ガラテヤ人への手紙

2015年05月31日

ガラテヤ人への手紙:はじめに

ガラテヤ人への手紙


はじめに
第01章   第02章   第03章   第04章   第05章
第06章
全体目次




新約聖書の「Acts(使徒の働き)」はイエスさまが十字架死から復活後に天に戻られた後で、使徒たちがどのように福音を広めていったかを書いた本で、その中で特にパウロの活動を詳しく取り扱っていました。

「Acts(使徒の働き)」の中でパウロは伝道の旅を三回行った後、最後にローマへ護送されています。新約聖書にはパウロがこれらの伝道の旅の途中で自分が開いた、あるいは自分が関与した教会の信者たちに宛てて送った手紙がいくつか収められています。「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」はそのうちのひとつです。日本語の本のタイトルの「ガラテヤ人」の中にある「人」は「じん」ではなく「ひと」と読みます。つまり「ガラテヤびとへの手紙」と読みます。

手紙は「ガラテヤの教会」へ宛てられています。手紙の冒頭に宛て先として書かれている教会は英語では「churches」と複数形なので、正確には「ガラテヤの教会群」「ガラテヤの諸教会」へ宛てられています。

では「ガラテヤ」とはどこのことでしょうか。パウロは最初の第一回の伝道旅行でバルナバを伴い、当時の活動拠点であるシリアのアンテオケを船で出発し、キプロス島を経て、「小アジア」と呼ばれるアジアの西端、現トルコ共和国の大部分を占める地中海と黒海に挟まれた半島部分の南にあるペルガに上陸します(「小アジア」は別名「アナトリア」とも呼ばれます)。一行はそこから半島を北上し、ピシディア地方のアンテオケで東に折れて、ルカオニア地方のイコニウム、リステラ、デルベと進みます。これらの都市はローマ帝国の「ガラテヤ州」に所属しますので「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」はこれらの都市の教会に宛てられた手紙であろうというのが一つの説です。

下の地図ではパウロの第一回目の伝道旅行は、黒い線で表されています(地図は『New Illustrated Bible Dictionary』より)。

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別の説は、この手紙の宛先は「ガラテヤ州」の教会ではなく、「ガラテヤ地方」の教会だとします。第一回目の伝道旅行の旅程の諸都市は「ガラテヤ州」の中のピシディア地方とルカオニア地方ですが、「ガラテヤ州」の中の「ガラテヤ地方」は小アジアをさらに北へ進んだ現在のアンカラを中心としたあたりを言うようです。

パウロとバルナバは「Acts(使徒の働き)」の第15章の終わりで仲違いをしています。それで第二回の伝道旅行では、パウロはバルナバではなく、シラスを同行しました。この旅行ではシリアのアンテオケから陸路をとり、タルソ、デルベ、リステラと進み、ここでテモテを加えます。一行はイコニウム、ピシディア地方のアンテオケと進んだ後、そのまま西に進むことができずに進路を北へ取ります。Acts 16:6-8(使徒の働き第16章第6節~第8節)です。

「6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。」([新改訳])。

このときに通ったのが「ガラテヤ州」の北部にある「ガラテヤ地方」で、「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」は、この地方の教会に宛てた手紙であろうという説です。

上の地図ではパウロの第二回目の伝道旅行は、緑の線で表されています。

「Acts(使徒の働き)」の中で、記述者のルカはアンテオケの教会とエルサレムの教会の会議を第一回と第二回の伝道旅行の間に位置づけていて、この会議が西暦50年前後と推定されます。と言うことは、いずれの説を採っても「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」もやはり西暦50年前後に書かれた手紙となり、これが新約聖書に納められた文献の中で一番最初に書かれた部分なのです。ちなみに最初の福音書である「Mark(マルコの福音書)」が書かれたのは西暦55~65年の間と想定されています。

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の内容は警告です。「Acts(使徒の働き)」の中でパウロはずっとユダヤ人に命を狙われていました。このパウロの殺害を企てたユダヤ人たちはユダヤの律法の遵守に熱心な人たちです。ユダヤの律法の遵守に熱心な人たちと言われて私たちが想像するのはファリサイ派ですね。パウロはイエスさまに呼ばれて使徒となる前に何をしていたでしょうか。パウロはイエスさまに会うまでは実はファリサイ派に所属し、急先鋒としてクリスチャンを見つけ出しては逮捕し、投獄し、ときには死に追いやっていました。その目的でわざわざ国外のシリアのダマスコへ行き、ダマスコのクリスチャンを迫害しようと計画していたその旅の途中でイエスさまに会ったのです。つまりパウロは以前の自分がやっていたのとまったく同じように、今度はイエスさまを救世主とする信仰を世の中に伝える伝道師として、ユダヤ人の保守派集団から命を狙われる側になったのです。

クリスチャンはなぜユダヤ人から命を狙われたのでしょうか。パウロはイエスさまの福音を受け入れるのに条件は何もない、私たち人間の側から差し出すものは何もない、ただイエスさまを救世主として信じて自分の口で信仰を告白すれば誰でも救われる、と説きました。これが新約聖書に書かれている私たちの信じる福音です。

パウロはユダヤ人の教師として伝道の旅を行い、新しい町に入るとまず最初にユダヤ人の集まる会堂へ行って福音を説きました。ユダヤ人たちに向かってイエスさまを救世主として信じることが神さまの意図に沿うことだと説いたのです。これは神さまの目に正しく映るためには、神さまがユダヤ人に与えた「律法」を守ることが第一である、と信じるユダヤ人には到底受け入れられない教えでした。

旧約聖書の律法は、律法に逆らう教えを説くような教師は殺すように命じています。だからパウロもかつてはクリスチャンを迫害すること、場合によっては殺すことが神さまの意志に沿うと信じて実行していました。パウロの命を狙うユダヤ人が特別に過激なわけではなく、彼らは純粋にユダヤ教を信じている人たちなのです。

三回の伝道旅行を含むパウロの伝道活動は、最初にエルサレムの教会からシリアのアンテオケを訪れたバルナバが、キリキヤ州のタルソからパウロを連れてきてスタートします。バルナバを送り出したエルサレムの教会は、イエスさま本人と実際に伝道活動を共にした直弟子の使徒たちと、イエスさまの弟で「義人」と呼ばれたヤコブを中心とする教会でした。

このエルサレムの教会はもともとイスラエルに住んでいたユダヤ人が中心の教会です。ファリサイ派に代表されるユダヤの律法遵守を追求するユダヤ社会の中心に位置するわけですから、真っ向からユダヤ社会と対立する形ではなく、ユダヤ社会と融合するような形で存続していました。ここに「ユダヤ主義」が登場します。

「ユダヤ主義」はエルサレム教会で生まれた、ユダヤ律法とイエスさまの福音の複合の産物です。パウロとバルナバがアンテオケの教会で福音を伝え、多くの異邦人がそれを信じて教会に加わるようになると、エルサレムの教会では福音に条件を付けました。これを「ユダヤ主義」と呼びます。ユダヤ主義は異邦人がクリスチャンになるためには、その前提としてその異邦人がまずユダヤ人になる必要があると教えます。具体的には旧約聖書の律法に記されている「割礼」の儀式を行って、異邦人が律法上のユダヤ人とならなければいけない、と教えたのです。 (割礼は男性性器の包皮を切除する儀式です。)

パウロにとって「ユダヤ主義」は最大の敵で、パウロはこれに激しく反論しました。西暦50年にエルサレムで会議が開かれたのも、第二回の伝道旅行の前にパウロとバルナバが仲違いしたのも、その理由は「ユダヤ主義」の問題なのです。

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」が送られたガラテヤの教会では、パウロがイエスさまの福音を説いてそこに教会を誕生させましたが、パウロが去った後に「ユダヤ主義」を唱えるユダヤ人たちがやって来て、パウロが説いたのとは異なるキリスト教を吹き込みました。そして信者たちはそちらの思想へと染まっていきます。パウロはこれを伝え聞いて憤慨し、ガラテヤの教会に警告の手紙を送るのです。


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ガラテヤ人への手紙:第1章

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ガラテヤ人への手紙第1章第1節~第24節:パウロからのあいさつ、福音はただひとつ、パウロのメッセージはキリストから来る

ガラテヤ人への手紙 第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Greetings from Paul

パウロからのあいさつ


1 This letter is from Paul, an apostle. I was not appointed by any group of people or any human authority, but by Jesus Christ himself and by God the Father, who raised Jesus from the dead.

1 この手紙は使徒パウロからです。私は人のグループや人間の権限によって指名されたのではありません。イエス・キリスト自身と、イエスさまを死者から復活させた父なる神さまから指名されました。

2 All the brothers and sisters here join me in sending this letter to the churches of Galatia.

2 ここにいるすべての兄弟と姉妹が、ガラテヤの教会へ宛てたこの手紙に加わっています。

3 May God the Father and our Lord Jesus Christ give you grace and peace.

3 どうか父なる神さまと主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にありますように。

4 Jesus gave his life for our sins, just as God our Father planned, in order to rescue us from this evil world in which we live.

4 イエスさまは、私たちの父なる神さまの計画されたとおりに、私たちを、私たちの住むこの邪悪な世から救い出すため、私たちの罪のために自身のいのちを与えました。

5 All glory to God forever and ever! Amen.

5 すべての栄光が永遠に神さまにありますように。アーメン。



There Is Only One Good News

福音はただひとつ


6 I am shocked that you are turning away so soon from God, who called you to himself through the loving mercy of Christ. You are following a different way that pretends to be the Good News

6 私は、救世主の恵みを通じてあなた方を神さまへと呼んでくださった神さまから、あなた方がそんなにも早く顔を背けることにあきれています。あなた方は福音のふりをした別の道に従っているのです。

7 but is not the Good News at all. You are being fooled by those who deliberately twist the truth concerning Christ.

7 それはまったく福音ではありません。あなた方はキリストについての真実を故意にねじ曲げようとする人たちにだまされているのです。

8 Let God’s curse fall on anyone, including us or even an angel from heaven, who preaches a different kind of Good News than the one we preached to you.

8 私たちであろうと天からの天使であろうと、私たちがあなた方に伝えた福音とは異なる福音を伝える者には誰にでも神さまの呪いがあるように。

9 I say again what we have said before: If anyone preaches any other Good News than the one you welcomed, let that person be cursed.

9 私たちが前に言ったことを繰り返します。もし誰かが、あなた方が歓迎した福音とは別の福音を伝えるなら、その者は呪われなさい。

10 Obviously, I’m not trying to win the approval of people, but of God. If pleasing people were my goal, I would not be Christ’s servant.

10 明らかなことですが、私は人間の承認を求めようとしているのではありません。神さまの承認です。人間を喜ばせることが私の目的ならば私はキリストのしもべではありません。



Paul’s Message Comes from Christ

パウロのメッセージはキリストから来る


11 Dear brothers and sisters, I want you to understand that the gospel message I preach is not based on mere human reasoning.

11 兄弟たち、そして姉妹たち、私があなた方に理解してもらいたいのは、私が伝えた福音のメッセージは単なる人間の論理に基づくものではありません。

12 I received my message from no human source, and no one taught me. Instead, I received it by direct revelation from Jesus Christ.

12 私のメッセージは人間の情報源から出たものではありませんし、誰も私に教えた人はいません。そうではなくて私はそれをイエス・キリストからの直接の啓示によって受けたのです。

13 You know what I was like when I followed the Jewish religion -- how I violently persecuted God’s church. I did my best to destroy it.

13 あなた方は私がユダヤ教に従っていたときの様子を知っています。私がどれほど激しく神さまの教会を迫害していたか。私はそれを滅ぼすために全力を尽くしていました。

14 I was far ahead of my fellow Jews in my zeal for the traditions of my ancestors.

14 父祖たちの伝統への情熱では私はユダヤの同士たちよりもはるかに進んでいたのです。

15 But even before I was born, God chose me and called me by his marvelous grace. Then it pleased him

15 ですが私が生まれるよりも前に神さまは私を選び、神さまの驚くべき恵みによって私を呼んだのです。そして神さまを喜ばせたのは、

16 to reveal his Son to me so that I would proclaim the Good News about Jesus to the Gentiles. When this happened, I did not rush out to consult with any human being.

16 私がイエスさまに関わる福音を異邦人に宣言できるように、神さまの息子を私に明かすことだったのです。これが起こったとき、私は急いで誰か人間と相談するようなことはしませんでした。

17 Nor did I go up to Jerusalem to consult with those who were apostles before I was. Instead, I went away into Arabia, and later I returned to the city of Damascus.

17 また私より前に使徒であった人たちと相談するためにエルサレムに上ることもしませんでした。代わりに私はアラビヤへ行き、後にダマスコの町へ戻りました。

18 Then three years later I went to Jerusalem to get to know Peter, and I stayed with him for fifteen days.

18 それから三年後に私はペテロと知り合いになるためにエルサレムへ行き、彼のところに十五日間滞在しました。

19 The only other apostle I met at that time was James, the Lord’s brother.

19 そのときに私が会った使徒は主の兄弟のヤコブただひとりです。

20 I declare before God that what I am writing to you is not a lie.

20 私は神さまの前で宣言しますが、私があなた方に書いていることは嘘ではありません。

21 After that visit I went north into the provinces of Syria and Cilicia.

21 その訪問の後で、私は北のシリヤとキリキヤの地方に行きました。

22 And still the churches in Christ that are in Judea didn’t know me personally.

22 そして相変わらずユダヤにあるキリスト教会は私のことを知りませんでした。

23 All they knew was that people were saying, “The one who used to persecute us is now preaching the very faith he tried to destroy!”

23 彼らが知っていたのは、人々が「以前私たちを迫害していた者が、その滅ぼそうとしていた信仰そのものをいま伝えている」と言っていたということだけです。

24 And they praised God because of me.

24 彼らは私のことで神さまを褒め称えていました。




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第1章です。

第1節、最初の自己紹介で、パウロは自分が福音を伝える使徒となったのはイエスさまと神さまの指名によるのであって、人から指名されたのではないと書きます。これは間接的に自分は直接神さまから使命を受けて活動しているのであって、エルサレムやアンテオケの教会との利害関係がまったくないと言っているのです。

第6節、パウロはガラテヤの教会がそんなに早く神さまから背を向けたことに驚いていると書きます。そして「あなた方は福音のふりをした別の道に従っている」と言います。 この「別の道」は、エルサレムの教会から派遣されたユダヤ人が説く教えのことで、異邦人がクリスチャンになるためには、まず旧約聖書の律法が定める「割礼」を受けてユダヤ人となる必要があると教える「ユダヤ主義」のことです。福音に何かの条件がついてしまったらそれはもはや福音ではありません。神さまは人が救済計画としての福音をただ信じることを喜ばれるのであって、律法の遵守など人が善だと信じて行う行動の類いを喜ばれるのではありません。

第10節、パウロの活動は誰か人の承認を求めようとして、たとえばエルサレムの長老たちの目に喜ばしく映ることを目的にしてやっているのではなくて、自分はただ神さまの目に正しく映るためにやっていると言います。

第11節~第12節、パウロは自分の教えは人間から出たものではない、誰かから教わったものではない、具体的にはエルサレムの長老たち、使徒たちから受けたものではないと言います。パウロはイエスさまから直接啓示を受けて福音を伝えているのです。

第13節~第14節、パウロは読み手に自分がイエスさまに会う前はどんなだったか、その様子を思い起こさせます。パウロはユダヤの律法、文化、伝統を守るための情熱では同胞の誰にも負けていなかった、と言います。

第15節、ところがパウロはイエスさまと出会って知ったのです。パウロは啓示の中でイエスさまから直接教えていただいたのです。それは実は自分が生まれる前から神さまによって選び分けられていて、時が来たら神さまは自分にイエスさまに関する福音を伝え、それを人々に運ばせる器とする計画だったのです。パウロがかつて同胞の誰よりも熱くユダヤの伝統を守ることに従事させられたのも、すべて神さまの計画のうちにあったのです。そういう立場から転じてイエスさまの福音を伝える使徒となったからこそ、エルサレムの教会から来て「ユダヤ主義」を伝えるユダヤ人たちの間違いや危険が手に取るようにわかります。何を認めて良くて何を認めてはいけないか、パウロにはそれが明確にわかるのです。だからパウロはわずかな妥協も許すことなく徹底的に「ユダヤ主義」に反対することが出来るのです。

第16節~第17節、パウロはイエスさまの啓示を受けた後、イエスさまの直弟子である使徒を含む誰とも相談することなく、まずアラビヤへ行ったと書かれています。詳細は書かれていませんが、想像できるのはパウロは旧約聖書の預言者たちがそうしたように、アラビヤで山へ登るか荒野へ出るかして、そこでひとり神さまと会話をしたのだろうと思います。

第18節~第19節、パウロはアラビヤからダマスコへ戻ったあとでエルサレムを訪ね、ペテロの家に15日間滞在したと書いています。これは自分がイエスさまの啓示を受けて使徒となった以上、一度イエスさまの直弟子の筆頭であるペテロに会い、イエスさまの伝道活動の詳細を取材する必要を感じたからでしょうか。パウロはイエスさまが言ったことや実践したことをペテロから聞き出し、自分の受けた啓示に照らし合わせて確認したのだろうと思われます。第19節には、そのときにエルサレムで会った使徒は、ペテロの他にはイエスさまの弟のヤコブだけだったと書かれています。

第21節~第24節、パウロはその後、シリアのアンテオケを中心にシリアやキリキヤで伝道活動を行いますが、この活動についてはエルサレムの教会はほとんど知らず、ただそんな人がいると言って自分を褒め称えていただけだと書いています。






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2015年05月30日

ガラテヤ人への手紙:第2章

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ガラテヤ人への手紙第2章第1節~第21節:使徒たちがパウロを受け入れる、パウロがペテロと対立する

ガラテヤ人への手紙 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Apostles Accept Paul

使徒たちがパウロを受け入れる


1 Then fourteen years later I went back to Jerusalem again, this time with Barnabas; and Titus came along, too.

1 それから十四年後、私は再びエルサレムへ戻りました。このときはバルナバと一緒で、テトスも一緒に来ました。

2 I went there because God revealed to me that I should go. While I was there I met privately with those considered to be leaders of the church and shared with them the message I had been preaching to the Gentiles. I wanted to make sure that we were in agreement, for fear that all my efforts had been wasted and I was running the race for nothing.

2 私が行ったのは神さまが行くべきだと私に明かされたからです。私がエルサレムにいた間に、私はひそかに教会の指導者と目される人たちと会い、私は彼らに私が異邦人たちに伝えてきたメッセージを話しました。私は私たちが一致していることを確認したかったのです。私は私のすべての努力が無駄となり、私が走っている競走で得るものが何もないことを恐れていました。

3 And they supported me and did not even demand that my companion Titus be circumcised, though he was a Gentile.

3 彼らは私を支持し、私の仲間のテトスに割礼を施すように要求することさえしませんでした。テトスはギリシヤ人だったのに。

4 Even that question came up only because of some so-called believers there -- false ones, really -- who were secretly brought in. They sneaked in to spy on us and take away the freedom we have in Christ Jesus. They wanted to enslave us and force us to follow their Jewish regulations.

4 その問題が浮上したのだって、そこに居たいわゆる信者と呼ばれる人たちのせいなのです。彼らは実際はにせ者です。密かに送り込まれていたのです。彼らは私たちを監視して私たちがイエス・キリストの中に持つ自由を奪い取るためにこっそりと入り込んでいたのです。彼らは私たちを奴隷にして、ユダヤの規則に従わせたかったのです。

5 But we refused to give in to them for a single moment. We wanted to preserve the truth of the gospel message for you.

5 私たちはほんの一時も彼らに譲歩することを拒みました。私たちはあなた方のための福音のメッセージの真実を守りたかったのです。

6 And the leaders of the church had nothing to add to what I was preaching. (By the way, their reputation as great leaders made no difference to me, for God has no favorites.)

6 そして教会の指導者たちが、私が伝えてきたことに付け加えることは何もありませんでした。(ところで偉大な指導者であるという彼らの評判は私には何も関係ありませんでした。神さまは分け隔てをしません。)

7 Instead, they saw that God had given me the responsibility of preaching the gospel to the Gentiles, just as he had given Peter the responsibility of preaching to the Jews.

7 代わりに指導者たちは神さまが私に異邦人へ福音を伝える任務を与えていることを知りました。神さまがペテロにはユダヤ人へ伝える任務を与えたようにです。

8 For the same God who worked through Peter as the apostle to the Jews also worked through me as the apostle to the Gentiles.

8 それはペテロを通してユダヤ人への使徒として働きかけたのと同じ神さまが、私を通して異邦人への使徒として働きかけたからです。

9 In fact, James, Peter, and John, who were known as pillars of the church, recognized the gift God had given me, and they accepted Barnabas and me as their co-workers. They encouraged us to keep preaching to the Gentiles, while they continued their work with the Jews.

9 実際のところ教会の柱として知られるヤコブ、ペテロ、ヨハネは神さまが私に与えてくださった贈り物を認めて、バルナバと私を彼らの協力者として受け入れてくれました。彼らは彼らがユダヤ人たちへの仕事を続ける一方で、私たちが異邦人たちへ伝える仕事を続けるようにと励ましてくれました。

10 Their only suggestion was that we keep on helping the poor, which I have always been eager to do.

10 彼らがただひとつ提案したのは私たちが貧しい人たちを助けるのを続けることでしたが、それは私がいつも熱心にしてきたことです。



Paul Confronts Peter

パウロがペテロと対立する


11 But when Peter came to Antioch, I had to oppose him to his face, for what he did was very wrong.

11 ところがペテロがアンテオケに来たとき、私は彼に面と向かって反対しなければなりませんでした。それは彼がしたことが大変間違っていたからです。

12 When he first arrived, he ate with the Gentile believers, who were not circumcised. But afterward, when some friends of James came, Peter wouldn’t eat with the Gentiles anymore. He was afraid of criticism from these people who insisted on the necessity of circumcision.

12 ペテロが最初に到着したとき、彼は割礼を受けていない異邦人の信者と一緒に食事をしたのです。しかし後にヤコブの友人たちが何人か来ると、ペテロは異邦人と一緒に食事をしようとしませんでした。ペテロは割礼の必要を説くこの人たちからの批判を恐れていたのです。

13 As a result, other Jewish believers followed Peter’s hypocrisy, and even Barnabas was led astray by their hypocrisy.

13 結果として他の信者たちもペテロの偽善的な行為に従い、バルナバまでもが彼らの偽善によって道から逸らされてしまいました。

14 When I saw that they were not following the truth of the gospel message, I said to Peter in front of all the others, “Since you, a Jew by birth, have discarded the Jewish laws and are living like a Gentile, why are you now trying to make these Gentiles follow the Jewish traditions?

14 私は彼らが福音のメッセージの真実に従っていないことを知ると、私は他の全員がいる前でペテロに言いました。「あなたは生まれながらのユダヤ人でありながらユダヤの律法を棄てて異邦人のように生活していると言うのに、なぜいまあなたはこの異邦人たちをユダヤの伝統に従わせようとするのですか。

15 “You and I are Jews by birth, not ‘sinners’ like the Gentiles.

15 あなたと私は生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のようないわゆる「罪人」ではありません。

16 Yet we know that a person is made right with God by faith in Jesus Christ, not by obeying the law. And we have believed in Christ Jesus, so that we might be made right with God because of our faith in Christ, not because we have obeyed the law. For no one will ever be made right with God by obeying the law.”

16 しかし私たちは人が律法に従うことではなく、イエス・キリストへの信仰によって神さまから正しいとされると知っています。そして私たちがイエス・キリストを信じたのは、私たちのキリストへの信仰によって神さまから正しいとされるためであって、私たちが律法に従ったからではありません。なぜなら律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいないからです。

17 But suppose we seek to be made right with God through faith in Christ and then we are found guilty because we have abandoned the law. Would that mean Christ has led us into sin? Absolutely not!

17 しかし私たちがキリストへの信仰を通じて神さまから正しいとされることを求めながら、私たちが律法を棄てたことで罪に定められると想像してみなさい。それではキリストが私たちを罪へ導いたことになりませんか。そんなことは絶対にありえません。

18 Rather, I am a sinner if I rebuild the old system of law I already tore down.

18 もし私が一度は破壊した古い律法のシステムを建て直すとしたら、そのときこそ私は罪人です。

19 For when I tried to keep the law, it condemned me. So I died to the law -- I stopped trying to meet all its requirements -- so that I might live for God.

19 なぜなら私が律法を守ろうとしていたときには律法が私を有罪に定めました。だから私は律法に死んだのです。私は律法のあらゆる要求を守る努力をやめました。それは私が神さまのために生きるためです。

20 My old self has been crucified with Christ. It is no longer I who live, but Christ lives in me. So I live in this earthly body by trusting in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

20 私の古い自分はキリストとともに十字架にかけられました。生きているのは私ではなく、私の中にキリストが生きているのです。だから私は私を愛し、私のためにご自身を与えた神さまの息子を信じることで、この地上の肉体の中に生きています。

21 I do not treat the grace of God as meaningless. For if keeping the law could make us right with God, then there was no need for Christ to die.

21 私は神さまの恵みを意味のないものとしません。なぜならもし律法を守ることが私たちを神さまに対して正しくするのなら、キリストは死ぬ必要がありませんでした。」




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第2章です。

第1節は「それから十四年後」と始まっています。この14年間の間に何があったでしょうか。 第1章によると、パウロはファリサイ派の急先鋒としてキリスト教徒迫害の目的でシリヤのダマスコに向かう途上でイエスさまに出会い、使徒とされました。 パウロはそれからアラビヤへ行きます。恐らくイエスさまからの啓示を受けたパウロは、旧約聖書の預言者たちのようにアラビヤの地で山に登るか荒野に出るかして神さまと一対一の対話をしたのだと想像します。それからパウロはダマスコに戻った後、三年後に一度エルサレムに行ってペテロに会っています。エルサレムでは15日間をペテロと共に過ごしたと書いてあります。このときには恐らくパウロからペテロからイエスさまの伝道活動の一部始終についての話を聞いたのだと思います(この時点では「福音書」は存在しません)。

このときの様子はActsの第9章に書かれている部分だと思います。Acts 9:26-28(使徒の働き第9章第26節~第28節)です。「26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。」([新改訳])。パウロはファリサイ派の急先鋒として恐れられていたはずが、これをエルサレムの弟子たちに引き合わせたのはバルナバでした。パウロはこのときにペテロの他にイエスさまの弟でエルサレムの教会でリーダーを務めていたヤコブにも会っています。

パウロはその後、シリヤとキリキヤで活動します。Acts 9:30(使徒の働き第9章第30節)には「兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。」([新改訳])とパウロをエルサレムから脱出させた下りが書かれていて、この中のタルソはパウロの生まれ故郷のキリキヤ州にある町です。シリヤにはアンテオケがあります。パウロをタルソからアンテオケへ連れてきたのはまたもやバルナバでした。Acts 11:25-26(使徒の働き第11章第25節~第26節)です。「25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」([新改訳])。

アンテオケでの活動が14年間の大半を占めると思われます。先ほどの引用の最後に「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」とあるように、パウロとバルナバの活動でアンテオケの教会は大きく育ち、イエスさまを信仰する信者に「クリスチャン」という名前が与えられて認知されるほどになったのです。またこの14年の間にパウロはバルナバと共に第一回の伝道旅行を行っています。シリアのアンテオケを船で出発し、キプロス島を経て、「小アジア」と呼ばれる地中海と黒海に挟まれた半島部分の南にあるペルガに上陸します。そこから半島を北上し、ピシディア地方のアンテオケで東に折れて、ルカオニア地方のイコニウム、リステラ、デルベへと進みました。復路は同じ道を引き返します(キプロス島は経由しない)。

下の地図ではパウロの第一回目の伝道旅行は、黒い線で表されています(地図は『New Illustrated Bible Dictionary』より)。

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ここまでが私たちが想像できる「それから十四年後」までの間に起こった出来事です。今回の第1節~第10節はパウロが再びエルサレムへ行ったときの様子を書いています。バルナバとテトスが同行しています。テトスは第3節によるとギリシヤ人、つまり異邦人の信者ですからユダヤ主義の問題を浮き彫りにします。第2節にはパウロは神さまの啓示を受けてエルサレムへ行ったと書かれていますが、教会に忍び寄るユダヤ主義問題解決のために行ったのでしょう。エルサレムでは名前の挙がっているヤコブ、ペテロ、ヨハネの指導者たちはパウロを支持し、第6節にはパウロが伝えている福音のメッセージについて付け加えることは何もないと彼らから言われたとあります。しかし教会にはユダヤ主義者が入り込んでいるのです。パウロはこの人たちを「いわゆる信者と呼ばれる人たち(so-called believers)」とか「にせ者(false ones)」と呼んでいて、信者とは認めていません。ちなみにエルサレムの教会の指導者の三人の最後に書かれている「ヨハネ」は、ガリラヤの漁師ゼベダイの息子のヨハネである可能性もあるし、ヨハネの福音書の中で自身を「イエスさまが愛した弟子」と呼んでいた別のヨハネの可能性もあります。

さてActs(使徒の働き)では第一回と第二回の伝道旅行の間にエルサレムで会合があり(「エルサレム会議」と呼ばれる)、記述によるとエルサレムの教会はパウロと合意しますが、信者が守るべきルールとして「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」との手紙をアンテオケの教会宛てに送りました。しかしパウロの話ではエルサレムの教会は「貧しい人たちを助けるのを続けること」を提案しただけなので、ここは記述が食い違います。「Acts(使徒の働き)」側にある信者が守るべきルールは、パウロが教えていることに「付け加え」を行うことになります。パウロは福音については「ほんの一時も譲歩することを拒んだ」くらいなのですから、パウロの居る場所でこのような手紙が書かれること、その手紙を携えたバルサバと呼ばれるユダおよびシラスがアンテオケへ戻るパウロの旅に同行することは考えられません。

私たちもこの手紙を読んでパウロがどういうスタンスで何に反対したのかを心に刻み、自分の信仰の中に、自分が考えた何かしらの善行を優先するような部分が入り込んでいないか、よく検証するのが良いと思います。パウロがいのちをかけて守った福音の自由を私たちが2000年後に歪めてしまってはいけません。

第11節~第21節はアンテオケで起こった事件の記述です。

先にアンテオケを訪問していたペテロはパウロたちと共に、異邦人と食卓を共にしていました。異邦人と食卓を共にする行為は旧約聖書の律法では「汚(けが)れ」を招く行為としてユダヤ人から避けられています。ペテロは最初は異邦人と食事をしていたのに、「ヤコブの友人」と称してエルサレムからアンテオケへやって来たユダヤ主義者たちが合流し、この人たちがユダヤ教の観点から律法に反する異邦人との交わりを否定し始めると、ペテロはとたんにグラグラしてパウロたちと食事を共にしなくなるのです。そしてペテロがグラグラすると、同じくエルサレムから来たバルナバまでもがグラグラして道を外れてしまいます。「Acts(使徒の働き)」では第二回目の伝道旅行のはじめでパウロとバルナバが仲違いをして別行動を取るようになります。「Acts(使徒の働き)」にはその原因がヨハネ・マルコを伴うかどうかだと書かれていましたが、真の原因はユダヤ主義にあると見るのが正しいでしょう。第二回目の伝道旅行でパウロはバルナバがヨハネ・マルコを連れて行くことに強く反対します。このヨハネ・マルコは第一回目の伝道旅行の途中で離脱しているのですが、もしかするとその理由はパウロがイエスさまへの信仰を告白した異邦人を、いとも簡単に信者として同胞に取り込んでいくことに、ユダヤ主義的な観点から異を唱えたのかも知れません。

私たちはパウロがいのちをかけて守った福音の自由の立ち位置をしっかりと受け止めておきましょう。その上でペテロがどうしてグラグラとしてしまったのかを考えてみます。エルサレムはユダヤ人の共同体の中心です。ユダヤ人の中からスタートしたキリスト教の教会がエルサレムにあることは大変重要な意味を持ちます。しかしファリサイ派に代表される保守的なユダヤ人層が力を強める場所で、声高に律法の遵守は間違いだと説けば迫害は免れません。エルサレムの教会のリーダーはイエスさまの弟のヤコブになっていましたが、ヤコブは「義人ヤコブ」と呼ばれていました。この「義人」と言うのは、「義である人」「正しい人」、つまりは旧約聖書の視点で神さまの目に正しく映る人の意味です。つまりヤコブが「義人」と呼ばれるほど、ユダヤの律法や慣習に近い位置で活動していたからこそ、エルサレムの教会は存続できていたのかも知れません。アンテオケに現れたユダヤ主義者たちは「ヤコブの友人」を称していましたが、ペテロはヤコブの名前を出され、エルサレムのヤコブの立ち位置を考えると、アンテオケの信者たちの前であからさまに律法を否定することができなくなってしまったのではないかと思います。

後半はパウロの強烈なメッセージです。心に響きます。

第16節、「私たちがイエス・キリストを信じたのは、私たちのキリストへの信仰によって神さまから正しいとされるためであって、私たちが律法に従ったからではありません。なぜなら律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいないからです。」 「律法に従う」は私たちの場合、「正しい行いをする」で置き換えて読めば良いでしょう。私たちはただひとつ福音を、つまりイエスさまを通じた救済の計画を信じることで神さまの目に正しいと映ります。これ以外に私たちが神さまから正しいとされる道はありません。私たちが何か正しい行いをすることによって私たちが神さまの目に正しく映るわけではないのです。ではどうして私たちはあいかわらず正しい行いを目指すのでしょうか。それはもともと天国へ行く資格のなかった私たちを神さまが救ってくださったからです。その感謝や喜びの気持ちをどうやって表すべきでしょうか。まずは神さまを賛美すべきです。神さまを褒め称えるべきです。すべての栄光を神さまに帰す、これが第一です。それから毎日を過ごすときに、神さまの子供として適切に振る舞うことに頭をめぐらします。そのときには何を行動規範とすべきでしょうか、それが旧約聖書の律法なのです。イエスさまはMatthew 5:17-18(マタイの福音書第5章第17節~第18節)で、「17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と言っています([新改訳])。

順番を間違えてはいけません。「律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいない」のです。善行によって天国に入る人はひとりもいません。第21節にあるとおりです。もし自分が善行を重ねることで天国に入れるのなら、イエスさまは死ぬ必要がありませんでした。






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