新約聖書を読む

2016年01月28日

新約聖書を読む

--- 新約聖書を読む〕のカテゴリに含まれる記事 --------------
新約聖書を読むflower-mini
------------------------------------------------------------


このセクションでは聖書の理解を助ける基本情報の中で、特に新約聖書に関わる情報を集めて次の記事構成で掲載しています。




english1982 at 23:00|Permalink

主な登場人物

-- 新約聖書を読む〕のカテゴリに含まれる記事 --------------
主な登場人物flower-mini
------------------------------------------------------------


このページには新約聖書の主な登場人物を掲載しています。最初にこのページ全部を熱心に読まなくても、ざっと目を通してどの人の説明が載っているかだけ覚えておいて、混乱したときや思い出したいことがあったときに参照すると良いと思います。

このページには次の人たちの情報が掲載されています:

  • Jesus (イエス)
  • John the Baptist (洗礼者ヨハネ)
  • 四人のマリア
  • 十二使徒
  • Herode the Great (ヘロデ大王)
  • Pilate (ピラト)
  • Paul (パウロ)



Jesus (イエス)

イエスの名前

イエスは旧約聖書が到来を預言し、その預言を成就する形でいまから約2000年前に地上に現れた救世主です。「救世主」は英語では、「Savior」(セイヴィヤーと発音)、「Messiah(メシヤ)」(メサイアと発音)と言います。

「イエス・キリスト」と言うとき「イエス」は名前を指し、「キリスト」は英語では「Christ」(クライストと発音)で意味は「救世主」なので、イエスにつけられた称号です。つまり「イエス・キリスト」と「救世主イエス」は同じ意味です。

イエスは英語では「Jesus」(ジーザスと発音)です。この名前は特に珍しい名前ではなく当時のユダヤではポピュラーな名前でした。新約聖書にも何名かの他の「Jesus」が登場します。また「Jesus」はギリシア語ですが、ヘブライ語では「Joshua」(日本語でヨシュア、英語で「ジョシュア」と発音)にあたります。よく知られたヨシュアは旧約聖書の中でモーゼを引き継いだユダヤ民族のリーダーとして登場します。

余談ですが1549年に日本に来たことで知られる宣教師フランシスコ・ザビエルは「イエズス会」に所属していたと小学校や中学校の社会科で習いますが、この「イエズス」も「Jesus」を読んだものです。


イエスは誰か

聖書によればイエスはナザレの町に住んでいた一人の女性マリアが処女の状態で妊娠する形(「処女懐胎」と言います)で地上に現れました(旧約聖書の預言のとおりです)。生まれたのは紀元前5年頃とされます。

30歳になった頃、洗礼者ヨハネの洗礼を受けたことを皮切りに「神の国」についての伝道活動を開始します。約3年に及ぶ伝道活動の後、エルサレムの郊外で逮捕され、裁判にかかり、十字架刑に処せられて殺されます(旧約聖書の預言のとおりです) 。

十字架死の三日後、かねてから弟子たちに伝えていたとおり、死からよみがえります(旧約聖書の預言のとおりです)。そして地上に約40日とどまる間に弟子たちの前に何度か現れました。その後弟子たちの見守る中、天へ引き上げられて雲の中へ消え、天へ戻りました。

「果たしてイエスは神か」が聖書を巡る最大の論点です。たとえば聖書研究の教義「三位一体(Trinity)」とは、「父なる神(God the Father)」「子なるイエス(Jesus the Son)」「聖霊(Holy Spirit)」の三つが一つの神であるという考えです。「三つ」と「一つ」の関係が一体どうなっているのかについてはいろいろなたとえ話が存在するようですが、あくまでも神さまの領域のことなので神秘に包まれたままです。が、どちらにしてもこの説は「子なるイエス」を神として含めています。つまりイエスは人間の姿をとって地上に降り立った神であるという考えです。神さまがわざわざ地上へ降りた目的は人間救済の計画を成就するためです。神さまを裏切り神さまの元を追われた人間を救済して、神さまと人間の調和を取り戻すのは、人間自身の力では不可能です。聖書は神さまがイエスを通じて人間との不和を解消し、救済する計画の最初から最後までを記録した本です。

一方イエスが神であることを否定する人たちは、イエスはひとりの人間だった、何かしらの悟りを開いた宗教家だった、聖書や哲学の先生だった、預言者のひとりだったなどと主張します。



John the Baptist (洗礼者ヨハネ)

聖書の中には同じ名前の人がたくさん登場します。ヨハネもそのひとりです。

よく知られたヨハネは二人います。ひとりは「John the Baptist (洗礼者ヨハネ)」、もうひとりは「ヨハネの福音書」を記述したとされるヨハネでこちらはイエスさまの弟子で、十二使徒のひとりです。最初に聖書を読むと、ほとんどの人がこの二人が別人だということがわからずに混乱します。


預言者エリヤの再来

「John the Baptist (洗礼者ヨハネ)」はイエスが救世主として現れる少し前に、その先駆けとして現れた人です。この先駆けが預言者エリヤとして世に現れることは旧約聖書の中であらかじめ預言されていました。「Malachi(マラキ書)」は旧約聖書最後の本で、この本が書かれた後、約400年にわたって預言者は現れず、つまり神さまは地上に対して沈黙したことになります。旧約聖書の最後、つまり「Malachi(マラキ書)」の最後は次の句で結ばれています。Malachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節)、英文は[NLT]、日本語は[新改訳]です。

5 “Look, I am sending you the prophet Elijah before the great and dreadful day of the Lord arrives.

5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

6 His preaching will turn the hearts of fathers to their children, and the hearts of children to their fathers. Otherwise I will come and strike the land with a curse.”

6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

預言者エリヤは紀元前850年頃の人で、英語では「Elijah」で「イライジャ」と発音されます。最初のうちは耳だけで日本語表記と結びつけるのが難しい登場人物のひとりです。ちなみにエリヤにはエリシャという弟子がいて、こちらの英語表記は「Elisha」、「エリシャ」と発音されますが、逆に発音が「エリヤ」と似ていることから二人を混同してしまうことがあります。

紀元前850年頃と言うことはつまりイエスの時代を850年さかのぼる過去のことで、預言者エリヤはこの時代に数々の奇跡を行ったことが旧約聖書に記録されています。ラクダの毛だらけのマントに革のベルトという出で立ちで北朝イスラエルが政治的にも経済的にも富んでいた時代に現れ、神さまの意志に反して邪悪を行う王に対して厳しく警告を行いました。たとえば邪悪で知られるイスラエル王アハブに対しては自分が呪いを解く言葉を発するまでイスラエルには一切雨が降らなくなると預言し、その後干ばつは三年に及びました。エリヤが干ばつを破る雨を呼ぶ場面のエピソードは大変有名でドラマチックです(1 Kings 17~19/列第1王記第17章~第19章)。

洗礼者ヨハネはその偉大な預言者エリヤの再来の形を取り、救世主の先駆けとして世に現れたのです。


ヨハネの伝道活動

ルカの福音書によるとヨハネの母親のエリザベト(Elizabeth)とイエスの母親のマリアは血縁関係にある親戚でしたので、イエスとヨハネは親戚だったということになります。

ヨハネは伝道の活動に入るまで荒野(あれの)に住み、西暦28~29年頃イエスが伝道の活動を開始する少し前に自身の伝道活動を開始しました。ヨハネは「罪を悔い改めよ」「神に向き直れ」と強烈で荒々しいメッセージを説きましたが、それにも関わらずたくさんの人々がヨハネの話を聞くために荒野に集まって来ました。それはヨハネのメッセージが聖書の教えに裏付けられた宗教観、倫理観、道徳観、救世主への待望観に力強く訴えたからです。

ヨハネが行った洗礼は「水を使って洗い清めること」で、そうすることで自身が道徳的に生まれ変わることを象徴しました。ヨハネはひとりの人について一度だけ洗礼を授けました。当時のユダヤ社会では自分たちが父祖アブラハムの子孫であるので、それはつまり神さまから選ばれたユダヤ民族の一員であるから、ただそれだけの理由で自分たちは神さまと良好な関係を持てるとの信仰が支配的でした。これらの考えを持つ保守的なユダヤ人にとっては、ヨハネの洗礼はもともと清いものをわざわざ洗い清めるように映るので理解できませんでした。

伝道活動を始める前のイエスはある日、ヨハネの前に現れて洗礼を授かろうとします。ヨハネはイエスが誰かを知っていて、立場が逆であると最初は拒みますが、イエスの言葉を受けて洗礼を施しました。するとそのときに天が開き聖霊が鳩のような形をしてイエスの上に下りました。同時に天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と神さまの声が聞こえました(Luke 3:21~22/ルカの福音書第3章第21節~第22節・Matthew 3:13~17/マタイの福音書第3章第13節~第17節)。

人々はヨハネこそが旧約聖書が予告した救世主なのではないかと考えますが、ヨハネはイエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言い、イエスこそが救世主であると告げます(John 1:29~34/ヨハネの福音書第1章第29節~第34節)。


ヨハネの処刑

ヨハネはヘロデ王が自分の兄の妻を自分の妻としたことは旧約聖書の律法に反すると批判し、このことでヘロデに捕らえられます。王はヨハネを牢に捕らえながらもヨハネの話を聞くことを好み処刑できずにいたのですが、妻の策略にはまるかたちでヨハネの首をはねます。



四人のマリア

聖書の中には同じ名前の人がたくさん登場します。マリアもそうです。ここでは新約聖書に登場する次の四人のマリアについて説明します。

  • Mary :マリア(イエスの母)
  • Mary of Bethany :マリア(ベタニアに住んでいたマリア)
  • Mary :マリア(十二使徒ヤコブとヨセフの母)
  • Mary Magdalene :マグダラのマリア

マリアは英語では「Mary」、発音は「メアリ」です。

ところで四人のマリアを初めとして新約聖書にはたくさんの女性が登場します。新約聖書は今から約2000年も前の出来事を記録しています。女性が社会的な地位、たとえば男性と対等の権利や立場を確立できたのはいつだと思いますか。まだ確立できていない、と言う人もいるでしょう。たとえば女性の参政権が各国で認められるようになったのは19世紀の末頃からです。新約聖書の時代のユダヤ社会では女性の地位はいまとは比べものにならないくらい低かったのです。にもかかわらず新約聖書にたくさんの女性が登場し、ときにイエスから優しい言葉をかけられ、ときに重要な役割を果たしていく。これは当時ではありえない革命的なことだったのです。


Maryマリア(イエスの母)

イエスを処女で受胎して生んだイエスの母親です。

マリアがどんな女性であったのか詳しくはわかりません。聖書に書かれているのはナザレの町に住み農業を営んでいたこと、おそらくユダ族でダビデ王の末裔であったこと、洗礼者ヨハネを生んだエリザベトがマリアの従姉妹であったこと程度です。

マリアが大工のヨセフと結婚の約束を交わしていたところへ天使ガブリエルが現れて「Greetings, favored woman! The Lord is with you!(おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます。)」と告げました([NLT]/[新改訳])。それからマリアを通じて救世主イエスが世に生まれることを告げられます。

ローマ帝国から住民登録の命令が出て(おそらく徴税のため)、夫婦は急遽ヨセフの出身地へ戻らなければならなくなりました。マリアは身重のまま100kmほどの旅をします。イエスをユダヤ地方のベツレヘムで出産するとマリアは細長い布でイエスを包み、飼い葉桶に寝かせました。

イエスの誕生を祝福するために羊飼いが訪れ、その後に三人の賢者が贈り物に訪れたとき、マリアはその場に居合わせて、それらのことを自分の胸におさめました。誕生から八日めにユダヤのしきたり通りにイエスを連れてエルサレムの寺院へ参ったとき、シメオンという信仰深い男から「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と将来イエスのことで深い悲しみに会うことを告げられます。マリアとヨセフは救世主を抹殺しようとしたヘロデ大王の難を逃れるために一度エジプトに移り、その後ナザレに戻ります。

マリアが再び記述されるのはイエスが12才のとき、過ぎ越しの祭りの場面です。それからマリアはイエスの最初の奇跡、水をぶどう酒に変える場面に居合わせました。

聖書を読むとマリアとヨセフの夫婦はイエスの後で四人の男子と複数の女子を持ったことがわかります。四人の男子の名は、ヤコブ(James)、ヨセフ(Joses)、ユダ(Judas)、シモン(Simon)でいずれもポピュラーな名前です(複数の女子の名前は書かれていません)。イエスが伝道の活動を始めた後マリアはこれらのイエスの兄弟を連れて会いに来ますが、イエスは家族の絆より弟子たちとの絆を優先します。マリアはこの後イエスの十字架の場面まで姿を現しません。イエスは十字架の上から、使徒のヨハネにマリアのその後の世話を頼みます。

マリアの生んだイエスの兄弟たちはイエスの弟子の中には登場しませんが、兄弟のうちヤコブとユダが後にイエスを信じたことは新約聖書に「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」の記述者として登場することからわかります。ヤコブはエルサレムの教会の牧師となりリーダーシップを発揮しました。

マリアが最後に描かれるのはActs 1:14(使徒言行録第1章第14節)で、他の弟子たちと共に聖霊の訪れを待つ場面です。


Mary of Bethanyマリア(ベタニアに住んでいたマリア)

このマリアはエルサレムの東方約3キロほどにあるベタニア(Bethany)の町に住み、マルタ(Martha)とラザロ(Lazarus)の姉(妹)です。おそらくマルタの方が姉です。

イエスが三人の家を訪れたときマリアはイエスの足元でイエスの話を聞きました。姉のマルタは客をもてなす家事に追われ「自分ばかりが働いている」と不満を言いますが、イエスはマリアの姿勢が正しいとマルタを諭します。

ラザロが病気で死んだときマリアの悲しみは大変深いものでした。最初はイエスが訪れても家の中にいましたが、マルタに呼ばれて出てくるとイエスの足元にひれ伏して泣き、もっと早く来てくれたらラザロは死ななくて済んだのにと嘆きます。

イエスによりラザロが生き返るとマリアは感謝の意をイエスの足に高価な香油を塗ることで表現し、これを自分の髪で拭うことで示します。後にイエスを裏切るユダはこのとき高価な香油が惜しいとマリアを責めますが、イエスはこれは自分の弔いのための香油であると諭し、このことにによってマリアは皆に記憶されると言います。


Maryマリア(十二使徒ヤコブとヨセフの母)

このマリアは十二使徒のヤコブ(James)とヨセフ(Joses)の母親です。

このマリアはイエスの十字架死の場に居合わし、イエスが葬られるときにも居てイエス復活後に空になった墓を見ました。

ちなみにイエスの母親のマリアがイエスを世に生み出した後に夫ヨゼフとの間にもうけた四人の男子には、やはりヤコブ(James)とヨセフ(Joses)が含まれます。このため「ヤコブとヨセフの母マリア」とされたとき、どちらのマリアなのか混乱しやすいのです。


Mary Magdaleneマグダラのマリア

イエスはこのマリアから七つの悪霊を追い出したと聖書に記録されています。

Magdalene(マグダラ)はガリラヤ湖の南西の岸の町の名前ですので、この町の出身と思われます。

このマリアはイエスの足を洗った女性(Luke 7:37/ルカの福音書第7章第37節)や、姦淫の罪で石で打たれようとしていた女性(John 8:1-11/ヨハネの福音書第8章第1節~第11節)と同一視されることが多いですが、聖書の中に特に結びつける根拠があるわけではありません。

マグダラのマリアはイエスの十字架の前後のほとんどの出来事を目撃しました。イエスの裁判や、ピラトの死刑宣告や、イエスがむち打たれて群衆に蔑まれる様を目撃しました。また十字架の上のイエスを慰めようとした女性のうちのひとりでもあります。

マグダラのマリアは復活したイエスに最初に会った人で、他の人に復活について伝えるようにとイエスに言われます。




十二使徒

「使徒」は英語で「Apostle」(「アパスル」と発音される)で、イエスに従うたくさんの弟子たち(こちらは英語で「disciple」、「ディサイプル」と発音)の中から、イエス本人によって特別に選ばれた十二人を指します。以下がその十二人です。

  • Simon Peter (「サイモン・ピーター」と発音) :シモン・ペテロ
  • Andrew (同「ェアンドリュー」) :アンデレ
  • John (同「ジョン」) :ヨハネ
  • James (同「ジェイムズ」) :ヤコブ
  • Philip (同「フィリップ」) :ピリポ
  • Nathanael Bartholomew (同「ナサニアル・バーサラミュー」) :ナタナエル・バルトロマイ
  • Matthew Levi (同「マシュー・リーヴァイ」) :マタイ・レビ
  • Thomas (同「タマス」) :トマス
  • Judas (同「ジューダス」) :ユダ /Jude(同「ジュード」) :ユダ /Thaddaeus (同「サディーアス」) :タダイ
  • James the Less (同「ジェイムズ」) :小さいヤコブ
  • Simon the Zealot (同「サイモン」) :熱心党のシモン
  • Judas Iscariot (同「ジューダス・イスカリアト」) :イスカリオテのユダ


Simon Peter (「サイモン・ピーター」)シモン・ペテロ

文句なく一番有名な使徒でしょう。十二人の中ではリーダー的な存在です。新約聖書での登場回数も一番多いです。

聖書を読むとペテロはいろいろなことを臆面もなくずけずけと言い、乱暴な性格がうかがえます。無遠慮にイエスに意見をする場面もあります。またペテロのことを他者が書く場面も多いです。

ペテロは常にイエスに付き従い、イエスに質問し、ときには師のイエスにアドバイスを与えたり意見までしようとします。イエスは使徒のうち、ペテロと一番長くの時間を過ごしたと思われます。

ペテロほどイエスへの信仰を口にする弟子はいませんし、逆にペテロほどはっきりとイエスを否定した弟子もいません。ペテロほどイエスから褒められ祝福を受けた弟子もいないし、その一方でペテロはイエスから「サタン」とも呼ばれました(イエスはペテロを使って自分を誘惑するサタンに言ったのです)。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :父の名前はヨナ(Jonah/ Simon Bar-Jona)。十二使徒のアンデレはペテロの弟で、アンデレがペテロをイエスに引き合わせました。聖書を読むとペテロが既婚者であることがわかります。

職業 :漁師。仕事仲間は弟のアンデレとやはり十二使徒のヤコブとヨハネのゼベダイ兄弟です。

聖書 :「1 Peter/ペテロの手紙一」「2 Peter/ペテロの手紙二」を記述しました。また「Mark/マルコの福音書」は記述者のマルコがペテロの伝えていた話をまとめて記述したとされます(つまり「マルコの福音書」は「ペテロの福音書」のようなものということです)。

名前 :元々の名前はシモン(意味は「聞く」)でしたが、後にイエスからペテロ(アラム語では「Cephas」。意味は「石」「岩」)と呼ばれました。

伝説 :言い伝えによると最後は上下逆さまに十字架にはりつけられたとされます。四世紀の歴史家エウセビウス(Eusebius)によるとペテロは最初に妻が十字架死に処せられるのを見せられ、その後自分が十字架にかけられるときに自分はイエスと同じように十字架にかかる価値はないと言って上下逆さにはりつけにされたと書かれているそうです。



Andrew (「ェアンドリュー」)アンデレ

ペテロの弟です。

十二使徒のヨハネとはもともと仕事仲間で最初は二人とも洗礼者ヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネが救世主としてイエスを指し示すとイエスについて行き、兄のペテロをイエスに引き合わせます。

聖書を読むと表舞台には顔は出さないがいつも知人をイエスに引き合わせよううとする姿勢がうかがえます。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :父の名前はヨナ(Jonah/ Simon Bar-Jona)。十二使徒ペテロの弟。

職業 :漁師。仕事仲間は兄のペテロと、やはり使徒のヤコブとヨハネのゼベダイ兄弟。

伝説 :後にロシア、小アジア(現在のトルコ共和国内で黒海と地中海に挟まれた古くからアナトリアと呼ばれる地域)、トルコへ福音を伝えました。言い伝えによると西暦69年にむち打ちの刑に処されギリシアでX字型の十字架にはりつけられました。福音を伝え続けるなら十字架刑に処すと脅されたとき「自分が十字架を恐れるのなら最初から十字架による栄光について伝えるようなことはしない」と答えたそうです。さらに十字架の上で二日間苦しみ続け、その間も近くを通る人たちに福音を伝え続けたとされます。



John (「ジョン」)ヨハネ

ペテロに次いで二番目に有名な使徒と言えるでしょう。最初はアンデレ(十二使徒のひとりでペテロの弟)と共に洗礼者ヨハネの弟子でした。ヨハネはイエスとは特別に親密な関係にあり、最後の晩餐でイエスの胸にもたれかかって描かれているのはヨハネです。自分の記述した「ヨハネの福音書」では、自分のことを名前で言及せず、「イエスが愛した弟子」のように書き記します。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は「The inner circle」(側近者たち)と呼ばれ、いつもイエスと行動を共にしました。

「ヨハネの福音書」はクリスチャンに最も愛されてきた本で、この内容からヨハネは「愛の使徒」として知られるようになりました。しかしイエスの弟子になった最初の頃のヨハネの性格には、怒り、偏見、差別、自己中心的な行動が顕著に見られます。逆に言えばイエスを通じてどれほど人間が変わるかを示した使徒ということです。

ヨハネはイエスの十字架刑に居合わせた唯一の使徒でイエスは十字架の上から母マリアの面倒をヨハネに託します。またヨハネは復活後のイエスに最初に会った使徒でもあります。さらに言い伝えによれば十二使徒の中で処刑されずに自然死を遂げた唯一の使徒です。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :十二使徒ヤコブの弟。父のゼベダイは船や使用人を持っていたことから裕福な家だったと思われます。ヤコブと共にゼベダイの兄弟はイエスから「雷の息子たち」と呼ばれました(激しく怒るので)。母のサロメはイエスを処女懐胎したマリアの姉妹、つまりヤコブとヨハネはイエスの従兄弟と考えられています(これは聖書の記述にはありません)。

職業 :漁師。仕事仲間は兄のヤコブと、やはり十二使徒のペテロとアンデレの兄弟。

聖書 :「Gospel of John(ヨハネの福音書)」「1 John(ヨハネの手紙1)」「2 John(ヨハネの手紙2)」「3 John(ヨハネの手紙3)」「Revelation(ヨハネの黙示録)」の5冊を記述したとされます。

名前 :ヨハネの名前の意味は「神の恵み」です。

伝説 :後に小アジア(現在のトルコ共和国内で黒海と地中海に挟まれた古くからアナトリアと呼ばれる地域)で牧師をつとめました。言い伝えによると煮えた油の中に入れられるという迫害の刑を受けましたがこれを生き延び、その後恐らくロシアの皇帝によりパトモス島に追放され、その後に解放されました。十二使徒の中では最も長く生きた使徒で自然死を遂げた唯一の使徒でもあります。最後にはエペソの土地で死んだとされます。



James (「ジェイムズ」)ヤコブ

十二使徒ヨハネの兄です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は「The inner circle」(側近者たち)と呼ばれ、いつもイエスと行動を共にしていました。またヤコブはヨハネ、アンデレと共に最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。

ヤコブは大胆で活動的で生まれついてのリーダー格だったようです。イエスの弟子となった当初は感情を爆発させ、偏見を持ち、自分のプライドを追求する面がありました。

ヤコブは最初に殉教した使徒です。最初の殉教者として目を付けられたのは、ヤコブの説教が効果的でエネルギーに満ち人々の注目を集めやすかったからではないでしょうか。民衆に与える影響力の大きさが警戒され、最も危険な存在として認知されたからではないかと思われます。

なお十二使徒のヤコブは新約聖書の「ヤコブの手紙(James)」を書いたヤコブではありません。「ヤコブの手紙(James)」を書いたのはイエスの弟で、エルサレムの教会の牧師を務めたヤコブです。ヤコブは多数登場するので混乱します。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :十二使徒ヨハネの兄。父はゼベダイ。

職業 :漁師。仕事仲間は弟のヨハネと、やはり使徒のペテロとアンデレの兄弟。

名前 :ヤコブの英語「James」は旧約聖書の「Jacob」(「ジェイコブ」と発音され日本語表記はやはり「ヤコブ」)と同じ名前です。意味は「かかとをつかむ者」「強引に取って代わる者」です。

伝説 :最初に殉教した使徒でヘロデ王により剣で首をはねられました。使徒の中で聖書に死が記述されているのはヤコブだけです(Acts 12:1-2/使徒言行録第12章第1節~第2節)。つまりヤコブの死だけは伝説ではありません。



Philip (「フィリップ」)ピリポ

使徒ヨハネと親しく、最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。イエスが一番最初に「ついてきなさい」と声をかけた使徒で、イエスを知ると即座にもうひとりの使徒ナタナエルに伝えました。

聖書に記述されたピリポの受け答えの様子を読むと、ピリポが信心深いユダヤ人で旧約聖書をよく研究し、救世主を心から待ち望んでいたことがうかがえます。

ピリポはまた現実的な使徒だったとも言えます。たとえばイエスがどうやってたくさんの群衆に食べるものを与えようかと問うたとき、ピリポはどれくらいの食料がいるか、どれくらいのお金が掛かるかを冷静に計算して解答しました。ピリポはイエスの行う奇跡を目にしても常識にこだわる傾向から抜け出せなかったようで、イエスの伝道が終わる頃にもイエスに「お父さんの姿を見せてください」と頼み、イエスはこれに「これだけ長い間あなたと共にいたのにまだ私のことがわからなかったのですか。私を見た者は父をも見たのです」と答えました。

一方でピリポは人から声をかけられやすい使徒だったのかも知れません。たとえばギリシア人から「イエスに会いたい」と声をかけられますが、一人でイエスのところへ行くのが決まりが悪かったのか、まずその人たちをアンデレのもとへ連れて行き、それからそろってイエスのところへ行きました。

なおこのピリポは「Acts(使徒言行録)」で七人の教会の助手に選ばれ、精力的に伝道活動を行ったピリポとは別人です。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

職業 :恐らく漁師ですが定かではありません。

名前 :ピリポの名前の意味は「馬を愛する者」です。

伝説 :後にフリジアと小アジア(現在のトルコ共和国内で黒海と地中海に挟まれた古くからアナトリアと呼ばれる地域)に福音を伝えました。言い伝えによるとフリジアの町で石打ちの刑に処された後、十字架に逆さにはりつけられました。裸にされた上で足から吊され、できるだけ苦しませるようにとくるぶしと太ももを先の尖った棒で貫かれ、出血がゆっくりとした死をもたらすようにされたそうです。自分には救い主イエスと同じ方法で葬られる価値はないから死体を包む白い布で自分が包まれることを拒絶したとされます。



Nathanael Bartholomew (「ナサニアル・バーサラミュー」)ナタナエル・バルトロマイ

ナタナエルはイチジクの木の下で、使徒で親しい友人のピリポからイエスのことを聞かされますが、最初は「果たしてナザレから救世主が来るだろうか」と疑いました。しかしイエスはナタナエルを「偽りのない、本当のイスラエル人」と称しました。つまりナタナエルは率直で正直、裏表なく偽善的な面もないまっすぐな人のようです。するとナタナエルは最初にイエスを神さまの息子、イスラエルの王と呼びました。

生まれ :ガリラヤ地方の町カナ(Cana)の出身。ナザレの北方6kmほどにある町。

名前 :ナタナエルの意味は「神さまの贈り物」。バルトロマイの意味は「トロマイ(Tholomai)」の息子。

伝説 :言い伝えによると後にピリポと共にフリジアに福音を伝えました。ピリポの横で十字架に打ち付けられましたが死を前にして十字架から降ろされました。それからインド、アルメニアへ伝道しましたがそこで生きたまま煮えた油の中へ入れられて死んだとされます。



Matthew Levi (「マシュー・リーヴァイ」)マタイ・レビ

イエスに従う前のマタイは収税吏として支配国であるローマ帝国のためにユダヤ人から税金を集める徴税人の仕事をしていました。徴税人は支配国の手先として働き、不当に高い手数料を集めて裕福に暮らし、いつも権力を振りかざしていたので仲間のユダヤ人たちからは大変嫌われていました。

イエスを信じて30年が経ってもマタイは相変わらず自身を徴税人と呼びます。これは自分が罪深くまったく価値のない存在であったものを、イエスの慈悲により救われたことを忘れないためだと思われます。

マタイは私心なく自分の富を後にしてイエスと共に貧困の人生を歩むことを決心しました。謙虚で自分を徴税人と呼び続けただけでなく、自分の記述した福音書の中でも自分のことを書こうとはしません。自分については十二人の使徒の名前を列挙する部分を除いては、自分がどのようにイエスについて行ったか、その部分だけを書きました。

マタイは自分がイエスと出会う前に関わっていた仲間の徴税人たちにイエスに関する福音を伝えようとしています。ユダヤ人に嫌われる仲間たちと相変わらず交わることを恥じず、自分の伝えられる人たちに福音を伝えることを大切に思いました。

またマタイは自身のユダヤ人としての血筋を大事にし、旧約聖書をよく勉強し、他の福音書よりも多くの引用を行っています。祖国のユダヤ民族に呼びかけるための福音書を書きました。

生まれ :ガリラヤ地方、ガリラヤ湖の北岸にある町カペルナウム(Capernaum)。

家族 :アルパヨ(Alphaeus)の息子。十二使徒の小さいヤコブ(James the Less)は兄弟かも知れないそうです。

職業 :収税吏(ローマ帝国のために税金を集める徴税人の仕事)。

聖書 :「Gospel of Matthew」(マタイの福音書)。

名前 :マタイの意味は「神さまの贈り物」。レビの意味は「加わる者、あるいは指物師、建具屋」

伝説 :言い伝えによると15年間ユダヤ人に対して福音を伝えた後に、エジプト、エチオピア、ペルシャ、アラビア、マケドニア、シリアに福音を伝えました。マケドニアで火あぶりまたは首をはねられて殺されたそうです。



Thomas (「タマス」)トマス

イエスの復活を知らされたときに信じなかったこと、イエスに復活の証拠を求めたことから「Doubting Thomas(疑り深いトマス)」として知られます。が、後にイエスの神性を語り、強い信念を貫きました。信じずに疑ったエピソードが必要以上に悪意をもって語られている使徒です。

トマスは自分が信仰のためなら死を恐れないことを公言しています。イエスが自分は地上を去るが、使徒たちはどうすればイエスのもとへ来られるかを知っていると告げたときには、「意味が理解できない」と訴えました。これも悪意をもって語られますが、逆に言えばトマスは誰よりもイエスのもとへ行きたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。

復活したイエスが最初に信徒たちの前に現れたときトマスだけがその場に居合わせず、そのこともまた悪く言われますが、イエスの死の落胆があまりにも大きくて、事態が好転しても素直に受け入れられない、そういうことだったのかも知れません。イエスはトマスに、イエスを見ることなしに信じられたならずっと良かったですね、と言いました。

生まれ :ガリラヤ地方。

名前 :トマスは「デドモ」(Didymus)とも呼ばれます。どちらも「双子」の意味です。

伝説 :言い伝えによるとパルティアで福音を伝え、インドに教会を建て、東洋の宗教を信じていた人たちを多数イエスへと導きましたが、インドで祈りを捧げている間に槍で殺されたそうです。



Judas (「ジューダス」)ユダ /Jude(「ジュード」)ユダ /Thaddaeus (「サディーアス」)タダイ

裏切り者のユダとは別のもうひとりのユダです。タダイの名前でも登場します。

聖書の中では一度だけ発言しただけで他のことはほとんどわかりません。最後の晩餐の席でイエスが自分は自分を愛し自分に従う者だけに自分を明かすと言うと、タダイは「どうして私たちにだけ明かして世の中には明かされないのですか?」とたずねます。タダイは多くのユダヤ人と同様に救世主が地上の王国で、地上の王として君臨することを考えていたのです。これに対するイエスの答えは「私を愛する人は私の言葉を守ります。そして私の父もその人を愛し、私たちはその人のところへ来てその人と一緒に住みます」です。

生まれ :ガリラヤ地方。

家族 :Luke 6:16(ルカの福音書第6章第16節)にはタダイがヤコブと共に住んでいると書かれています。イエスの兄弟にもユダとヤコブがいたことから混同されますが、この二組は別人です。またタダイが一緒に住んでいたヤコブは、もうひとりの使徒のヤコブとも別人とされます。

名前 :タダイは「勇気がある」「胸の子供」(たぶん末っ子のこと)の意味です。ユダは「賞賛」「主に従う者」の意味です。

伝説 :言い伝えによるとシリア、アッシリア、アルメニア、ペルシアで福音を伝え、癒しの力を授かっていたとされます。シリアの王を癒しイエスへと導いたとされています。シリアの王の従弟により矢で殺されたか、あるいは棍棒で殴り殺されて殉教したとのことです。



James the Less (「ジェイムズ」)小さいヤコブ

詳しいことの知られていない使徒のひとりです。「小さいヤコブ」(James the Less)の呼び名も、身長のことなのか年齢のことなのか定かではありません。

生まれ :ガリラヤ地方。

家族 :もうひとりの使徒マタイと同じアルパヨ(Alphaeus)の息子と呼ばれることから二人は兄弟だという人もいますが、明確に聖書にそのように書かれているわけではありません。

名前 :「James(「ジェイムズ」と発音)」(ヤコブ)は、旧約聖書の「Jacob(「ジェイコブ」)」(ヤコブ)が新約聖書で変化した形。意味は「かかとをつかむ者」「強引に取って代わる者」です。

伝説 :言い伝えによるとパレスチナ、スペイン、イギリス、アイルランド、エジプトで福音を伝えエジプトで十字架刑に処されたそうです。



Simon the Zealot (「サイモン」)熱心党のシモン

詳しいことの知られていない使徒のひとりです。当時ローマ帝国の軍国主義に反対する狂信的な政治結社として知られる「熱心党」の党員でした。

反ローマの熱心党員であったということは強く急進的な情熱の持ち主で、信念と行動力のある人物と想像できます。自分の政治活動を捨ててイエスに従ったか、あるいはイエスこそが反ローマ帝国を実現するリーダーだと信じたか、と言うことです。

生まれ :ガリラヤ地方。

名前 :シモンは「聞くこと」を意味します。

伝説 :言い伝えによると、パルティア、ペルシア、バビロン、エジプト、アフリカ、イギリスで福音を伝えました。十字架刑による死とノコギリで二つに裂かれて殺されたとの二つの言い伝えがあるそうです。



Judas Iscariot (ジューダス・イスカリアト」)イスカリオテのユダ

イエスを裏切ったことから人間の中で最も邪悪で恥ずべき人と考えられています。使徒の中で会計係をしていましたが、そうしながらお金を盗んでいました。金銭を惜しむ発言があります。周囲の弟子たちに彼を疑う者はいませんでしたから表面的には善人を装っていたようです。

イエスはイスカリオテのユダを最初の頃から悪魔と呼び、ユダは三十枚の銀でイエスを売り、口づけの合図でイエスを裏切りました。

生まれ :「イスカリオテのユダ 」をエルサレムの南40kmほどにあったとされるカリオテ(Kerioth)の出身のユダと解釈すれば、十二使徒の中でただひとりユダヤ地方の出身者となります。

名前 :ユダは「賞賛」「主に従う者」の意味です。イスカリオテは「カリオテの人」と解釈することができます。

伝説 :ユダはイエスが死刑に処されることを知ると自分のしたことを悔いましたが、神さまに向き直ることをせずに自殺しました。






Herode the Great (ヘロデ大王)

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ローマ帝国は紀元前63年に将軍ポンペイ(Pompey)がパレスチナ地域の侵略に成功し、パレスチナは属領シリアの一部としてローマ帝国の支配下に入りました。ポンペイはその後ユリウス・カエサルとの権力争いに敗れて殺害されます(紀元前47年)。

ローマ帝国は属領の支配を総督(Governor)に委ねる直轄領とするケースと、支配地に王を置いて王にローマへの忠誠を誓わせるケースに分けて管理していたようで、ヘロデ(Herod the Great)はローマ帝国に制圧されたパレスチナの王です。在位は紀元前37~西暦4年。息子たちと区別して「ヘロデ大王」、あるいは「大ヘロデ」と呼ばれます。

紀元前47年にヘロデは最初にパレスチナ北部のガリラヤ地方の総督に任命されましたが(つまり「直轄領」タイプ)、その後政治情勢をうまく読みながら紀元前37年には南部のエルサレムにまで勢力範囲を拡大して自ら「ユダヤ王」を名乗りました(この時点でパレスチナは直轄領ではなくなり「王支配」タイプへ移ったということです)。ローマ帝国の権威を背景に自ら名乗った王ですので旧約聖書の時代の王とは異なります。

建築マニアとして知られ、エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残しました。猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したことでも有名です。この中には自分に対して敵対的であったユダヤの最高議会(サンヘドリン)の指導的なメンバーたちも含まれます。このためヘロデとサンヘドリンは対立関係にありました。

ヘロデが西暦4年に没すると遺言に従って息子のアルケラオ、ヘロデ・アンティパス、フィリポスの三人の兄弟が後を継ぎました。このときユダヤ人はローマ帝国に使者を派遣してヘロデ王家の支配を廃してくれるよう要請しましたが聞き入れられませんでした。しかし一方でアルケラオが引き続き王を名乗ることもローマ帝国は許さず、後にアルケラオが失政を重ねたため住民によってローマ帝国へ訴えられ、アルケラオは解任されてガリアへ追放されました。その後でユダヤは再びローマ帝国の直轄領となります。

他の兄弟たちも王を名乗ることは許されなかったものの分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認めらましれた。西暦41~43年の間だけヘロデ大王の孫のアグリッパ1世がユダヤ王の称号を得ています。





Pilate (ピラト)

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポンテオ・ピラト(Pontius Pilate)はローマ帝国の第五代ユダヤ総督です。在位は西暦26年~36年。生没年や出身地などは不詳。ヘロデ大王の没後ユダヤはやがてローマ帝国の直轄領に戻りましたが、ピラトはローマ帝国から派遣された総督の五代目です。

ピラトはユダヤ人に対して常に強圧的・挑戦的な態度で臨み、エルサレム神殿での伝統的なユダヤ教の祭祀を挑発することもしばしばで、ユダヤの反ローマ感情を悪化させました。最後には住民の直訴によって罷免されています(ローマ帝国では非支配住民にも総督のリコール権があったことによります)。

ローマ帝国での総督の主要な役目は財務です。つまり土地や建物の管理、徴税、ローマ兵への俸給の支払いです。ピラトの時代には総督は公的には「長官(Prefect)」と呼ばれていて、西暦53年以降は「Procurator」と呼ばれました。新約聖書にはこれらのタイトルで、ペリクス(Felix)やフェスト(Festus)が登場します。この頃には総督は財務を行うばかりでなく予備軍の部隊も保持していました。

ちなみにピラトの時代にはヘロデ大王は没していますからピラトと共に登場するヘロデ王は息子の代です。





Paul (パウロ)

パウロは使徒ですが上に説明した十二使徒とは使徒となった経緯が異なります。

パウロは西暦10年頃にキリキア州タルソで生まれました。タルソは小アジアと呼ばれる地域、現在のトルコ共和国南部の地中海沿岸の町で、つまりイスラエル国外にいたユダヤ人と言うことです(当時はイスラエル国外に住むユダヤ人の方が圧倒的に多かったのです)。当時のタルソは商業と学問の中心地として栄え、ギリシア文化とローマ帝国支配の影響を強く受けていました。パウロの家は敬虔にユダヤ律法を守るファリサイ派に属します。パウロは最初はサウロ(Saul)と呼ばれていました。サウロはユダヤ名(同じベニヤミン族出身の初代イスラエル王のサウルから)、パウロはローマ名と思われます。パウロの職業はテント職人でした。タルソは羊毛を使ったテント、船の帆、天幕、外套などの名産地として知られていました。

パウロはタルソ出身ですが育ったのはエルサレムで、ここで著名なファリサイ派の宗教学者ガマリエルから厳格な教育を受けています。当時の宗教学者の教育は教師と生徒のマンツーマンで14歳頃から40歳頃まで密室で行われていました。パウロが使徒となったのはこの教育プログラムの進行途上で、そのときパウロは熱狂的なユダヤ律法の守護者でした。

イエスの十字架死と復活、その数日後に起こった聖霊の訪れ以降、エルサレムでは実際に復活したイエスに会った弟子たちが救世主イエスを通じた人間救済の計画についての伝道活動を活発に行い、初期の教会が形成されて次々と信者を増やしていきます。これに対抗してエルサレムや地方にあるユダヤ会堂はモーゼの律法を厳格に守ることを説いてイエスを認めずイエス信者の教会弾圧を開始します。そんな中、教会のリーダーのひとりとして選ばれていたステパノは神さまを冒涜したとして最高議会に訴えられ、市外へ連れ出されて石打ちの刑で殺されます。パウロもこのときステパノを告発した側に参加していました。

この後パウロは教会弾圧の急先鋒と化します。殺意に燃えてイエスの信者を脅し次々と各地の教会を襲撃しては信者を捕らえて牢に送りました。ところがあるとき大祭司の令状を携えて、やはり教会を襲って信者をエルサレムへ連行する目的でダマスコ(現シリアのダマスカス)へ向かう途中、パウロの一行は天からのまばゆい光に包まれます。そして一行の中でただひとりパウロだけが「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞きます。「イエスは死んだ」として教会を迫害してきたパウロが実際にそのイエスに出会ってしまったのです。パウロはイエスに視力を奪われ、仲間に手を引かれてダマスコの町へ入ります。

イエスは次にダマスコの町に住む信者アナニヤに現れてパウロの元を訪れるように告げます。アナニヤは悪名高いパウロの評判を聞き知っていましたので最初は恐れますが、イエスはパウロがイエスについての知らせを外国人や異国の王たち、イスラエルの子孫へと運ぶためにイエス自身が選んだ器なのだと告げます。アナニヤがパウロの上に手を置くとパウロの目が開きます。ここからパウロはイエスを信仰し、福音を伝える道を選びます。

パウロは他の信者たちと共に三度にわたって小アジアやギリシア、ローマなど地中海北岸の町を旅して数え切れないほどの苦難を経ながらイエスに関する福音を伝えていきます。信者が得られるとその地に教会を設立してリーダー(牧師)を選び次の町へと移りました。ところがパウロが次の町へ去ってしまうと教会の中で内紛が生じたり、誤った信仰を伝える別の一団が現れて福音の根本をねじ曲げたりと設立されたばかりの教会をいろいろな危機が襲います。これらの噂がパウロの耳に届くとパウロは自分がその町にいたときに伝えた話の内容を思い返させるために何度も手紙をしたためます。これらの手紙が新約聖書の後半に収められている「~への手紙」と題された書簡集です。パウロの書簡を読むと、パウロがどれほど頑迷に福音に別の条件がつけられることを拒んだか、またパウロがどれほど福音を旧約聖書の預言成就に紐づけることにこだわったかがわかります。今日の福音が福音として正しく守られているのは、パウロの伝道活動そのものと、福音書に加えてパウロの書簡集を新約聖書に加えることを決めた適切な編纂作業に負うとことが大きいと思います。

パウロが五旬節の祭りでエルサレムにいるときにアジアから訪れていた狂信的なユダヤ人がパウロを見つけて暴動を扇動しますが、パウロは鎮圧に駆けつけたローマ軍に保護される形で難を逃れます。カイザリヤへ送られたパウロは当時の総督のペリクスと後任の総督フェスト、さらにはアグリッパ王による審問を受けその途中でローマ皇帝への上告が認められます。

苦難の旅を経てローマにたどり着いたパウロは何年か皇帝ネロによる裁判を待ちます。ここまでのパウロの足取りは新約聖書の「Acts(使徒の働き)」やパウロ自身の書簡の中で明確にたどることができるのですが、この後は書簡の内容を手がかりにして推察するしかありません。パウロは最後にはおそらく死刑の判決を下され、言い伝えによるとローマ市外で首を切って処刑されたとされます。










english1982 at 22:00|Permalink

時代背景と社会

--- 新約聖書を読む〕のカテゴリに含まれる記事 --------------
時代背景と社会flower-mini
------------------------------------------------------------


このページにはイエスの時代の時代背景と社会を知るための、次の情報が説明されています:
  • ローマ帝国
  • ファリサイ派
  • サドカイ派
  • サンヘドリン
  • 律法学者
  • レビ族・祭司・大祭司


ローマ帝国

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新約聖書が記録する時代のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。

ローマ帝国の起源は紀元前8世紀中頃にイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベル川のほとりに形成した都市国家ローマです。当初は貴族による共和政を行って元老院が大きな力を持っていました。これを共和政ローマと言います。都市国家ローマは次第に力をつけてイタリア半島の都市国家を統一し、さらに地中海に覇権を伸ばして大きな領域を支配するようになりました。

紀元前1世紀にイタリア半島内の都市国家による反乱(「同盟市戦争」あるいは「同盟者戦役」)が起こり、これを経てローマはイタリア半島内の諸都市の市民にローマ市民権を付与する形で狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していきました。

紀元前1世紀、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)などの将軍たちが権力を握り、三頭政治を開始します。エジプトのプトレマイオス朝を滅ぼすとローマは地中海に安定支配をもたらします。これを「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と言います。

カエサルが死ぬと養子のオクタウィアヌスが第二次三頭政治の一員から抜きん出てアウグストゥス(「尊厳者」)の称号を受け、最初の皇帝となりました。これより後のローマ国家を「ローマ帝国」と言います。

アウグストゥスの後、皇帝位をめぐる曲折を経て紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した五人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を築きます。この五人の皇帝を五賢帝と言います。この時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、貨幣制度などの整備・統一が行われローマ領内の流通と経済が盛んになりました。


ローマの歴代皇帝

ユリウス・クラウディウス朝

  • ガイウス・ユリウス・カエサル :終身独裁官
  • アウグストゥス(紀元前27年~紀元14年):初代ローマ皇帝でLuke 2(ルカの福音書第2章)の戸籍登録を命じた皇帝
  • ティベリウス(14年~37年):イエスが伝道活動をしていたときの皇帝
  • カリグラ(ガイウス)(37年~41年)
  • クラウディウス(41年~54年) :ユダヤ人をローマから退去させたとActs 18(使徒の働き18章)に登場する皇帝
  • ネロ(54年~68年):キリスト教を迫害した最初の皇帝でActs 25(使徒の働き25章)の中でパウロが上訴した皇帝(西暦60年)

内乱期(四帝乱立の1年)
  • ガルバ(68年~69年)
  • オトー(69年)
  • ウィテリウス(69年)

フラウィウス朝
  • ヴェスパシアヌス(69年~79年):エルサレム陥落(西暦70年:ユダヤ戦争)のときの皇帝
  • ティトゥス(79年~81年)
  • ドミティアヌス(81年~96年)

五賢帝時代
  • ネルウァ(96年~98年):最初の五賢帝
  • トラヤヌス(98年~117年)
  • ハドリアヌス(117年~138年)
  • アントニヌス・ピウス(138年~161年)
  • マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年~180年):最後の五賢帝
  • 共同皇帝ルキウス・ウェルス(161年~169年)
  • コンモドゥス(180年~193年):五賢帝ではないが含めてアントニヌス朝とも言う




ファリサイ派

新約聖書の福音書に頻繁に登場してイエスや弟子たちと対立し、イエスの殺害を企てるファリサイ派。彼らはいったい誰なのでしょう。

ファリサイ派は英語では「Pharisees(「ファリシーズ」と発音)」と言い、聖書での日本語表記はファリサイ派やパリサイ派です。ファリサイ人(びと)やパリサイ人(びと)とも書かれます。

ファリサイ派は新約聖書の時代にイスラエルにあった宗教上、政治上の派閥、政治団体、結社です。旧約聖書の中でモーゼが神さまから預かりユダヤの民に伝えた「律法」(Law)を厳格に守ることを主張しました。さらに律法に加えて「Scribes(スクライブス)」と呼ばれる「律法学者」が行う律法解釈や、ユダヤの長老が伝承してきた慣習も律法と同じレベルで重視し、安息日を守ること、「10分の1税」を納めること、清めの儀式を守ること、等を特に強く主張したことで知られます。


起こり

ファリサイ派は紀元前200年に起こった「Hesidim」と呼ばれる信心深いユダヤ人の集団に発するとされます。この頃Hellenism(ヘレニズム:ギリシャ主義=古代ギリシャ人の自由な知的精神さまを中心とする人生観)がユダヤ人に及ぼす影響が大変強くなり、ユダヤ人の生活様式が近隣の異邦人とほとんど変わらなくなって来ていました。Hesidimは保守派としてユダヤの儀式的な律法を守ることを強く主張しました。

シリア王のAntiochus IVがユダヤ教を根絶しようとしたとき、HasidimはMaccabees(「マカビーズ」と発音。日本語表記は「マカバイ」など)の反乱に参加して民衆の支持を獲得しています。この信心深いHasidimの流れからEssens(「エサン」と発音。日本語表記は「エッセネ派」など)とファリサイ派が生まれました。ファリサイ派はユダヤ民族の中にどどまって活動し、一方のエッセネ派は後にユダヤ民族から離脱して独自の共同体を形成します。(エッセネ派は聖書には登場しません)。

反乱の後、ギリシアの統治者の中にはファリサイ派を支持する者も現れたので、結果としてファリサイ派は「サンヘドリン」(イスラエルの最高法院・最高議会、日本の国会と内閣と裁判所を兼ねたような機関)の中で力を伸ばし、ときには議席の過半数を占めることもありました。イエスの時代にはファリサイ派は力を失って少数派になっていたものの、引き続きサンヘドリンの中の議席を確保して活動していました。当時、6,000人ほどのファリサイ派がいたとされます。


特徴

ファリサイ派の主張の特徴は、旧約聖書の中の律法を、「Scribes(スクライブス)」と呼ばれる「律法学者」の解釈に基づいて厳格に遵守することにあります。

旧約聖書の時代からユダヤの民に神さまの律法を教えるのは祭司の役目で、聖書の律法の中にも何かがあったときに律法をどのように適用するかを相談に行くべき権威は祭司であるとしています(Deuteronomy 17:8-13/申命記第17章第8節~第13節)。ところがイエスの時代にはエルサレムの祭司は腐敗して民衆の尊敬をすっかり失ってしまっていました。代わりに民衆は律法の解釈についてはScribesを頼りました。Scribesの中には祭司も含まれていましたが大半はそうではありません。Scribesは信心深く、厳しく禁欲的な生活を送っていて、律法の専門家となるべく特別な訓練を受けていました。一般の民衆が腐敗した祭司よりもScribesを支持したのは当然と言えます。

ファリサイ派はモーゼの律法の文書そのものに加えて、その解釈や日々の生活にそれらの解釈を応用する方法について、古くからの伝統やしきたりを律法と同レベルで重視しました。これらの伝統やしきたりは聖書とは異なり書き物として存在するわけではありませんでしたが、ユダヤの長老がこれらに通じているとされており、その内容はScribeからScribeへ口頭で伝承され、Scribesはこの口頭伝承を熟知する人たちということで特権階級的な立場を維持しました。ファリサイ派は「これらの伝統やしきたりからどのように神さまの律法を守ればよいかがわかるはずだ」と解きました。

またファリサイ派は律法は全部で613個あると言い、「これらすべてを守ることが大切である」と説きましたが、その中でも特に「10分の1税(tithing)」と「清めの儀式(ritual purity)」を強く説きました。新約聖書の中でファリサイ派が守るべきと説いた律法には、安息日、離婚、誓い、着物などがあります。

ファリサイ派は自分たち以外のユダヤ人は律法の遵守に関心がないとして蔑み、ファリサイ派以外のユダヤ人や異邦人との接触はできる限り減らすべきと考えていました。たとえばファリサイ派以外の人の家で食物を出されても、その食物について正しく10分の1税が納められ儀式的に清められている保障がないことから、「汚れ」を畏れて食事をしませんでした。

サドカイ派と異なりファリサイ派は死者の復活を信じていました。この観点ではファリサイ派とクリスチャンは同じ見地に立っています。新約聖書の中でイエスが死者の復活を説く場面でイエスの言葉を支持するScribeのことが書かれていたら、そのScribeはファリサイ派所属と考えられます。


支持基盤

ファリサイ派が他のユダヤ人を蔑み、接触を避け、何かにつけて律法を守らないことを批判し、そういう人たちを罪人として見下すような姿勢をとる独善的な派閥だったにも関わらず、ファリサイ派とファリサイ派所属のScribesたちは広く民衆の支持を受けていました。サドカイ派が裕福な地主や強権を持つ祭司で構成されていたのに対しファリサイ派の人々は一般のユダヤ人でしたし、たとえ自分たちがすべての律法を守ることができなくてもそういう姿勢を禁欲的に貫くファリサイ派は民衆の尊敬と支持を得ていたのです。


イエスとの対立

ファリサイ派の律法遵守は表面的なこだわりで、心は神さまからはるか遠いところにありました。ファリサイ派の言動の動機は人々の賞賛を集めるところにあり、外見上の信心や清らかさの裏に邪悪な欲望が隠されていた点は新約聖書からも読み取れます。ファリサイ派がときにイエスから「偽善者」として一喝されるのも、心と外見があまりにもかけ離れていることによります。新約聖書ではファリサイ派はイエスの伝道活動や初期の教会活動の所々に顔を出し、典型的な同じ間違いを繰り返す様子が書かれています。




サドカイ派

Sadduceeは「サドュシーズ」と発音され、聖書での日本語表記はサドカイ派、サドカイ人(びと)です。

ユダヤの宗教上、政治上の派閥の一つでイエスの伝道に反対しました。死者の復活を信じないことで知られます。

構成員は祭司、大商人、貴族などの特権階級です。少数派ながら大きな権力を持っていて、大祭司と、祭司階級の中でも最も権力を持つ家系は主にサドカイ派です。名前の由来をダビデ王とソロモン王の時代の大祭司のZadok(ツァドク)だとする学者もいます。

祭司でなくとも富裕な一般人の中にもサドカイ派はいました。サドカイ派は保守派として知られ改革を否定しましたが、当時の体制を維持しようとした理由はサドカイ派の出身母体によります。サドカイ派の構成員たちは社会の中で富裕な特権階級としての権限を維持し、ローマ政府と良好な関係を築こうと努力していました。つまりどちらかと言うと政治的な結社です。だから秩序を乱そうとしたり自分たちの権威を脅かすような動きはサドカイ派にはすべて危険な兆候として映りました。ですのでイエスの活動に反対したのも政治的な理由によります。

サドカイ派はモーゼの律法の解釈を口頭伝承や書き物で伝えてきたユダヤの長老の慣習やしきたりを拒絶していたので、これらの慣習やしきたりを律法とまったく同レベルに尊重するファリサイ派と真っ向から対立しました。またサドカイ派は唯一モーゼの律法(=「Pentateuch」と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの本)だけが法的な拘束力を持つと主張しました。




サンヘドリン

Sanhedrinは「サンヒードリン」と発音され、英語の聖書では「High Council」「assembly」などの名前でも登場します。イエスの時代にユダヤ人の間で律法を実行し、また裁判を行うための最高機関です。つまり日本で言えば国会であり、内閣であり、最高裁判所です。

ローマ帝国の支配下でありながらサンヘドリンには一定の範囲内で宗教上、民事上、刑事上の権威が与えられていました。「一定の範囲で」というのはたとえばイエスが神さまの冒涜の罪で裁かれようとしたときサンヘドリンはイエスを死刑にしたかったのですが、実際の裁判と判決は総督ピラトとローマ政府の役人に委ねています。つまりサンヘドリンには人を死罪にするまでの権限はなかったということです。

聖書の版にもよりますが「Sanhedrin(サンヘドリン)」という名称が実際に聖書に登場することはありません。サンヘドリンが具体的に意味するのは会議、あるいは会議場の場所ですが、その会議を構成するメンバーの集合体として用いられる場合もあります。たとえば日本語で「国会で決める」と言うときに、「国会」という言葉が、議員たちによる会議も、国会議事堂という建物も、国会議員の集合体も指すのと同じです。

サンヘドリンの主な構成メンバーは大祭司(Chief Priest)、長老(Elders)、律法学者(Scribes)などです。聖書ではサンヘドリンの構成メンバーを律法上あるいは宗教上の指導者たち(Rulers)と記す場合もあります。

サンヘドリンは70~72人のメンバーで構成されていて新約聖書には実際のメンバーが実名で登場する場面があります。

  • Nicodemus(ニコデモ):John 3(ヨハネの福音書第3章)でファリサイ派に所属しながら夜陰に紛れてイエスに教えを乞いに来た人
  • Joseph of Amathea(アリマタヤのヨセフ):ファリサイ派に所属しながら実はイエスの隠れ信者で、イエスの十字架刑後に勇気を出してイエスの死体の下げ渡しを願い出て、死体を亜麻布に包み自分の新しい墓におさめた人
  • Gamaliel(ガマリエル):ファリサイ派でPaul(パウロ)にユダヤ律法のすべてをマン・ツー・マンで教えた先生
  • 大祭司のAnnas(アンナス)Caiaphas(カイアファ)Ananias(アナニア):これら大祭司や長老はサドカイ派に所属する

大祭司はユダヤ民族の最高権力者で常にサンヘドリンの長です。サンヘドリンの構成メンバーにはファリサイ派とサドカイ派が含まれていました。大祭司や長老はサドカイ派、律法学者は主にファリサイ派です。この二つはユダヤ主義の二大派閥でサンヘドリンでは二つの勢力のバランスを保つことに苦慮していました(他にも派閥はいくつかあります)。

西暦6年になるとサンヘドリンの権力範囲はユダヤ地方と南部パレスチナに限定されるようになりましたが、他の地域に住むユダヤ人も相変わらずサンヘドリンに敬意を表し、重要な判断についてはサンヘドリンの決定に従う傾向にあったようです。

エルサレムのあるユダヤ地方では、ローマ政府はユダヤ民族統治の大半をサンヘドリンに委ねていました。サンヘドリンは独自の警察組織や寺院警察を設置していて、律法の違反者逮捕も独自に行いました。イエスを逮捕した警察集団はサンヘドリン管理下の警察組織です。

サンヘドリンはユダヤ民族の最高裁判所としての役割も持っていましたが、これは今日の日本のように下等裁判所の判決に不服を持つ者が上告できる裁判所という意味ではなく、問題の重大度や複雑度の高い事件がサンヘドリンに持ち込まれていたということです。またローマ政府はいつでもサンヘドリンの決定に介入して判決を無効にする権利を持っていました。パウロはこれによってサンヘドリンによる難から逃れることができました。

ローマ政府はサンヘドリンに人を死刑に処する権限は与えておらず、イエスの処刑判決が総督やローマ政府に委ねられたのはこの理由によります。





律法学者

律法学者の英語表記は「Scribes」( 「スクライブズ」と発音)で、この人たちは律法学者であり、律法の専門家であり、弁護士です。英語の聖書では「Expert in religious law」「Lawyer」「Teachers of the law」でも登場します。新約聖書の時代に存在した学識者階級で常に聖書を研究して精通し、聖書の写本や編纂、また律法の先生の役割を果たしていました。


起こり

そもそも旧約聖書上のヘブライ語で「Scribes」にあたる言葉が意味した人たちは、軍隊の中で兵隊に番号を振り招集する任務を帯びていた人たちです。ダビデ王やソロモン王の王座に近づくための許可を管理していた係官で、やがて同じ係官を指す言葉が書物を研究する職業を指すように変化しました。

ユダヤ王の「Hezekiah」(ヒゼキヤ)は何名かの集団を組織して歴史の記録のために古来の記録を筆記させる役目を与えました。このとき記録対象となった文献にはソロモン王の「Proverbs」(「箴言」)も含まれています。「Scribes」の役目の本質が変わったのはこの頃からと思われます。「Scribes」はこのときから王室の役人ではなく聖書を研究する学者となったのです。

ユダヤ人がバビロニアによる70年の捕囚期間を経てパレスチナに戻ってくると本格的に「Scribes」の時代が到来しました。「Ezra」(エズラ)がイスラエルの民の前で律法を朗読したことを契機にユダヤ民族はすべての律法や儀式への恭順へと戻ることになりました。このときからどれだけ律法や伝統を守れるかが神さまへの信心の尺度になったのです。

最初のうちは律法の解釈や伝達の役目は祭司が担っていたのですが、最終的にこの役目を担ったのが「Scribes」でした。結果として「Scribes」公認の律法解釈が律法そのものよりも重大な意味を持つようになってしまいました。こうして初期の「Scribes」の置かれた位置は重大な意味を持ち、これが権威に結びつきました。「Scribes」がどのように聖書を解釈するかによって人の正しい行動が何であるかが決められるようになったからです。


新興の上層階級

イエスの時代の「Scribes」はユダヤ民族の中では新興の上層階級を形成していました。西暦70年前にはエルサレムの多数の祭司が「Scribes」としての仕事に従事していました。このうちの一人がユダヤの歴史家「Josephus」(「ジョシーファス」と発音。日本語表記は「フラウィウス・ヨセフス」など)です。

「Scribes」の出身母体はサドカイ派や普通の祭司階級ですが、最大の出身母体は一般の人々でこれは実に様々な職業・階級に及びます。たとえば商人、大工、亜麻布織り、テント職人、日雇い労働者などです。

「Scribes」になるために人生を捧げようと決心した若いユダヤ人は何年かに及ぶ学習コースを経た後に「Scribes」となります。たとえば歴史家のJosephusは、準備作業を14才のときに開始しました。生徒は常に先生と行動を共にして教えを受けます。「Scribes」の修行期間にはまず最初にユダヤの伝統的な物事をすべて修得し、将来宗教上、政治上の判断や刑法上の裁判判決が下せるように準備しました。

「Scribes」の伝統によると、そこには聖書を解釈する上での秘技や知識上の禁断の領域があることになっていて、それらは三人以上の人たちの前では決して開示してはいけないことになっています。後期ユダヤ主義の黙示録では特権階級にしか理解できない神学上のシステムがあることになっています。これらの秘密は唯一「Scribes」によって密室で伝授されます。「Scribes」によれば神さまは意図的に大衆を無知の状態にしておくことで律法が人々に求める事柄の根拠を知らせないようにしていると言います。律法を理解し適用するに足りるだけの信頼が一般の人間には与えられていないというのが「Scribes」の解釈です。

エルサレムは「Scribes」の知識と律法解釈の中心地で、任命を受けた「Scribes」だけがユダヤの伝統を発信したり創設することを許可されていました。往々にして14才から学習と修行を積み、完璧な知識を極めた学者だけに許されることとされていました。40才で学習を完了するとこの任命を受けることができました。権限を与えられたメンバーとして「Scribes」は裁判官として振る舞うことが許され、こういう人たちを「Rabbi」(ラビ=律法博士。英語では「ラバイ」と発音)と呼びました。ラビたちは司法、政府、教育の主要な地位を独占し祭司長や他の上層階級と共にサンヘドリンを構成する主要メンバーとなって一般大衆からは最大の尊敬を集めていました。


新約聖書の中のScribes

新約聖書の中の「Scribes」は「律法学者」(Lawyers)と呼ばれ、これはモーゼの律法に精通する専門家を意味します。モーゼの律法はユダヤ民族の中では唯一の民政上および宗教上の権威と考えられているのです。

新約聖書の福音書では「Scribes」はたいていの場合ファリサイ派と行動を共にしていて、ときには「律法の先生」(teachers of the law)などと呼ばれます。これらの「Scribes」はファリサイ派所属のメンバーということです。

「Scribes」の中にはサンヘドリンのメンバーもたくさんいて、その中には「Gamaliel」(ガマリエル)や「Nicodemus」(ニコデモ)が含まれていました。これらの「Scribes」は律法の執行者の役目を担っていました。西暦70年にエルサレムがローマ軍により壊滅すると「Scribes」の権威はさらに強化されました。






レビ族・祭司・大祭司

レビ族

レビ族は英語で「Levites」(「リーバイツ」と発音)です。

ユダヤ民族の父、最初のユダヤ人であるAbraham(アブラハム:「エイブラハム」と発音)の息子がIsaac(イサク:「アイザック」と発音)、その息子がJacob(ヤコブ:「ジェイコブ」と発音)です。ヤコブは後にイスラエルに改名し12人の息子を持ちました。この12人がそれぞれイスラエルの十二部族の先祖となりました。レビ族(Levites)はヤコブの12人の息子のうち三番目の息子であるLevi(レビ:「リーバイ」と発音)の子孫のことです。

レビ族は十二部族の中ではただ一つの特別な部族として寺院の祭司職をアシスタントする役割を担いました。その役割に選ばれた顛末はモーゼが神さまから十戒を授かった直後の場面でExodus 32:26-28(出エジプト記第32章第26節~第28節)の前後に記載されています。

レビ族の中でAaron(アロン=モーゼの兄)とその息子、さらにはこの家系の子孫たちは特に寺院の祭司職に任命され、仕事として神さまに生け贄を捧げたり、神さまの崇拝や罪の告白のために民を導くことをしました。逆に言うとレビ族のうちアロンの家系以外の者は祭司職ではなく、そのアシスタントとして寺院の管理や警備、その他の雑事の仕事を任されていました。

レビ族は25才程の年齢になると聖水による聖別の儀式を経て、身体全体の毛をそり落とし、衣類を洗い、雄牛二頭と穀物を生け贄として捧げます。その後で幕屋(=初期のテント型の移動神殿で後に寺院に代わる)の前で長老により寺院の仕事に就くために聖別されます。

最初は祭司に対するアシスタントの仕事から始まり、それからレビ族の中でのリーダーを務め、やがて門の番人、寺院の楽隊、管理者などの職へ就いていきます。エルサレムで寺院が建設されるまでの間はレビ族が幕屋(=テント型の移動神殿)と内部の調度品をユダヤ民族の移動に合わせて解体して運び、組み立て、内部や調度品を清めたり、周囲を警護する仕事をしました。50才で引退して仕事から解放されるとその後寺院に残るかどうかは自分の選択に任されていました。

祭司を除いては一般のレビ族には聖なる調度品や祭壇に触れることは許されず、これらを運ぶためにはまず祭司が先立って布で覆いをする必要がありました。当時は寺院周辺には材木を切ったり水を運んだりという重労働のために祭司に仕えるレビ族と、さらにレビ族に仕える使用人がいました。

他の部族と異なりイスラエルの民が約束の地に入ったとき、レビ族には土地が割り当てられませんでした(レビ族の割り当ては「神さま」だからです)。レビ族の居住のため、神さまの命令により各部族の土地から48の町が周囲の牧草地と共に供出されてレビ族に住環境を提供しました。

寺院の仕事に従事するレビ族の食べ物としては、他の民族が1/10税として神さまに捧げる動物や作物、また生け贄として捧げる動物の一部も受け取ることができるように定められていました(Numbers 18:24/民数記第18章第24節)。レビ族は受け取った1/10税からさらにその1/10を神さまに捧げ、それが祭司たちの食料となりました。

レビ族は四六時中、寺院での活動のために時間を割くことが求めらていたわけではなく、1年のほとんどの期間は自分の町に住んでいました。自分の当番の時期になると幕屋に出向き、自分に割り当てられた期間だけ働きました。

ダビデ王の時代のレビ族は、(1)寺院での祭司のアシスタント、(2)審判と律法学者、(3)門番、(4)楽隊、の四つの仕事に分かれていました。イエスの時代のレビ族はレビ族も祭司も共にすっかり落ちぶれて形骸化し、ただ単に儀式を主宰する仕事をしていて、それらの儀式が本来持っていた意味への関心は薄れていました。


祭司

祭司は英語で「Priest」(「プリースト」と発音)です。

祭司はイスラエルの国の公的な仕事で、神さまの崇拝を主導し、神さまの前ではイスラエルの民を代表する役割を果たします。また国民の罪を償うための様々な儀式を執り行います。

かつてはこれらは家長や部族長の仕事だったようですが、神さまによってアロン(モーゼの兄)が大祭司に任命されたとき、祭司職が公式なものとなりました。その後はアロンの家系がイスラエルでは祭司の家系とされ、代々、神さまのための特別な仕事をする職に就きました。

聖書を読んでいるとレビ族と祭司職が同一のような記述に出会います。この二つは同じレビ族に属し相互に密接な関係を持ちますが、祭司職はレビ族の中でもアロンの家系に限定され、祭司職の仕事と一般のレビ族の仕事は異なります。

祭司は神さまに様々な捧げものをする役目を果たすことと、人々に罪を告白させることで儀式そのものを司ります。レビ族はこのときに祭司のアシスタントの役目を果たします。

神さまにいけにえを捧げるときに祭司が果たす役割は、神さまとユダヤ民族の間に立つ仲介者です。人は生け贄を捧げることによって神さまに罪を許していただきます。個々のいけにえが象徴するのは罪の代償は死であることと、血を流すこと抜きには罪の許しはあり得ないことです。

祭司は世襲で受け継がれアロンの子孫には責任と資格が求められました。五体が満足であることが祭司の霊的な完璧さを象徴しましたから、肉体的に欠陥のある人は祭司にはなれませんでした。日々の暮らしの様子や妻や子供との関係も神さまへの献身の姿勢を表すとして厳しく見張られました。

アロンと息子たちは最初に七日間の儀式を経て神さまの前に神聖な存在として聖別されました。身体を洗い清められ、祭司職のための特別な装束を身につけられ、聖油による聖別を受け、彼らのための特別な生け贄が捧げられました。この一連の儀式が神さまのために仕事に就く資格を象徴します。

白い亜麻布の衣装は神聖と栄光を象徴し、縫い目のない上着は霊的な高潔・完全・正義を象徴します。上着には四つの角があり、これが神さまの王国に属すことを象徴し、花が開花したような帽子はかぶる者の新鮮で生き生きとした命を象徴します。身体に巻かれたベルトは祭司の仕事の証です。

神さまとユダヤ民族の仲介者としての仕事は寺院で香を灯し、ランプを掃除し灯りを点けます。祭壇の前では人々の生け贄そのものが正しく用意されていること、それが正しい手順で捧げられることに責任を持ちます。これを間違えると祭司が間違いを正すまでその人の罪は清められないことになります。

ときに祭司は神さまの使いとしてイスラエルの人々に律法を教えました。神聖なもの、神聖でないもの、汚れたもの、きれいなもの、これらの見分け方を教えるのも祭司の仕事でした。祭司はイスラエル全土の町に配置されていてそこでは裁判官の役目も果たしました。

旧約聖書最後の本Malachi(「マラキ書」)には祭司が堕落したこと、祭司によって誤った教えがされていることが指摘されています。祭司がが堕落した結果、人々はさらに神さまから遠ざかる離れることになりました。


大祭司

大祭司は英語で「High Priest」です。イスラエルの宗教上の最高位の人です。最初の大祭司はアロン(モーゼの兄)で、自分の息子たちとは立場を別にし、それ以降はアロンの家系の長男が大祭司の座を受け継ぎました。

大祭司は身にまとう特別な装束、特別な仕事、特別な資格によって他の祭司から区別されます。長男が世襲するからと言っても大祭司には肉体的な欠陥があってはならず、日常も神聖さが求められます。父母の死に対して帽子を脱ぐことで悲しみを示してはならず、怒りや悲しみのために着物を引き裂いてもいけません。また死体に近づくことも許されません。

特別な装束としてズボンの上にコート、ベルト、帽子をまとい、これらはすべて祭司が編みます。さらに大祭司は特別な祭服(ephod、「イフォド」と発音)を身につけます。これは二枚の布を合わせた胸当てで長さは腰まであります。気高い色とされる青・紫・緋でできていて金色の糸で縫われています。イスラエルの十二部族の名前を刻んだ2つのしまめのうの石が肩に取り付けられています。神さまの前で全部族を代表する象徴です。







 


english1982 at 21:00|Permalink

ユダヤ人の暦と祭り

--- 新約聖書を読む〕のカテゴリに含まれる記事 --------------
ユダヤ人の暦と祭りflower-mini
四つの福音書
------------------------------------------------------------


この記事では新約聖書の福音書にたびたび登場するユダヤの暦と祭りについて説明します。


ユダヤ人の暦

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ユダヤ人の祭りは年中行事なので最初にユダヤ人のカレンダーを見ておきましょう。

ユダヤ人の暦は「太陰太陽暦」で進みます。太陰太陽暦は「太陰暦」、つまり月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法に閏月(うるうづき)を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦です。一方私たちが日常使っているカレンダーは「太陽暦」、つまり地球が太陽の周りをまわる周期を元にして作られた暦法に基づくグレゴリオ暦です。両者には大きなずれがあります。

ユダヤ人の暦の月の呼び名は新しい呼び名と古い呼び名があり、これはバビロン捕囚(紀元前6世紀にバビロニアの王ネブカドネザルがエルサレムを陥落させてユダヤを滅ぼし、ユダヤ人を捕虜として連れ去った出来事)の頃に変わったようです。

下の表からユダヤ人の祭りは3~6月頃の春の祭りと、9~10月頃の秋の祭りがあることがわかります。成人男子の出席が義務づけられている三大祭りは「過越の祭り」「ペンテコステ(別称:七週の祭り)」「仮庵の祭り」です。


ユダヤ人の暦グレゴリオ暦月の呼び名(古)月の呼び名(新)ユダヤ人の祭り
第1の月3~4月頃アビブニサン過越し祭り(ペサハ)
第2の月4~5月頃ジブイヤール-
第3の月5~6月頃-シバンペンテコステ(五旬節)
第4の月6~7月頃-タムーズ-
第5の月7~8月頃-アブ-
第6の月8~9月頃-エルール-
第7の月9~10月頃エタニムティシュリー新年祭(ローシュ・ハッシャーナー)
大贖罪日(ヨム・キプール)
仮庵の祭り(スコット)
第8の月10~11月頃-マルヘシュバン-
第9の月11~12月頃-キスレーヴ(ハヌカ)
第10の月12~1月頃-テベット-
第11の月1~2月頃-シュバット-
第12の月2~3月頃-アダル(プリム)
閏月--アダル・シェーニー-


 
第9の月(私たちの11~12月頃)の「ハヌカ」は旧約聖書に定められた祭りではなく、紀元前168年のマカバイ戦争でユダヤ人がセレウコス朝シリアからエルサレムの神殿を奪回したことを記念する祭りです。イエスの時代にはユダヤ人は既にハヌカを祝福していて、福音書にもその記述が登場します。

第12の月(私たちの2~3月頃)の「プリム」は旧約聖書で最初から定められていた祭りではなく、紀元前6世紀にユダヤ人がバビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャの支配下にあったときに大量虐殺を免れ敵対勢力を倒した出来事に基づきます。この出来事は旧約聖書の「Esther(エステル記)」に記述されています。





過越(すぎこし)の祭り

過越(すぎこし)の祭りはユダヤ人のエジプト脱出を記念する祭りで、第1の月(私たちの3~4月頃)の14日に行われます。エジプト脱出のときに神さまはエジプト上空を飛んでエジプト中の家の第一子を殺しましたがユダヤ人には危害を加えませんでした。つまり神さまはユダヤ人の家を「過ぎ越した」のです。そのことを思い出して感謝をする祭りでもあります。

これに続く七日間は「種を入れないパンの祭り」になります。これはユダヤ人がエジプトを脱出するときには大急ぎで出立しなければならなかったので、パン種を入れて生地を発酵させる時間がなかったことを思い出す祭りです。第1の月(私たちの3~4月頃)の21日まで続きます。

「種を入れないパンの祭り」の最終日は「収穫の初穂の祭り」です。これはエジプト軍の追撃を断った紅海の横断を記念した祭りで、収穫シーズンの始まりを告げる祭りでもあります。

聖書には次のように書いてあります。

Leviticus 23:4-8(レビ記第23章第4節~第8節) [新改訳]

4 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。6 この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。7 最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。8 七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」

これに続いて「収穫の初穂の祭り」についての記述があります。

Leviticus 23:9-14(レビ記第23章第9節~第14節) [新改訳]

9 ついで主はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。12 あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。13 その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。14 あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。

同じことがDeuteronomy(申命記)には次のように書いてあります。

Deuteronomy 16:1-8(申命記第16章第1節~第8節) [新改訳]

1 アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。2 主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。3 それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。4 七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。5 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。6 ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。7 そして、あなたの神、主が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。8 六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、主へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。





ペンテコステ

ペンテコステは過越の祭りの最後に行われる「収穫の初穂の祭り」から七週間後(50日後)に行われる祭りです。「七週の祭り」とも呼ばれます。私たちのカレンダーでは5~6月頃で、この頃に小麦の収穫が終わりを迎えます。伝統的にモーゼがシナイ山で神さまから律法を授かった出来事に結びつけて祝われます。

聖書には次のように書いてあります。

Leviticus 23:15-22(レビ記第23章第15節~第22節) [新改訳]

15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン -- 主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの -- 二個を持って来なければならない。18 そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。19 また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。20 祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。21 その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

Deuteronomy 16:9-12(申命記第16章第9節~第12節) [新改訳]

9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。10 あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。





新年祭

新年祭は別名「ラッパの祭り」です。ユダヤの暦で第7の月の第一日、私たちのカレンダーでは9~10月頃ですから秋の始まりの頃にラッパを吹き鳴らします。このラッパはエジプトを脱出したユダヤの民が約束の地へ入るまでの間に過ごした砂漠での行軍で、命令の合図として吹かれたラッパを思い出させます。そしてこのラッパは一連の秋の祭りの始まりを告げるラッパでもあります。

聖書には次のように書いてあります。

Leviticus 23:23-25(レビ記第23章第23節~第25節) [新改訳]

23 ついで主はモーセに告げて仰せられた。24 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。25 どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」





大贖罪日

大贖罪日はユダヤ人が「ヨム・キプール」と呼ぶ祭りです。ユダヤの暦で第7の月の10日、私たちのカレンダーでは9~10月頃です。

祭りは次のように進行します。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次に二頭の山羊についてくじ引きをして一頭を神さまへのいけにえとし、もう一頭は身代わりの役目にします。次に大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って寺院の最深部の聖域へ持ち込んで、モーゼの十戒が納められた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。

聖書には次のように書いてあります。

Leviticus 23:26-32(レビ記第23章第26節~第32節) [新改訳]

26 ついで主はモーセに告げて仰せられた。27 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。28 その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。29 その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。30 その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。31 どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。32 これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

祭りの進行はLeviticus 16(レビ記第16章)に書かれています。

Leviticus 16:3-22(レビ記第16章第3節~第22節) [新改訳]

3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。12 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。18 主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。





仮庵の祭り

仮庵の祭りはユダヤ人がエジプトを脱出した後で40年間にわたって砂漠を放浪したことを思い出す祭りです。40年の間に神さまの超自然的な力によって供給された水と光に感謝します。その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。

私たちのカレンダーで9~10月の秋の一週間、ユダヤ人全員がテント暮らしをしながら共同の炊飯作業をして過ごします。イエスの時代、祭りの期間中のエルサレムの寺院では毎日市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで寺院へ運び、朝晩のいけにえを捧げる際に供え物とともに祭壇に水を注ぐ儀式が行われていました。

聖書には次のように書いてあります。

Deuteronomy 16:13-17(申命記第16章第13節~第17節) [新改訳]

13 あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。14 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。15 あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。16 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。17 あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。




english1982 at 20:00|Permalink

新約聖書の本と時期

 --- 新約聖書を読む〕のカテゴリに含まれる記事 --------------
新約聖書の本と時期flower-mini
------------------------------------------------------------


新約聖書は大きく「福音書(4冊)」「使徒の働き(1冊)」「書簡(22冊)」の三部構成、合計27冊でできています。

最初の4冊の「福音書」にはイエスの生涯の記録が書かれており、それはイエスの十字架死と復活で終わります。

続く「使徒の働き」はイエスの復活からスタートし、イエスが天に戻って後、初期の教会がどのように形成されていったかの記録です。つまり「福音書」の「続編」的な位置づけです。

最後の22冊の「書簡(手紙)」は主に使徒たちが、これら形成されたばかりの初期の教会や関係者に書き送った手紙の集合です。

このように書くと新約聖書の編集は全体がわかりやすい「時系列の進行」となっていることがわかります。実際にこれを頭に入れて読み進めれば「使徒の働き」の中には22冊の「書簡(手紙)」の宛先となっている教会や地名が登場しますから理解をかなり助けます。

この記事でお伝えしたいのは新約聖書の各本が記述された順序です。実はこれら27冊の本が書かれた順序は、「福音書」>「使徒の働き」>「書簡(手紙)」ではなく、「書簡(手紙)」>「福音書」>「使徒の働き」なのです。



1世紀の出来事

イエスの誕生はいまから約2000年前、紀元前の5年か6年です。西暦を表す「A.D.」は「Anno Domini」、ラテン語で「in the year of the Lord(主の年)」、つまり「イエスが誕生した年」を意味します。6世紀のローマの神学者がイエスの生誕年を算出する際に使った聖書解釈の根拠が今日の解釈とずれているので、イエスの誕生がぴったり西暦ゼロ年になっていません。(ちなみに紀元前を表す「B.C.」は英語で「Before Christ(救世主の前)」、つまり「イエスが来る前」の意味です。)

そしてイエスの十字架死~復活は西暦30年頃。それから40年が経ってエルサレムがローマ帝国により破壊されたのが西暦70年です。エルサレムの周辺で1世紀に何が起こったのかを簡単に書くと下のようになります (注:各出来事の年には諸説あります)

イエスの十字架死~復活の後、西暦35年頃に使徒パウロがダマスコ郊外でイエスと出会う改宗があり、その後パウロは三度に渡り異邦人(ユダヤ人から見た外国人)に福音を伝える伝道の旅を行います。パウロは59年頃に捕らえられ、その後にローマに送られてローマで処刑されます。この過程で多数の書簡を記述しました。

  • -6~-5年: イエスの誕生
  • -4年: ヘロデ大王没
  • 14年: ティベリウスがローマ皇帝に(アウグストゥスを継ぐ)
  • 26年: ピラトが総督に
  • 26~27年: イエスが伝道活動を開始
  • 30年: イエスの十字架死~復活
  • 35年: ステパノの殉死とパウロの改宗
  • 44年: ヤコブの殉死とペテロの逮捕
  • 46~48年: パウロの伝道の旅その1(小アジア=現在のトルコ共和国アナトリア地方。往路:Antioch>Cyprus>Perga>Antioch of Pisidia>Iconium>Lystra>Derbe。復路:Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Perga>Antioch)
  • 50年: エルサレムでの会議
  • 50~52年: パウロの伝道の旅その2(小アジアからギリシアへ。往路:Antioch>Tarsus>Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Troas>Neapolis>Philippi>Amphipolis>Apollonia>Thessalonica>Berea>Athens>Corinth。復路:Corinth>Ephesus>Caesarea>Jerusalem)
  • 53~57年: パウロの伝道の旅その3(小アジアからギリシアへ。往路:Antioch>Tarsus>Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Laodicea>Ephesus>Smyrna>Pergamum>Troas>Neapolis>Philippi>Amphipolis>Apollonia>Thessalonica>Berea>Athens>Corinth。復路:Corinth>Berea>Thessalonica>Apollonia>Amphipolis>Philippi>Neapolis>Troas>Assos>Mitylene>Miletus>Patara>Tyre>Ptolemais>Caesarea>Jerusalem)
  • 54年: ネロがローマ皇帝に(クラウディウスを継ぐ)
  • 57~59年: パウロが捕らえられ、Caesarea (カイザリア)にて監禁状態
  • 59年: パウロがローマへ護送される
  • 62年: パウロが一時監禁状態を解かれる
  • 67年: このころパウロが殉死
  • 70年: ローマ帝国によるエルサレムと寺院の破壊



1世紀の出来事+新約聖書各本の記述年

ここに新約聖書の各本の記述年を挟み込むと次のようになります。各本の記述者や記述年には諸説あるのですがここでは代表的な解釈を書いています。

「福音書(4冊)」は「福音書」(記述者/記述した年)の青字で、「使徒の働き(1冊)」と「書簡(22冊)」は「書簡(手紙)」(記述者/記述した年/記述した場所)の赤字で表しています。

  • -6~-5年: イエスの誕生
  • -4年: ヘロデ大王没
  • 14年: ティベリウスがローマ皇帝に(アウグストゥスを継ぐ)
  • 26年: ピラトが総督に。
  • 26~27年: イエスが伝道活動を開始
  • 30年: イエスの十字架死~復活
  • 35年: ステパノの殉死とパウロの改宗
  • 44年: ヤコブの殉死とペテロが逮捕
  • 46~48年: パウロの伝道の旅その1(小アジア=現在のトルコ共和国アナトリア地方。往路:Antioch>Cyprus>Perga>Antioch of Pisidia>Iconium>Lystra>Derbe。復路:Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Perga>Antioch)
  • 「Galatians」(パウロ/49年頃/Antiochにて)。「James」(ヤコブ:イエスの弟/49年頃)。
  • 50年: エルサレムでの会議
  • 50~52年: パウロの伝道の旅その2(小アジアからギリシアへ。往路:Antioch>Tarsus>Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Troas>Neapolis>Philippi>Amphipolis>Apollonia>Thessalonica>Berea>Athens>Corinth。復路:Corinth>Ephesus>Caesarea>Jerusalem)
  • 「1 Thessalonians」「2 Thessalonians」(パウロ/51年頃/Corinthにて)。
  • 53~57年: パウロの伝道の旅その3(小アジアからギリシアへ。往路:Antioch>Tarsus>Derbe>Lystra>Iconium>Antioch of Pisidia>Laodicea>Ephesus>Smyrna>Pergamum>Troas>Neapolis>Philippi>Amphipolis>Apollonia>Thessalonica>Berea>Athens>Corinth。復路:Corinth>Berea>Thessalonica>Apollonia>Amphipolis>Philippi>Neapolis>Troas>Assos>Mitylene>Miletus>Patara>Tyre>Ptolemais>Caesarea>Jerusalem)
  • 「1 Corinthians」(パウロ/55年頃/Ephesusにて)。「Philippians」「Philemon」(パウロ/Ephesusの獄中で)。「2 Corinthians」(パウロ/55~57年頃)。「Romans」(パウロ/57年頃/Corinthにて)。
  • 54年: ネロがローマ皇帝に(クラウディウスを継ぐ)
  • 57~59年: パウロが捕らえられ、Caesarea (カイザリア)にて監禁状態
  • 59年: パウロがローマへ護送される
  • 「Mark」(マルコ/55~65年頃)。「Luke」(ルカ/60年頃)。「Matthew」(マタイ/60~65年頃)。「Ephesians」「Colossians」(パウロ/60年頃/ローマにて)。
  • 62年: パウロが一時監禁状態を解かれる
  • 「1 Peter」(ペテロ/62~64年頃/恐らくローマにて)。「1 Timothy」「Titus」(パウロ/64年頃/恐らくローマにて)。「2 Timothy」(パウロ/66~67年頃/ローマにて)。「Jude」(ユダ:イエスの弟/65年頃)。「Acts」(ルカ/63~70年頃)。
  • 67年: このころパウロが殉死
  • 「2 Peter」(ペテロ/67年頃/恐らくローマにて)。「Hebrews」(記述者不明/70年頃)。
  • 70年: ローマ帝国によるエルサレムと寺院の破壊
  • 「John」(ヨハネ/85~90年頃)。「1 John」「2 John」「3 John」(ヨハネ/85~90年頃/Ephesusにて)。「Revelation」(ヨハネ/95年頃/Patmosにて)。



最初の信者たちが分かち合っていた情報

つまり西暦49~60年頃の間に最初に書簡が流布され始め、各地の信者はこれを書き写してみなで回し読みしました。ここには「Galatians」「James」「1 Corinthians」「Romans」が含まれています。イエスの十字架死~復活から約20年が経って当時の信者がまず最初に書面で何を読んでいたかがここからわかります。

これらの書簡を読めば、その内容から当時の最初の信者たちが何を聞き何を語り合っていたかも類推することもできます。これら書簡に書かれていたことの他にイエスがイスラエルで行った奇跡の数々やイエスが話した言葉も同時に語られていたはずで、それらは熱狂と興奮をもって迎えられていたことでしょう。さらにそれらの奇跡や言葉、行動、事の顛末が、どのように旧約聖書の預言の数々とひとつひとつ、きっちり符合しているのかも驚きと興奮と共に話されていたことでしょう。

そのイエスの生涯を綴った「Matthew」「Mark」「Luke」の三つの福音書が記述されたのが60年前後のことです。これはイエスの十字架死~復活から約30年後、つまりイスラエルで実際にイエスの奇跡を目撃した人がまだ生きている間です。ためしにいまから30年前の出来事を思い出してみて下さい。それはまだまだ記憶に新しく、「伝説」になるには早すぎます。書簡はこの間も書き続けられますが、主要な教義の元になる書簡は49~60年の初期に成立を終えています。

イエスの十字架死~復活後、初期の教会の成り立ちの過程をルカが歴史書の形にまとめた「Acts」」が書かれたのは65年頃。この中にも当時の信者が何を知り、何を信じ、何を語り合っていたかが多数書かれています。そして70年にエルサレムが崩壊してクリスチャンへの迫害は強まり、最後にヨハネが福音書の「John」、三つの書簡、「Revelation」を書くのは1世紀も終わりを迎える85~90年頃のことです。





english1982 at 19:00|Permalink