しかし単にユダヤ人が不誠実だからといって、神さまが不誠実ということになりますか。

4 Of course not! Even if everyone else is a liar, God is true. As the Scriptures say about him, “You will be proved right in what you say, and you will win your case in court.”

4 もちろん違います。たとえ他の全員が嘘つきでも神さまは誠実です。聖書が神さまについて言っています。「あなたはあなたが話すことにより正しさを証明され、法廷で勝利を勝ち取ります。」

5 “But,” some might say, “our sinfulness serves a good purpose, for it helps people see how righteous God is. Isn’t it unfair, then, for him to punish us?” (This is merely a human point of view.)

5 誰かが言うかも知れません。「でも私たちの罪には善い目的があるのです。なぜなら私たちの罪によって人々は神さまがどれほど正しいかを知ります。だとしたら神さまが私たちを罰するのは不公平ではないでしょうか。」(これは単なる人間の考えです。)

6 Of course not! If God were not entirely fair, how would he be qualified to judge the world?

6 もちろん違います。もし神さまが完全に公平でなかったら、どうして神さまに世を裁く資格があるのでしょうか。

7 “But,” someone might still argue, “how can God condemn me as a sinner if my dishonesty highlights his truthfulness and brings him more glory?”

7 誰かがまだ言うかも知れません。「でも私の不誠実が神さまの誠実を際立たせ、神さまにさらなる栄光をもたらすのだとしたら、どうして神さまは私を罪人として裁けるのでしょうか。」

8 And some people even slander us by claiming that we say, “The more we sin, the better it is!” Those who say such things deserve to be condemned.

8 中には私たちが次のように言うと言って私たちを中傷する人たちもいます。「私たちが罪を働けば働くほど、それは良くなる。」 そのようなことを言う人たちには有罪の判決がふさわしいのです。



All People Are Sinners

すべての人が罪人


9 Well then, should we conclude that we Jews are better than others? No, not at all, for we have already shown that all people, whether Jews or Gentiles, are under the power of sin.

9 さてそれでは私たちはユダヤ人は他の人たちより善いと結論すべきでしょうか。いいえ、まったく違います。私たちがすでに示したように、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての人が罪の力の下にいるのです。

10 As the Scriptures say, “No one is righteous -- not even one.

10 聖書が言うとおりです。「誰も正しくない。ひとりとして。

11 No one is truly wise; no one is seeking God.

11 本当に賢い人はいない。誰も神さまを求めていない。

12 All have turned away; all have become useless. No one does good, not a single one.”

12 すべての人が顔を背けた。すべての人が役立たずとなった。誰も善いことをしない。ひとりとして。」

13 “Their talk is foul, like the stench from an open grave. Their tongues are filled with lies.” “Snake venom drips from their lips.”

13 「彼らの会話は腐っている。開いた墓からの悪臭のようだ。彼らの舌は嘘で満ちている。」「彼らの唇からは蛇の毒がしたたる。」

14 “Their mouths are full of cursing and bitterness.”

14 「彼らの口は呪いと嫌みで満ちている。」

15 “They rush to commit murder.

15 「彼らは殺人へと急ぐ。

16 Destruction and misery always follow them.

16 破壊と悲惨がいつも彼らに付いていく。

17 They don’t know where to find peace.”

17 彼らは平安を見つける場所を知らない。」

18 “They have no fear of God at all.”

18 「彼らには神さまへの畏れがまったくない。」

19 Obviously, the law applies to those to whom it was given, for its purpose is to keep people from having excuses, and to show that the entire world is guilty before God.

19 明らかに、律法は、それが与えられた人たちに適用されます。それは律法の目的が人々が言い訳をできなくすることであり、世の中全体が神さまの前に有罪だと示すことだからです。

20 For no one can ever be made right with God by doing what the law commands. The law simply shows us how sinful we are.

20 なぜなら律法が命じることを行っても、誰ひとりも神さまに対して正しくされることはないからです。律法は単に私たちがどれほど罪深いかを示すだけです。




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第3章です。

第2章の後半はユダヤ人について、神さまの言葉としての律法を託され、それを自慢しているにも関わらず、それを自分の行動に移さないことが厳しく批判されました。そしてユダヤ人が神さまの民の証拠として誇る、自分の肉に記された「割礼」も、律法を実践していないのであれば意味を持たず、本当の割礼は聖霊によって生まれる心の変化のことなのだと言われます。

第3章は、第1節の「それならばユダヤ人であることで何が良いのでしょうか。割礼の儀式には価値があるのでしょうか。」と言う問題定義で始まり、第2節には「はい。大きな利益があります。まず最初にユダヤ人には神さまのすべての啓示が託されています。」と書かれます。

この世で唯一、神さまの存在を文章として書き記した書物が聖書で、その書物はユダヤ人という一つの民族に託されたのです。私はこの世の中に聖書と言う書物が存在することにうならされます。宇宙を創造し、その中の地球に知性を持つ人間を置き、その人間に自分の存在を記した書物を渡す。これは昨今では、SFやファンタジーに似通ったプロットがたくさん見られるような状況ですが、その起源は聖書なのです。

第1章に書かれていたように、たとえ聖書を読まない異邦人でも、世界を眺めて暮らしていれば、そこはデザイナーの存在を感じさせる不思議にあふれているのですから、創造者の存在を否定することはできません。しかしもっとすごいのは、その創造者が人間に託した書物が地上に存在すると言うことです。そしてその書物を託された地上で唯一の民族がユダヤ人です。それは本当に誇らしいことだと思います。

第3節、「確かにユダヤ人の中には不誠実な人もいます。しかし単にユダヤ人が不誠実だからといって、神さまが不誠実ということになりますか。」

ユダヤ人の中には不誠実な人もいるが、ユダヤ人が不誠実であることで、神さまが不誠実ということになるか、とパウロはききます。これはどのようなロジックに基づく質問なのか理解に苦しみますが、答えは第4節に次のように書かれます。

第4節、「もちろん違います。たとえ他の全員が嘘つきでも神さまは誠実です。聖書が神さまについて言っています。「あなたはあなたが話すことにより正しさを証明され、法廷で勝利を勝ち取ります。」」

答えはノーです。たとえ他の全員が嘘つきでも神さまだけはいつも誠実です。聖書の引用は、Psalm 51:4(詩編第51章第4節)の後半部分です。引用はPsalm 51:1-4(詩編第51章第1節~第4節)です。

「1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」([新改訳])。

第5節、「誰かが言うかも知れません。「でも私たちの罪には善い目的があるのです。なぜなら私たちの罪によって人々は神さまがどれほど正しいかを知ります。だとしたら神さまが私たちを罰するのは不公平ではないでしょうか。」(これは単なる人間の考えです。)」

これは神さまの正しさを示すために自分の罪が役に立っていると、自分の罪を正当化する発言です。

これに対して第6節のパウロは説明さえしません。

第6節、「もちろん違います。もし神さまが完全に公平でなかったら、どうして神さまに世を裁く資格があるのでしょうか。」

神さまはすべての人を同じ基準で公平に裁きます。そもそも神さまの正しさや神さまの公平さを証明するために神さまは誰の助けも必要としませんし、神さまは宇宙の創造者であり支配者なのですから、自分の正しさや公平さを誰かに証明する必要もありません。

第7節と第8節は、それでも食い下がる人の発言です。

第7節~第8節、「誰かがまだ言うかも知れません。「でも私の不誠実が神さまの誠実を際立たせ、神さまにさらなる栄光をもたらすのだとしたら、どうして神さまは私を罪人として裁けるのでしょうか。」 中には私たちが次のように言うと言って私たちを中傷する人たちもいます。「私たちが罪を働けば働くほど、それは良くなる。」 そのようなことを言う人たちには有罪の判決がふさわしいのです。」

パウロは、そのようなことを言う人たちには有罪の判決がふさわしいと切り捨てます。

第9節、「さてそれでは私たちはユダヤ人は他の人たちより善いと結論すべきでしょうか。いいえ、まったく違います。私たちがすでに示したように、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての人が罪の力の下にいるのです。」

パウロはユダヤ人であるかないかに関わらず、すべての人が罪の力の下にいる、と言い、ここからはそれを聖書の引用で裏付けていきます。

第10節~第12節、「誰も正しくない。ひとりとして。本当に賢い人はいない。誰も神さまを求めていない。すべての人が顔を背けた。すべての人が役立たずとなった。誰も善いことをしない。ひとりとして。」

これはPsalm 14:1-3(詩編第14章第1節~第3節)とPsalm 53:1-3(詩編第53章第1節~第3節)です。

「1 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」([新改訳])。

「1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」([新改訳])。

第13節、 「彼らの会話は腐っている。開いた墓からの悪臭のようだ。彼らの舌は嘘で満ちている。」「彼らの唇からは蛇の毒がしたたる。」は、Psalm 5:9(詩編第5章第9節)とPsalm 140:3(詩編第140章第3節)です。引用はPsalm 5:8-10(詩編第5章第8節~第10節)とPsalm 140:1-3(詩編第140章第1節~第3節)です。

「8 主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。9 彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。10 神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。」([新改訳])。

「1 主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。2 彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。3 蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ 」([新改訳])。

第14節、「彼らの口は呪いと嫌みで満ちている。」は、Psalm 10:7(詩編第10章第7節)です。引用はPsalm 10:3-7(詩編第10章第3節~第7節)です。

「3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。4 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。5 彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない。敵という敵を、彼は吹き飛ばす。6 彼は心の中で言う。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」 7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。」([新改訳])。

第15節~第17節、 「彼らは殺人へと急ぐ。破壊と悲惨がいつも彼らに付いていく。彼らは平安を見つける場所を知らない。」は、Isaiah 59:7-8(イザヤ書第59章第7節~第8節)です。引用はIsaiah 59:1-8(イザヤ書第59章第1節~第8節)です。

「1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。3 実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。4 正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。6 そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。7 彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」([新改訳])。

第18節、「彼らには神さまへの畏れがまったくない。」は、Psalm 36:1(詩編第36章第1節)です。

「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。」([新改訳])。

以上の引用から、聖書が多くの箇所で、善い人はひとりもいない、すべての人は悪い、と言い続けていることがわかります。その上でパウロは第19節で「明らかに、律法は、それが与えられた人たちに適用されます。」と言い、ここで「それが与えられた人たち」と言うのはユダヤ民族のことですから、これはみんなユダヤ人について言われているのですよ、と言っていることになります。

第19節後半~第20節、「それは律法の目的が人々が言い訳をできなくすることであり、世の中全体が神さまの前に有罪だと示すことだからです。なぜなら律法が命じることを行っても、誰ひとりも神さまに対して正しくされることはないからです。律法は単に私たちがどれほど罪深いかを示すだけです。」

そもそも聖書の律法が神さまによって示された目的が明らかにされます。それは「人々が言い訳をできなくすること」なのでした。そしてユダヤ人や異邦人の区別なく、律法の目的は「世の中全体が神さまに対して有罪である」と示すことなのです。律法を読めば、民族の区別なく、世の中全体が神さまの目に有罪として映ることがわかります。律法は、そこに書かれたとおりのことを実行して見せることで、神さまの目に正しく映るために示されたのではなく、それを読んで自分たちがどれほど罪深いかを知るためのものなのです。







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ローマ人への手紙第3章第21節~第31節:キリストが私たちの罪を引き受けた

ローマ人への手紙 第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Christ Took Our Punishment

キリストが私たちの罪を引き受けた


21 But now God has shown us a way to be made right with him without keeping the requirements of the law, as was promised in the writings of Moses and the prophets long ago.

21 しかしいま神さまは私たちに、律法の要求を満たすこと抜きで私たちが神さまに対して正しくなる方法を示しました。これは遠い昔にモーゼと預言者たちの書によって約束されていたとおりです。

22 We are made right with God by placing our faith in Jesus Christ. And this is true for everyone who believes, no matter who we are.

22 私たちはイエス・キリストに信仰を置くことにより神さまに対して正しくされます。そしてこれは私たちが誰であっても信じる人すべてに対してあてはまるのです。

23 For everyone has sinned; we all fall short of God’s glorious standard.

23 と言うのも、すべての人は罪を犯したので、私たち全員が神さまの栄誉の基準には届きません。

24 Yet God, in his grace, freely makes us right in his sight. He did this through Christ Jesus when he freed us from the penalty for our sins.

24 しかし神さまは、その恵みにより、惜しげもなく私たちを神さまの目に正しくしてくださるのです。神さまはこれをイエス・キリストを通じて行いました。イエス・キリストが私たちを罪に対する罰から解放しました。

25 For God presented Jesus as the sacrifice for sin. People are made right with God when they believe that Jesus sacrificed his life, shedding his blood. This sacrifice shows that God was being fair when he held back and did not punish those who sinned in times past,

25 神さまはイエスさまを私たちの罪に対するいけにえとして捧げました。人はイエスさまが血を流して自分のいのちを犠牲にしたと信じるとき、神さまに対して正しくされます。このいけにえが示すのは神さまが公平だったと言うことです。神さまは行動を抑え、過去に罪を犯した人たちを罰しませんでした。

26 for he was looking ahead and including them in what he would do in this present time. God did this to demonstrate his righteousness, for he himself is fair and just, and he makes sinners right in his sight when they believe in Jesus.

26 それは神さまが先を見て、神さまがその人たちを今日行うことに含めていたからです。神さまがこれを行ったのは神さまの正しさを示すためです。神さまご自身は公平で正しく、罪人たちがイエスさまを信じるとき、神さまはその人たちを自分の目の中に正しくするのです。

27 Can we boast, then, that we have done anything to be accepted by God? No, because our acquittal is not based on obeying the law. It is based on faith.

27 それでは私たちは神さまから受け入れてもらうために何かをしたと自慢できるでしょうか。いいえ、なぜなら私たちの無罪放免は律法に従うことには基づいていません。信仰に基づくのです。

28 So we are made right with God through faith and not by obeying the law.

28 私たちは律法に従うことによってではなく、信仰によって神さまに対して正しくされるのです。

29 After all, is God the God of the Jews only? Isn’t he also the God of the Gentiles? Of course he is.

29 最終的に神さまはユダヤ人だけの神さまなのでしょうか。異邦人にとっても神さまではないのでしょうか。確かにそうです。

30 There is only one God, and he makes people right with himself only by faith, whether they are Jews or Gentiles.

30 神さまはただひとつです。そして神さまはただ信仰だけによってご自身に対して人を正しくするのです。それがユダヤ人でも異邦人でもです。

31 Well then, if we emphasize faith, does this mean that we can forget about the law? Of course not! In fact, only when we have faith do we truly fulfill the law.

31 それでは私たちが信仰を強調すると、それは私たちが律法を忘れることができるということでしょうか。もちろん違います。実際のところ、私たちが信仰を持つときにだけ、私たちは律法を守ることができるのです。




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第3章です。

第3章前半はユダヤ人であることの利益として、地球上で神さまから聖書の律法が託された民族であることが挙げられましたが、パウロはその聖書から何カ所も引用して、聖書がどれほど多くの箇所で、世の中には善い人が一人もいないことや、すべての人が悪いと言うことが書かれているかを示しました。そしてユダヤ人に律法が示された理由は、そもそもそれを遵守して神さまの目に正しく映るためではなく、それに照らして、ユダヤ人や異邦人の区別なく、世の中全体が有罪であると知らせるため、人に言い訳をできないようにするため、であったとパウロは言いました。私たちはここまでを読み、打ちのめされます。

続く第3章後半は、私たちを救済する良い知らせの話です。

第21節、「しかしいま神さまは私たちに、律法の要求を満たすこと抜きで私たちが神さまに対して正しくなる方法を示しました。これは遠い昔にモーゼと預言者たちの書によって約束されていたとおりです。」

これは大変な吉報です。パウロによれば聖書の律法は、とうてい実践できない要求の連続であり、それは私たちがそれを読んで、どれほど自分たちが神さまの目に悪く映るか、どれほど自分たちがダメダメかを知るためにあったのですが、なんといま私たちが律法の要求を満たすこと抜きで、神さまの目に正しく映る、魔法のような方法が示された、と言うのです。

しかも、それは「遠い昔にモーゼと預言者たちの書によって約束されていたとおり」と書かれています。その方法がやがて神さまから示されることは、聖書の中に預言としてあらかじめ予告されていたのです。

第22節~第23節、「私たちはイエス・キリストに信仰を置くことにより神さまに対して正しくされます。そしてこれは私たちが誰であっても信じる人すべてに対してあてはまるのです。と言うのも、すべての人は罪を犯したので、私たち全員が神さまの栄誉の基準には届きません。」

その方法は「イエス・キリストに信仰を置くこと」だと書かれています。そしてその方法は、誰にでも、信じる人全員に当てはまると書かれています。そもそも人間は、全員が神さまに対して罪を犯しているので、この理由により、全員が神さまが定めた善の基準に到達することができない、そういう状態にあるのです。

第24節、「しかし神さまは、その恵みにより、惜しげもなく私たちを神さまの目に正しくしてくださるのです。神さまはこれをイエス・キリストを通じて行いました。イエス・キリストが私たちを罪に対する罰から解放しました。」

私たち人間は全員が有罪であり、全員が神さまの善の基準には届かない状態にあります。旧約聖書の律法を読めば、私たちの生き方が神さまの意志に反し、神さまをガッカリさせ続けているであろうことは容易に想像がつきます。しかし神さまは「その恵みにより、惜しげもなく私たちを神さまの目に正しくしてくださるのです。」

何という素晴らしい話でしょうか。私たちが神さまの目に正しく映る方法は、神さまの恵み、神さまの親切、神さまの思いやりによって提供されたのです。神さまは律法によってどれほど人間が悪しき存在であるかを示し、読んだ人の誰もが、自分がどれほど創造主の意図に反して生きているかを知って、恥じ入り、打ちのめされ、悔いるようにしました。どんなことをしても神さまの目に正しくなることなど到底できないと思い知らせました。が、その一方で神さまは恩恵による人間救済の道を提供したのです。

神さまは神聖です。一点の汚(けが)れもありません。ここは許すけれど、ここは許さないなどという妥協点はないのです。だから神さまなのです。神聖な神さまに対して俗悪な私たち人間が正しく映る方法などあるはずがありません。しかし神さまは神聖であると同時に愛でもあるのです。神さまは神さまの意図を追い求め、悔い改めようとする人間を哀れんで慈愛を示します。そういう神さまがいよいよ人間に示した方法が、イエス・キリストを通じた救済なのです。

第24節の後半には「神さまはこれをイエス・キリストを通じて行いました。イエス・キリストが私たちを罪に対する罰から解放しました。」とあります。神さまはイエスさまを使って私たち全員を有罪判決から解放したのです。

これはどういう意味でしょうか。次を読んでみましょう。

第25節、「神さまはイエスさまを私たちの罪に対するいけにえとして捧げました。人はイエスさまが血を流して自分のいのちを犠牲にしたと信じるとき、神さまに対して正しくされます。このいけにえが示すのは神さまが公平だったと言うことです。神さまは行動を抑え、過去に罪を犯した人たちを罰しませんでした。」

イエス・キリストを通じた方法というのが、ここでは「神さまはイエスさまを私たちの罪に対するいけにえとして捧げました。人はイエスさまが血を流して自分のいのちを犠牲にしたと信じるとき、神さまに対して正しくされます。」と説明されています。しかし、「イエスさまを罪に対するいけにえとして捧げました」であるとか、「イエスさまが血を流して自分のいのちを犠牲にした」と書かれても、私たち日本人には意味がわかりません。

そこで、いけにえの血が汚れを取り除く目的で使われる例を、旧約聖書の律法から読んでおきます。旧約聖書の「Leviticus 16(レビ記第16章)」には、モーゼの兄で大祭司のアロンが、年に一度、移動式神殿の最も神聖な領域に入って行う儀式の詳細が書かれています。そのときにユダヤ人全員の汚れの埋め合わせのために、いけにえの動物の血が使われるのです。引用はやや長いですが、Leviticus 16:2-16(レビ記第16章第2節~第16節)です。引用文中の「購い(あがない)」と言う言葉は、「お金や品物で、罪や失敗の埋めあわせをする」という意味です([新明解国語辞典])。

「2 主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。12 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。」([新改訳])。

引用文中の「贖いのふた」は、移動式神殿の最も神聖なる領域の中にある、純金が貼られたアカシヤ材の箱(引用文中の「あかしの箱」)のふたの部分です。このアカシヤ材の箱は、移動できるように、ちょうど日本の「おみこし」のような担ぎ棒のついた箱になっています。ふたの部分はすべて純金で作られていて、両端に、やはり金で作ったケルビムという天使の像が、向かい合ってふたの上に覆い被さるように翼を拡げた状態で取り付けられています。この部分の設計図は旧約聖書の「Exodus 25(出エジプト記第25章)」に詳細に書かれています。

引用文中の「アザゼル」は意味がわかっていません。正確な意味がわからないため[新改訳]では、ヘブライ語の「アザゼル」がそのまま用いられています。アザゼル側の動物は荒野に放たれます。

この儀式の中ではアロンがいけにえの血を、イスラエル人の汚れとそむき、すなわちそのすべての罪のために贖いのふたに振りかけています。神さまは年に一度、大祭司によってこの儀式が行われる限り、イスラエル人のすべての罪を許していたのです。

「Romans (ローマ人への手紙)」第3章第25節にある「神さまはイエスさまを私たちの罪に対するいけにえとして捧げました。」と言うのは、ここに書かれているいけにえの血を用いた儀式の最終版が、イエスさまの血によって行われた、ということです。

聖書では、人のいのちは人のいのちによってしか購えません。そしていのちは血の中にある、と書かれています。アロンによる儀式は、イスラエル人の罪の代償として動物の血を用いていたので、たとえここに書かれた手順どおりに行ったとしても、その効力は一年でした。よってこの儀式は毎年繰り返される必要があったのです。

しかし2000年前に起こったイエスさまの十字架刑では、人のいのちそのものが使われました。そしていけにえに捧げられたイエスさまは、人の姿をとって地上に立った神さまなのでした。イエスさまは神さまなのですから、神聖です。存在に汚れはありません。まったく汚れのないイエスさまの血が十字架の上で流されたとき、全人類のあらゆる罪が購われたのです。そして今回は、代わりの動物ではなく、人そのものの血が、しかもまったく汚れのない神聖な血が使われたので、その効力は永遠に失われません。

人類救済の計画がイエスさまの十字架で成就されたことの証拠として、神さまは計画を実行に移したイエスさまを褒め称え、イエスさまを死者の中から復活させました。何百人という人が、復活したイエスさまに会ったと記録されています。神さまはその後イエスさまを天へ引き上げ、自分の右の座に着かせました。

第25節の「人はイエスさまが血を流して自分のいのちを犠牲にしたと信じるとき、神さまに対して正しくされます。」と言うのが「福音」の意味そのものです。人がもし、この話を信じると自分の口で表明するなら、神さまはその人が行った数々の罪悪をすべて忘れ、その人を正しいとみなすのです。

第25節の最後~第26節には、「このいけにえが示すのは神さまが公平だったと言うことです。神さまは行動を抑え、過去に罪を犯した人たちを罰しませんでした。それは神さまが先を見て、神さまがその人たちを今日行うことに含めていたからです。神さまがこれを行ったのは神さまの正しさを示すためです。神さまご自身は公平で正しく、罪人たちがイエスさまを信じるとき、神さまはその人たちを自分の目の中に正しくするのです。」とあります。

神さまは自分の存在を偶像と引き換えにした人間に激しく怒りを燃やしましたが、その怒りを地上に降り注ぐことをせず、行動を控えました。これはただただ神さまの恵みと忍耐によるものです。私たちはいつ滅ぼされてもおかしくない状態にあるのです。旧約聖書にはそのようにして滅ぼされた人たちの記録がたくさんあります。

神さまはイエスさまの十字架が起こる前の時代には、将来に計画されているイエスさまの十字架による人類救済を念頭に置き、地上へ大きな厄災を降らせることを控えました。これが神さまの正しさです。

第27節~第28節、「それでは私たちは神さまから受け入れてもらうために何かをしたと自慢できるでしょうか。いいえ、なぜなら私たちの無罪放免は律法に従うことには基づいていません。信仰に基づくのです。私たちは律法に従うことによってではなく、信仰によって神さまに対して正しくされるのです。」

人がイエスさまを信じると告白するとき、神さまはその人は自分の目の中に正しく映る、とします。これについて自分が神さまから受け入れてもらうために何かをしたと自慢できるか、とパウロは問います。パウロは「いいえ、なぜなら私たちの無罪放免は律法に従うことには基づいていません。信仰に基づくのです。」と言います。

この質問は引き続きユダヤ的な考え方から出ているのだと思います。旧約聖書の律法に基づくユダヤの文化では、あらゆることが律法を基準にして「守った」か「背いた」かの問題なのです。守れば称賛されて自慢の種となり、背けば非難されて迫害の種となります。

イエスさまの十字架に基づく人類救済は律法とは無縁です。自分が何かを守ったことで称賛を受けたり、褒められたり、自慢をしたりというものではありません。しかし新約聖書に福音として書かれていることをひととおり読み、私はイエスさまを受け入れますと、教えられたとおりに自分の口で言えばそれで救済完了と言うのでは、ユダヤの律法遵守と何も変わりません。

私たちを救うのは信仰です。第28節に「私たちは律法に従うことによってではなく、信仰によって神さまに対して正しくされるのです。」とあるように、私たちは私たちの心に生まれるイエスさまを信じる気持ち、イエスさまへの「信仰」によって神さまから正しいとされるのです。

第29節、「最終的に神さまはユダヤ人だけの神さまなのでしょうか。異邦人にとっても神さまではないのでしょうか。確かにそうです。」

この質問は、そもそも福音は旧約聖書を原点として構成されている以上、神さまはユダヤ人だけのもなのではないか、という質問です。これはユダヤ主義者とか割礼派と呼ばれる人たちが主張することです。神さまはユダヤ人だけのものなのだから、イエスさまを信仰するためには、異邦人は最初にユダヤ人になる必要があり、すなわち割礼を受けよ、とユダヤ主義者は主張します。

これに対してパウロは第30節で、「神さまはただひとつです。そして神さまはただ信仰だけによってご自身に対して人を正しくするのです。それがユダヤ人でも異邦人でもです。」と言います。イエスさまに対する信仰は、ユダヤ人であるか、異邦人であるかを問いません。

第31節、「それでは私たちが信仰を強調すると、それは私たちが律法を忘れることができるということでしょうか。もちろん違います。実際のところ、私たちが信仰を持つときにだけ、私たちは律法を守ることができるのです。」

これは福音による救済が到来したいま、もはや律法は意味を持たないのではないかという質問です。とても良い質問です。パウロはこれに「もちろん違います。実際のところ、私たちが信仰を持つときにだけ、私たちは律法を守ることができるのです。」と解答しています。

律法は福音とは無縁です。イエスさまを信仰するために律法を学ぶ必要はまったくありません。しかし律法はユダヤ人に罪とは何か、神さまが何を喜び何を憎むかを知らせるために書かれたとありました。と言うことは、私たちは律法を読むことで、神さまの意図を学ぶことができるのです。






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