ガラテヤ人への手紙

2015年05月29日

ガラテヤ人への手紙:第3章

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ガラテヤ人への手紙第3章第1節~第14節:律法とキリストの信仰">ガラテヤ人への手紙第3章第1節~第14節:律法とキリストの信仰

ガラテヤ人への手紙 第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



The Law and Faith in Christ

律法とキリストの信仰


1 Oh, foolish Galatians! Who has cast an evil spell on you? For the meaning of Jesus Christ’s death was made as clear to you as if you had seen a picture of his death on the cross.

1 ああ愚かなガラテヤ人。誰があなたに邪悪な呪いをかけたのですか。なぜならイエス・キリストの死の意味は、あなた方が十字架でのイエスさまの死の絵を見たのと同じくらい、あなた方に明確にされたではないですか。

2 Let me ask you this one question: Did you receive the Holy Spirit by obeying the law of Moses? Of course not! You received the Spirit because you believed the message you heard about Christ.

2 あなた方にこれひとつを質問させてください。あなた方はモーゼの律法に従うことで聖霊を受けたのですか。もちろん違います。あなた方が霊を受けたのは、あなた方が聞いたキリストに関するメッセージを信じたからです。

3 How foolish can you be? After starting your new lives in the Spirit, why are you now trying to become perfect by your own human effort?

3 あなた方はどこまで愚かになれるのですか。霊の中の新しい人生を始めた後で、どうしてあなた方はあなた方自身の人間の努力で完璧になろうとするのですか。

4 Have you experienced so much for nothing? Surely it was not in vain, was it?

4 あなた方があれほどの経験をしたのは無駄だったのですか。もちろん無駄ではなかったでしょう。

5 I ask you again, does God give you the Holy Spirit and work miracles among you because you obey the law? Of course not! It is because you believe the message you heard about Christ.

5 あなた方にもう一度ききます。神さまはあなた方が律法に従うから、あなた方に聖霊を与え、あなた方の中で奇跡を行うのですか。もちろん違います。あなた方が聞いたキリストに関するメッセージを信じるからです。

6 In the same way, “Abraham believed God, and God counted him as righteous because of his faith.”

6 同じように、『アブラハムは神さまを信じ、アブラハムの信仰によって神さまはアブラハムを正しいとしました。』

7 The real children of Abraham, then, are those who put their faith in God.

7 だからアブラハムの本当の子供は神さまに信仰を持つ人たちです。

8 What’s more, the Scriptures looked forward to this time when God would make the Gentiles right in his sight because of their faith. God proclaimed this good news to Abraham long ago when he said, “All nations will be blessed through you.”

8 さらに言えば、聖書は、神さまが信仰によって自分の目の中に異邦人を正しくすることでは、この時代を予見していたのです。神さまは遠い昔にこの素晴らしい知らせをアブラハムに次のように宣言しました。『すべての国民はあなたを通じて祝福されるようになる。』

9 So all who put their faith in Christ share the same blessing Abraham received because of his faith.

9 だからキリストに信仰を持つすべての人が、信仰によってアブラハムが得たのと同じ祝福を分かち合うのです。

10 But those who depend on the law to make them right with God are under his curse, for the Scriptures say, “Cursed is everyone who does not observe and obey all the commands that are written in God’s Book of the Law.”

10 しかし律法に頼って自分たちを神さまに対して正しくする人は神さまの呪いの下に置かれます。なぜなら聖書には次のように書かれています。『神さまの律法書に書かれているすべての命令に従わない人は全員呪われる。』

11 So it is clear that no one can be made right with God by trying to keep the law. For the Scriptures say, “It is through faith that a righteous person has life.”

11 だから律法を守ろうと努力しても誰も神さまに対して正しいとされないことは明白です。聖書には次のように書かれています。『正しい人がいのちを持つのは信仰による。』

12 This way of faith is very different from the way of law, which says, “It is through obeying the law that a person has life.”

12 この信仰の道は『人がいのちを持つのは律法の遵守による。』と言う律法の道とはまったく異なります。

13 But Christ has rescued us from the curse pronounced by the law. When he was hung on the cross, he took upon himself the curse for our wrongdoing. For it is written in the Scriptures, “Cursed is everyone who is hung on a tree.”

13 しかしキリストは律法によって宣言された呪いから私たちを救い出してくださいました。イエスさまが十字架に掛けられたとき、イエスさまは私たちの過ちによる呪いを自分自身に負ったのです。これは聖書に次のように書かれています。『木に吊されるものはすべて呪われている。』

14 Through Christ Jesus, God has blessed the Gentiles with the same blessing he promised to Abraham, so that we who are believers might receive the promised Holy Spirit through faith.

14 イエス・キリストを通じて、神さまはアブラハムに約束したのと同じ祝福をもって異邦人を祝福しました。それは信者である私たちが約束された聖霊を信仰によって受け取るためです。




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第3章です。

第3章は、第1節の「ああ愚かなガラテヤ人」から始まる、パウロがガラテヤの信者たちに呼びかける章です。

第1節、パウロは「誰があなたに邪悪な呪いをかけたのですか。」と書いた後、「なぜならイエス・キリストの死の意味は、あなた方が十字架でのイエスさまの死の絵を見たのと同じくらい、あなた方に明確にされたではないですか。」と続けます。これは興味深い記述です。ガラテヤの信者たちはパウロが滞在している間に、「イエス・キリストの死の意味」を「十字架でのイエスさまの死の絵を見たのと同じくらい」明確に知ったのです。「イエス・キリストの死の意味」は福音そのものであり、聖書の奥義であり、いま世界中で教会の牧師さんや宣教師の人たちによって述べ伝えられているメッセージです。私もひとりでも多くの方に福音の意味を知っていただくために、情報をブログに整理したり、メールマガジンを発行したりしています。しかし福音の意味、「イエス・キリストの死の意味」を説明することが回りくどくて難しいのは事実です。しかしパウロがこうして手紙に書いて送って来たものを読んで、ガラテヤの信者たちが「確かにそうだった」と思い起こせるのであれば、ガラテヤの信者たちにはパウロの滞在中に「イエス・キリストの死の意味」を明確に知る瞬間が確実にあったのです。それがいったいどのような瞬間だったのか、その詳細は手紙には書かれていません。

第2節、パウロは「あなた方にこれひとつを質問させてください。」と言い、対立する二つの概念として「律法に従うこと」と「キリストに関するメッセージを信じたこと」を出した上で、どちらによって「聖霊を受けたのですか」とききます。言うまでもなく「律法に従うこと」はパウロが去った後でエルサレムの教会から来た「ユダヤ主義」の人たちがガラテヤの信者たちに押しつけた旧約聖書の律法に沿って「割礼を受けること」を指しています。ここでまた興味深いのは、パウロがどちらによって「聖霊を受けたのですか」と書くところです。これもまたガラテヤの信者たちがここを読んで「聖霊を受けたのはあの瞬間だった」と思い出せる瞬間があったと言うことでしょう。クリスチャンとはイエスさまについての福音を信じることを自分の口で告白し、その瞬間にその人と神さまとの関係が修復され、罪による汚(けが)れがイエスさまの血によって洗い流され、身体に聖霊を受けて封印されている人のことです。しかしクリスチャンはいま自分の身体の中に聖霊がいることを明確に自覚することはできません。これはときにクリスチャンを「果たして本当に自分は救われているのだろうか」と不安にさせたりもします。しかし「Acts(使途の働き)」やパウロの書簡を読んでいくと、イエスさまの直弟子たちが生きていた時代の伝道活動では、信者に聖霊が訪れる様子が五感を通して互いに確認できたと思わせる箇所がたくさん出てきます。ここもその一つです。

第3節、パウロは「どうしてあなた方はあなた方自身の人間の努力で完璧になろうとするのですか。」と問います。人間が人間の努力で完璧になろうとする、苦行や修練を重ねて悟りの境地に至ろうとする、これが「宗教」です。人間は自分の力で完璧になることはできません。これは神さまの存在を無視することになりますから、神さまに対する裏切り、つまり「罪」なのです。

第4節にも、「あなた方があれほどの経験をしたのは無駄だったのですか。」と書かれています。果たしてガラテヤの信者たちが経験したもの、「あれほどの経験」とまで言える経験とはどんな経験だったのでしょうか。残念ながらこれもその内容が私たちに示されることはありません。

第5節、やはりここでも「律法に従うこと」と「キリストに関するメッセージを信じること」が対立させられています。そしてどちらを理由にして「神さまはあなた方に聖霊を与えるのか」と書かれています。さらにここでは聖霊を与えることと並列で、「あなた方の中で奇跡を行う」が書かれています。「Acts(使途の働き)」ではイエスさまから権限を与えられた使徒たちが、福音書の中でイエスさまがやったように病気の人や身体の不自由な人を癒やす様子、さらには死者をよみがえらせる様子までもが書かれていました。これらは周囲で見ている人たちが五感で体感できる驚くべき奇跡の技ですが、同じレベルの奇跡がガラテヤの信者たちの前で行われたとしたら、並列で書かれている「聖霊の訪れ」もそれと同じくらい劇的かつ感動的な出来事だったと言うことでしょうか。

ここからパウロは次々と旧約聖書を引用していきます。「ユダヤ主義」の人たちが旧約聖書に基づいて律法の遵守を異邦人に押しつけるのであれば、それがどれほど神さまの意図に反しているかを、パウロは同じ旧約聖書から引用して例証していくのです。第6節で、『アブラハムは神さまを信じ、アブラハムの信仰によって神さまはアブラハムを正しいとしました。』と書かれているのは、旧約聖書のGenesis 15:1-6(創世記第15章第1節~第6節)です。

「1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」([新改訳])。

高齢となったアブラハムは自分には子供がいないので、せっかく神さまが与えてくださる祝福もやがて自分とはまったく血縁関係のない奴隷のところへ行ってしまうのでしょうか、と神さまにききます。すると神さまはアブラハム自身から跡継ぎが生まれる、そこから連なる子孫は星の数ほどになる、と告げます。高齢のアブラハムと書きましたが、アブラハムが神さまに導かれてパレスチナを目指してハランを出発したときにはすでに75歳、奴隷のハガルにアラブ民族の祖となるイシュマエルが生まれたのは86歳のとき、そして正妻のサラにユダヤ民族の血筋となる跡継ぎが生まれると、神さまから告げられたのは99歳のときです。そういう高齢のアブラハムがやはり高齢のサラ(90歳)を持つような状態で、第6節、「彼は主を信じた」のです。そして神さまは「主はそれを彼の義と認められた」、つまりそれがアブラハムの正しいところだと認めました。100歳の夫と90歳の妻、そこに跡継ぎの子供が生まれると神さまは言います。まったく起こりそうもない、ありえないことだから奇跡なのです。アブラハムはそれを何も疑問も挟まず反論もせずシンプルに素直に信じました。神さまはそれを「正しい」としたのです。

第7節で、「だからアブラハムの本当の子供は神さまに信仰を持つ人たちです。」とした後で、第8節でパウロは神さまが異邦人を「正しい」とする時代が来ることは、旧約聖書の中で予見されていたとして、『すべての国民はあなたを通じて祝福されるようになる。』を引用します。これはGenesis 18:17-19(創世記第18章第17節~第19節)、神さまが邪悪なソドムとゴモラの町を壊滅させる前の部分です。

「17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」」([新改訳])。

パウロは第18節の「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」の部分が意味するのは、この時代から数千年を経て異邦人に福音が伝えられる日が来て、それを信じる異邦人を神さまが「正しい」とし、異邦人に祝福を与えることを予見していたのだと言うのです。そして第9節で、「だからキリストに信仰を持つすべての人が、信仰によってアブラハムが得たのと同じ祝福を分かち合うのです。」と続けます。

第10節は、概念で対立する反対側の人たち、「律法に頼って自分たちを神さまに対して正しくする人」は神さまの呪いの下に置かれる、と言います。それも聖書に書かれていると言うのです。これは「Deuteronomy(申命記)」の第28章のことではないかと思われます。ユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、パレスチナの地にまで導いてきたモーゼですが、彼はたったひとつの過ちで神さまの反感を買い、自分はパレスチナに入れないと言われてしまいます。「Deuteronomy(申命記)」はいよいよパレスチナへ入ろうとするユダヤ人たちを前にして、神さまが自分を通してユダヤ人たちに伝えてきた律法の数々を、モーゼが最後にまとめて伝える、贈る言葉のような本になっています。第28章はその贈る言葉もいよいよ終盤なのですが、第1節~第2節は「1 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」([新改訳])と始められて、ここから第14節まで祝福の数々が書き連ねられます。しかし第15節は「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」([新改訳])とし、第68節までずっと呪いの数々が延々と続きます。14節分の祝福に対して54節分、四倍近いの呪いが書き連ねられています。

実際にユダヤ人にはこの後何が起こったでしょうか。ユダヤ人は神さまから与えられた律法を守ることができません。旧約聖書はどれほどユダヤ人が神さまの期待を裏切り続けたかを書き綴った本と言っても過言ではないのです。結果としてユダヤ人は預言されたとおりに約束の地パレスチナから追い出され、パレスチナは異邦人により蹂躙され、再び戻ることが許されたパレスチナでも、このときにはローマ帝国という異邦人の支配の下に置かれる屈辱を味わうのです。ファリサイ派は聖書の先生を中心に構成される結社ですが、だから聖書を隅々まで勉強して自分たちこそは神さまの目に正しく映ることができるようにひたすら律法を守ろうとします。パウロはそのファリサイ派の出身で、自分は同胞の誰よりも律法の遵守に熱心だったと言っています。そのパウロがイエスさまに出会って福音の意味の啓示を受けたとき、聖書に隠されていた奥義に気づいたのです。「Deuteronomy(申命記)」はファリサイ派の大好きな本のはずです。第28章には祝福と呪いが書き連ねられています。だから祝福を得るために律法を守ろう、とファリサイ派は言いますが、パウロは第28章の第15節以降が目の前にある自分たちの現実だ、人はどれほど努力しても律法を守ることはできない、だから律法を追求する人は呪われる運命にある、と言うのです。

第11節、パウロは「 だから律法を守ろうと努力しても誰も神さまに対して正しいとされないことは明白です。」とした後で、聖書から『正しい人がいのちを持つのは信仰による。』を引用します。これはHabakkuk 2:4(ハバクク書第2章第4節)の「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」([新改訳])でしょうか。

第12節では、これを「信仰の道」として、聖書にある『人がいのちを持つのは律法の遵守による。』とはまったく違うと言います。これはLeviticus 18:4-5(レビ記第18章第4節~第5節~「4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。」([新改訳])からの引用でしょう。律法は律法を行う人はそれによって生きる、と書いて人を律法に縛り付けますから、信仰に生きる生き方とは根本的に違うのです。

第13節はイエスさまの十字架の意味を旧約聖書からの引用で行っています。イエスさまは私たちが神さまを裏切って呪いの状態にあったとき、その呪いをすべて自分で背負ってくださいました。パウロがその証明としてあげる句は『木に吊されるものはすべて呪われている。』だとします。これはDeuteronomy 21:22-23(申命記第21章第22節~第23節)です。「22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」([新改訳])。第23節の「木につるされた者は、神にのろわれた者」、この部分は十字架につるされたイエスさまが、このときに自身の身体で人間の罪を背負ったことの予告とします。

第14節、神さまはイエスさまを通じてアブラハムに約束したのと同じ祝福をもって異邦人を祝福したとあります。そしてそれは信者である私たちが約束された聖霊を律法の遵守や修行や修練などの善行ではなく、ただ「信仰」によって受け取るためだとします。






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ガラテヤ人への手紙第3章第15節~第29節:律法と神さまの約束、信仰を通じた神さまの子供

ガラテヤ人への手紙 第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



The Law and God’s Promise

律法と神さまの約束


15 Dear brothers and sisters, here’s an example from everyday life. Just as no one can set aside or amend an irrevocable agreement, so it is in this case.

15 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、日常の生活の中からひとつ例をあげます。取り消すことのできない契約を誰も破棄したり修正したりできないように、この場合もそうなのです。

16 God gave the promises to Abraham and his child. And notice that the Scripture doesn’t say “to his children,” as if it meant many descendants. Rather, it says “to his child” -- and that, of course, means Christ.

16 神さまはアブラハムとその子供に約束を与えました。注意してください。聖書は多くの子孫を意味するような「彼の子供たち」とは言っていません。代わりに聖書は「彼の子供」と言っています。それはもちろんキリストのことです。

17 This is what I am trying to say: The agreement God made with Abraham could not be canceled 430 years later when God gave the law to Moses. God would be breaking his promise.

17 これが私が言おうとしていることです。神さまがアブラハムと交わした契約は、430年後に神さまがモーゼに律法を与えても無効にはできないのです。神さまが約束を破ることになってしまいます。

18 For if the inheritance could be received by keeping the law, then it would not be the result of accepting God’s promise. But God graciously gave it to Abraham as a promise.

18 なぜならもし相続が律法を守ることで受け取れるのなら、それは神さまの約束を受けとることの結果にはなりません。神さまはそれを恵み深く約束としてアブラハムに与えたのです。

19 Why, then, was the law given? It was given alongside the promise to show people their sins. But the law was designed to last only until the coming of the child who was promised. God gave his law through angels to Moses, who was the mediator between God and the people.

19 ではなぜ律法は与えられたのでしょうか。律法は約束につけ加えて、人に罪を示すために与えられたのです。しかし律法は約束された子供が来るまで有効なように予定されていました。神さまは律法を天使を通じてモーゼに与え、モーゼは神さまと人の間の仲裁人でした。

20 Now a mediator is helpful if more than one party must reach an agreement. But God, who is one, did not use a mediator when he gave his promise to Abraham.

20 仲裁人は一人以上の関係者が契約に関わる場合には便利です。しかし神さまは一人であり、アブラハムに約束を与えたときには仲裁人を使いませんでした。

21 Is there a conflict, then, between God’s law and God’s promises? Absolutely not! If the law could give us new life, we could be made right with God by obeying it.

21 では神さまの律法と神さまの約束の間に対立はあるのでしょうか。もちろんありません。もし律法が私たちに新しいいのちを与えるなら、私たちはそれに従うことで神さまに対して正しいとされます。

22 But the Scriptures declare that we are all prisoners of sin, so we receive God’s promise of freedom only by believing in Jesus Christ.

22 しかし聖書は私たちが罪の囚人だと言います。だから私たちが神さまの自由の約束を受け取るのは、イエス・キリストを信じることを通じてだけなのです。



God’s Children through Faith

信仰を通じた神さまの子供


23 Before the way of faith in Christ was available to us, we were placed under guard by the law. We were kept in protective custody, so to speak, until the way of faith was revealed.

23 私たちにキリストへの信仰による道が示される前には、私たちは律法の監視下に置かれていました。私たちは信仰の道が明らかにされるまで、言わば保護監督下に置かれていたのです。

24 Let me put it another way. The law was our guardian until Christ came; it protected us until we could be made right with God through faith.

24 他の言い方で説明させてください。律法はキリストが来るまでの間、私たちの後見人だったのです。私たちが信仰によって神さまに正しくされるまで、律法が私たちを守っていたのです。

25 And now that the way of faith has come, we no longer need the law as our guardian.

25 そしていま信仰の道が現れました。私たちにはもはや後見人としての律法は不要です。

26 For you are all children of God through faith in Christ Jesus.

26 なぜならあなた方はみなキリスト・イエスへの信仰によって神さまの子どもだからです。

27 And all who have been united with Christ in baptism have put on Christ, like putting on new clothes.

27 そして洗礼でキリストと一体になった人はみな、新しい洋服を着るようにキリストをまといます。

28 There is no longer Jew or Gentile, slave or free, male and female. For you are all one in Christ Jesus.

28 ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、男も女もありません。なぜならあなた方はみなキリスト・イエスにあって一つだからです。

29 And now that you belong to Christ, you are the true children of Abraham. You are his heirs, and God’s promise to Abraham belongs to you.

29 そしてあなた方はキリストに所属し、あなた方はアブラハムの本当の子供です。あなた方はアブラハムの相続人であり、神さまのアブラハムへの約束は、あなた方のものです。




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第3章です。

第3章は、「ああ愚かなガラテヤ人」とパウロがガラテヤの信者たちに呼びかける言葉で始まり、第14節までの前半では「律法を守ること」と「信じること」が対比されました。アブラハムが「信じること」によって神さまから正しいとされたように、人はやはり信じることでアブラハムが神さまから受けたのと同じ祝福を受けることができるとパウロは言います。そして逆に人が律法に従うことで神さまの目に正しく映ることはないことを旧約聖書から引用して例証しました。

第15節からパウロは、神さまがアブラハムに与えた約束と律法の関係を説明していきます。「神さまがアブラハムに与えた約束」とはたとえば旧約聖書のGenesis 15:5(創世記第15章第5節) に書かれていた「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」であり、あるいはGenesis 18:18(創世記第18章第18節)の「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」です(いずれも[新改訳])。

第15節、パウロはこの神さまの約束は「取り消すことのできない契約」だと言います。一度成立したら誰も破棄したり修正できない類いの契約だと言うのです。

第16節、パウロは神さまがアブラハムに与えた約束はアブラハムと複数の子供にではなく、単数の子供に対してだったと言います。たとえばGenesis 17:7(創世記第17章第7節)には、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」([新改訳])と書かれていますが、これは[KJV]では「 And I will establish my covenant between me and thee and thy seed after thee in their generations for an everlasting covenant, to be a God unto thee, and to thy seed after thee.」となっていて、「子孫」の部分は「thy seed」(種)と単数形で書かれています。パウロはこの単数形の「子供」がイエス・キリストを指していると言います。

第17節、アブラハムの時代から430年を経て神さまはユダヤ人にモーゼを介して律法を与えましたが、神さまがアブラハムに与えた契約は「取り消すことのできない契約」なのだから、律法が与えられたからといってそれで約束を無効にすることは出来ない、約束は律法が与えられても相変わらず有効なのだと言います。

第18節、その理由は、もし人が律法を守ることによって神さまが約束したものを受け取れるのだとしたら、それは約束ではなくなってしまうからです。

第19節、だとしたらいったい律法とは何なのか、という話になります。まずパウロは律法は約束への「追加」だと言います。「追加」と言うのは律法が約束を置き換えるものとして与えられたのではなくて、約束は取り消すことの出来ないものとして相変わらず存在しながら、それに付け加えるものとして与えられたという意味です。そして律法の目的は人に「罪」を見せることにあるとパウロは言います。どのようなものが良くてどのようなものが悪いのか、善悪の判断基準となる律法が与えられたことで、人は自分が有罪か無罪かを判断することが出来るようになりました。律法はそうやって人に「罪」を見せる目的で与えられたのです。さらにパウロは律法は、約束された子供が来るまでの期間だけ有効なように、期間限定で与えられたのだと言います。「約束された子供」と言うのはイエスさまのことです。

第20節、パウロはモーゼを「仲裁人(mediator)」だと言います。「仲裁人」は二つ以上の当事者の間に入る人のことです。しかしアブラハムに約束を与えたときには、神さまは仲裁人を使わず、直接アブラハムに現れて約束を与えています。パウロはここに意味がある、と言います。

第21節、では約束と律法は対立関係にあるのか、とパウロは問いかけ、そんなことはない、と言います。もし律法に従うことで永遠のいのちがもらえるのなら(これはファリサイ派に代表されるユダヤ人が保守的に信じることです)、私たちは律法に従うことで神さまから「正しい」と言われることになります。

第22節、ところが人は律法を知るほど自分が神さまの期待に背いている、神さまから罪人に定められている、神さまの目に正しいと映っていない、と知ることになります。神さまがアブラハムに与えた約束を受け取るための条件は、ただひとつイエスさまを信じることだけなのです。

第23節、イエスさまへの信仰を通じた救済の道が示される日まで、人は律法という番人の保護監督下に置かれていた、とパウロは言います。

第24節、言い方を代えると律法は、イエスさまが現れる日まで私たちを守っていた後見人だと言います。律法が人を道から逸れないように守り、私たちを最終的にイエスさまの信仰へと引き渡したのです。律法という後見人がいたからこそ、私たちはイエスさまへの信仰の必要性を明確に理解することが出来るのです。

第25節、そしてイエスさまの福音が私たちに示されたいま、律法はその役目を終えて不要なものとなったと言います。

第26節、なぜならイエスさまへの信仰を表明した時点で、人は神さまの子供だからです。

第27節には、「洗礼でキリストと一体になった人」という言葉が登場しますが、この部分は[KJV]では「baptized into Christ」、[NLT]では「united with Christ in baptism」と書かれていて、これは教会などで行う儀式としての「洗礼」ではないと思います。「洗礼(baptize)」という言葉の語源は「浸(ひた)す」「液体の中に入れる」と言う意味ですが、つまり人はイエスさまへの信仰を告白することで、霊的にイエスさまに浸る、自分がイエスさまの中に水没するような状態となり、その霊的な状態を指して洗礼と言っているのだと思います。そしてイエスさまの中に浸った人は、まるで新しい洋服を着るように自分の身体にイエスさまをまとうのだと言います。イエスさまの中に水没したことで、自分がイエスさまの霊によってコーティングされているような状態でしょうか。

第28節、これにはユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、男も女も関係ないと言います。イエスさまの中にあっては、どのような人も変わらず一つなのです。

第29節、イエスさまを信仰することで人はイエスさまのもの、イエスさまに帰属するものとなります。と言うことはアブラハムへの約束が与えられる単数形の子供であるイエスさまに帰属するのですから、神さまがアブラハムに与えた約束はイエスさまのものであると同時に、イエスさまに帰属する人たちのものでもあるのです。






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2015年05月28日

ガラテヤ人への手紙:第4章

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ガラテヤ人への手紙第4章第1節~第20節:信仰を通じた神さまの子供(続き)、パウロのガラテヤ人についての気がかり

ガラテヤ人への手紙 第4章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



1 Think of it this way. If a father dies and leaves an inheritance for his young children, those children are not much better off than slaves until they grow up, even though they actually own everything their father had.

1 このように考えてみなさい。もし父親が死んで若い子供たちに遺産を残す場合、この子供たちは実際に父親が持っていたものをすべて持っているのに 、育つまでの間は暮らし向きは奴隷よりも少しも良くありません。

2 They have to obey their guardians until they reach whatever age their father set.

2 この子供たちは父親が定めた年齢までは後見人に従わなければなりません。

3 And that’s the way it was with us before Christ came. We were like children; we were slaves to the basic spiritual principles of this world.

3 私たちもキリストが来るまでの間は同じようなのです。私たちは子供のようでした。私たちはこの世界の基本的な霊的原理の奴隷だったのです。

4 But when the right time came, God sent his Son, born of a woman, subject to the law.

4 しかし適切な時が来て神さまは自分の息子を送りました。女性から生まれ、律法に従う者としてです。

5 God sent him to buy freedom for us who were slaves to the law, so that he could adopt us as his very own children.

5 神さまは律法の奴隷であった私たちの自由を買い取るために息子を送ったのです。そうやって神さまが私たちを自分の子供として養子にできるようにです。

6 And because we are his children, God has sent the Spirit of his Son into our hearts, prompting us to call out, “Abba, Father.”

6 そして私たちが神さまの子供であるが故に、神さまは息子の霊を私たちの心の中へ送り、その霊が私たちに「アバ、父よ」と呼ばせるのです。

7 Now you are no longer a slave but God’s own child. And since you are his child, God has made you his heir.

7 いまやあなた方は奴隷ではなく、神さま自身の子供です。そしてあなた方が神さまの子供であるが故に、神さまはあなた方を相続人としたのです。



Paul’s Concern for the Galatians

パウロのガラテヤ人についての気がかり


8 Before you Gentiles knew God, you were slaves to so-called gods that do not even exist.

8 あなた方異邦人が神さまを知る前は、あなた方は存在さえしない神と呼ばれるものの奴隷でした。

9 So now that you know God (or should I say, now that God knows you), why do you want to go back again and become slaves once more to the weak and useless spiritual principles of this world?

9 いまあなた方は神さまを知っています(あるいはいま神さまがあなた方を知っていると言うべきでしょうか)、それなのにどうしてあなた方はもう一度、弱くて役に立たないこの世界の霊的原理の奴隷に戻りたいのですか。

10 You are trying to earn favor with God by observing certain days or months or seasons or years.

10 あなた方は日と月と季節と年を守ることで神さまの好意を得ようとしています。

11 I fear for you. Perhaps all my hard work with you was for nothing.

11 私はあなた方のために心配しています。たぶんあなた方のための私の努力のすべてが無駄だったのです。

12 Dear brothers and sisters, I plead with you to live as I do in freedom from these things, for I have become like you Gentiles -- free from those laws. You did not mistreat me when I first preached to you.

12 親愛なる兄弟たち、そして姉妹たち、あなた方にお願いですから、そういうものから自由に生きている私のように生きて下さい。なぜなら私はあなた方異邦人と同じように律法から自由になったのです。私が初めてあなた方に話をしたとき、あなた方は私に酷いことをしませんでした。

13 Surely you remember that I was sick when I first brought you the Good News.

13 あなた方は私があなた方に最初に福音を伝えたときに私が病気だったのを覚えているでしょう。

14 But even though my condition tempted you to reject me, you did not despise me or turn me away. No, you took me in and cared for me as though I were an angel from God or even Christ Jesus himself.

14 私の身体の状態はあなた方に私を拒絶させるように誘惑したでしょうが、あなた方は私を嫌ったり追い払ったりしませんでした。あなた方は私を迎え、まるで私が神さまの天使か、あるいはイエス・キリスト自身であるかのように世話をしてくれました。

15 Where is that joyful and grateful spirit you felt then? I am sure you would have taken out your own eyes and given them to me if it had been possible.

15 あなた方があのときに感じた、あの喜びと感謝にあふれた心はどこにあるのですか。確かにあなた方はそれが可能なら自分たちの目を取り出して私に与えようとしたのです。

16 Have I now become your enemy because I am telling you the truth?

16 私があなた方に真実を語っているから、私はあなた方の敵になったのでしょうか。

17 Those false teachers are so eager to win your favor, but their intentions are not good. They are trying to shut you off from me so that you will pay attention only to them.

17 あの偽者の教師たちはしきりにあなた方の好意を得ようとしていますが、その目的はよろしくありません。彼らはあなた方を私から閉め出して、あなた方が彼らにだけ注意を向けるようにしているのです。

18 If someone is eager to do good things for you, that’s all right; but let them do it all the time, not just when I’m with you.

18 もし誰かがあなた方のために良いことをしたいと思っているのなら、それはけっこうなことです。しかしそれなら私があなた方と一緒にいるときだけでなく、ずっとやらせなさい。

19 Oh, my dear children! I feel as if I’m going through labor pains for you again, and they will continue until Christ is fully developed in your lives.

19 あぁ、私の愛する子どもたち。私は再びあなた方のために産みの痛みの中にいるかのようです。その痛みはキリストがあなたのいのちの中に十分に行き渡るまで続くのです。

20 I wish I were with you right now so I could change my tone. But at this distance I don’t know how else to help you.

20 私は私がいまあなた方といっしょにいて、私の語調を変えられたら良いのにと思います。しかしこれだけ遠くにいたら他にどうやったらあなた方を助けられるのかわからないのです。




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第4章です。

第4章はパウロの悲痛な懇願の章です。

第1節~第7節は第3章のまとめになっています。第3章では「律法」と「約束」が対比されて、神さまがアブラハムに与えた約束がどれほど覆すことのできない絶対的なものなのか、そして律法はその絶対的な約束に付け加える形で、私たちが罪人であることを明確にする目的で与えられたものに過ぎないと説明されました。そして約束されていた救世主イエスさまが訪れたことで律法はその役目を終え、これからはイエスさまへの信仰によって私たちは神さまの子供となる、と説明されました。

第1節からはパウロがこれを例をあげて説明します。

父親が財産を残して死んだときに相続を受ける子供が幼かった場合、財産の管理を後見人に任せた上で、たとえば成人など、遺言で定められた年齢に子供が達する日まで、その財産を凍結することができます。私たちはイエスさまが来るまでこのような状態だったというのです。私たちがイエスさまが到来するまで従っていた後見人として、第3節と第9節に「この世界の基本的な霊的原理(the basic spiritual principles of this world)」と言う言葉が出て来ます。これは恐らく私たちが一般に信じているものの総称でしょう。たとえば世の中の諸宗教とか、宇宙の秩序とか、母なる地球とか、そういう人々が信じがちなものの総称だと思います。

第4節~第5節、しかしいまから約二千年前に神さまはイエスさまを地上に送りました。神さまはイエスさまを私たちと同じようにマリヤと言う女性に出産させ、やはり私たちと同じように律法の下で生きる形で送りました。神さまは待望の救世主をヒーローのような姿で送ることはしなかったのです。それはなぜか。これは旧約聖書に預言として予告されていたことですが、そうすることでイエスさまは伝道活動の末に人々に拒絶され虐げられて十字架にかかることができたのです。そうやって自分の流す血によって私たちの罪を購うことが、私たちの罪の借金を帳消しにすることが、イエスさまの使命だったのです。

第6節、私たちがイエスさまへの信仰を表明することで、私たちの罪の汚(けが)れが洗い流され、神聖な神さまの子供として神さまに受け入れられたことで、神さまは私たちの身体にイエスさまの霊である聖霊を送り込むことができます。そして私たちの身体の中にいる聖霊が私たちに「アバ、父よ」と叫ばせるのです。「アバ」と言うのはイエスさまが福音書の中で神さまを呼んでいた呼称なのですが、これは気軽に父親に呼びかけるときの言葉のようです。しかし保守的なユダヤ人からしてみれば、神さまの名前を口に出すことさえ畏れ多くてはばかられると言うのに、その神さまに向かって「お父さん」とか「父ちゃん」とか「パパ」などと呼びかけるなど、まったくあり得ない、神さまへの大変な冒涜にあたることなのです。しかしイエスさまを信じ、身体に聖霊を受けた私たちは、神さまに向かって何の遠慮もなく「アバ、父よ」と呼びかけることができます。逆に「お父さん、お父さん」とお祈りをして、まとわりついてくる子供を神さまはかわいいと思うのです。

第7節、イエスさまを信じた私たちは神さまの子供であり、第3章に書かれていたように、神さまがアブラハムに与えたのと同じ祝福を相続することができます。

第8節~第10節、私たちが神さまを知るまで、私たちが福音を知るまでの間は、私たちは自分たちが信じると決めたものの奴隷だったのです。しかし私たちはイエスさまの福音により神さまとの関係を取り戻して自由になったのです。それなのにどうしてまた奴隷の状態に戻りたいのか、しかも弱くて何の役にも立たないようなつまらない諸原則の奴隷になりたいと言うのか、とパウロは力説します。これはつまり「この世界の基本的な霊的原理」、ユダヤ人から見れば異邦人の信じる邪教が、ユダヤ人が唯一の権威と信じるモーゼの律法とひとくくりにされているわけです。ユダヤ主義者たちがパウロを抹殺したいと思う理由もわかります。

第11節以降はパウロがガラテヤを訪問したときのことを思い出して書き、悲痛な懇願となっていきます。

第13節~第14節によるとパウロはこのとき何か病気にかかっていたようです。第15節を読むと、ガラテヤの人たちは自分の目をえぐり出してパウロにあげたいとまで思ったと書かれていますから、パウロは何か目の病気だったのかも知れません。おそらくこの病気のためにパウロはガラテヤに比較的長期に渡って足止めされことになり、結果としてガラテヤの人たちはパウロの説教にたくさん触れることができたのです。恐らく何か面倒な病気だったのでしょう。ガラテヤの人たちはそれを理由にパウロの受け入れを拒むこともできたのでしょうが、それをせずに温かく迎え入れ、パウロを熱心に世話したようです。困難に陥っていた自分にそんな風に親切にしてくれたガラテヤの人たちだからこそ、パウロには自分の子供のように愛おしいのです。

第17節、割礼を強制するユダヤ主義の教師たちはガラテヤの人たちの前でパウロを否定し、パウロとの関係を断たせようとしています。第18節、この教師たちの目的はパウロの教会からパウロを断つことだけにあるのです。恐らくパウロの足跡を辿り、パウロが開いた教会でモーゼの律法だけが真実であると説いてパウロが伝える福音を否定し、パウロが信仰に導いて神さまの下で自由になった信徒たちに再び律法の鎖を付けて歩いているのです。この人たちの目的はそれだけで信者たちを思う気持ちはありません。なので信者たちが割礼に応じれば去って行きます。

第19節~第20節、結局パウロは前回伝えた福音の意味をもう一度伝えています。これは前回伝えたときに味わった産みの苦しみと同じ苦しみなのです。遠方の地から手紙を送っているパウロは自分がいまガラテヤにいられたらどんなに良いか、そうすれば怒ったり懇願したり変な語調の手紙を送らなくても自分の口で切々と伝えることができるのに、と言います。






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