コリント人への手紙第2

2015年06月14日

コリント人への手紙第2:はじめに

コリント人への手紙第2


「Acts(使徒の働き)」はイエスさまが十字架死から復活後に天に戻られた後で、使徒たちがどのように福音を広めていったかを書いた本なのですが、その後半は特にパウロの活動を詳しく取り扱っていました。

「Acts(使徒の働き)」の中でパウロは伝道の旅を三回行った後、最後にローマへ護送されています。新約聖書にはパウロがこれらの伝道の旅の途中で自分が開いた、あるい自分が関与した教会の信者たちに宛てて送った手紙がいくつか収められています。「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」もそのひとつです。コリント人(びと)への手紙は第1と第2がありますが、その二つ目です。

手紙は「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」同様、パウロから「コリントの教会」へ宛てられています。パウロは三回の伝道旅行の後、エルサレムで逮捕されて最終的にローマへ送られるのですが、「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」と「2 Corinthians(コリント人への手紙第2)」が書かれたあたりで、次のような出来事があったようです。

  • 第三回目の伝道旅行でパウロがエペソに滞在する。
  • パウロがエペソに滞在していると聞きつけたコリントの教会が、ステパナ、ポルトナト、アカイコの三名をエペソへ送り、パウロに指導を仰ぐ。
  • パウロがコリントへ、テモテを派遣する。
ここまでは「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」に書かれている内容です。

  • パウロがエペソで「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」を書く。
  • パウロがエペソで投獄される。獄中で「Philippians(ピリピ人への手紙)」と「Philemon(ピレモンへの手紙)」を書く。(注:パウロがエペソで投獄されたという記録は「Acts(使徒の働き)」にはどこにも登場しませんが、複数の手紙を読み合わせると投獄があったと考えるのが自然です。)
  • 出獄後、テモテがエペソに戻って来てコリントの緊急事態を伝える。緊急事態と言うのは、パウロが説くのとは異なる福音を説く人たちがコリントを訪れ、その人たちがパウロの使徒としての資格に疑問を投げかけているということのようです。
  • パウロがコリントの教会へ手紙を書く。【手紙その1】
  • パウロがコリントを訪問する。が、異なる福音を説く人たちとの対決は失敗に終わる。(注:パウロがここでコリントを訪問したという記録は「Acts(使徒の働き)」にはどこにもありませんが、手紙の前後をつなぎ合わせると、ここで一度コリントを訪問したと考えるのが自然です。)
  • パウロがコリントの教会へ手紙を書く。【手紙その2】
  • パウロがコリントへ、テトスを派遣する。
  • パウロがエペソを出てトロアス(小アジア西端)へ、さらにマケドニヤ(ギリシヤ北部)へ移動する(つまりギリシヤ南部のコリントへ近づく)。
  • テトスが戻って来てマケドニヤにいるパウロに合流し、事態の好転を伝える。
  • パウロがコリントの教会へ手紙を書く。【手紙その3】
  • パウロがコリントへ、再度テトスを派遣する。
  • パウロがコリントの教会へ手紙を書く。【手紙その4】
  • パウロがコリントに入り、3ヶ月滞在する(おそらく西暦55年末~56年春の越冬)。

以上のような出来事があったようなのですが、「2 Corinthians(コリント人への手紙第2)」はどうやら、上に登場する【手紙その1】【手紙その4】をひとつに編纂したものなのです。ややこしいのはその編纂作業が時系列に行われていないことです。つまり四つの手紙を組み合わせた編纂結果としての「2 Corinthians(コリント人への手紙第2)」は、書かれた順番になっておらず、このため第1章から順番に読むと、ところどころ文脈がつながらず、不自然に感じられます。

そこでここでは「わかりやすさ」を優先して、「2 Corinthians(コリント人への手紙第2)」を分解し、章順にこだわらず、時系列(書かれた順)で読んでみることにします。具体的には次の順番になります。

  • 手紙その1:テモテの緊急事態報告を受けて。第2章第14節~第7章第4節
  • 手紙その2:コリント訪問が失敗に終わって。第10章~第13章
  • 手紙その3:テトスの事態好転の報告を受けて。第1章第1節~第2章第13節、第7章第5節~第16節
  • 手紙その4:エルサレムの教会への献金について。第8章~第9章(ここは章ごとに別々の手紙である可能性が高い)




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english1982 at 23:30|Permalink

コリント人への手紙第2:手紙その1

コリント人への手紙第2

この本に含まれる四つの手紙:
  • 手紙その1:テモテの緊急事態報告を受けて。第2章第14節~第7章第4節
  • 手紙その2:コリント訪問が失敗に終わって。第10章~第13章
  • 手紙その3:テトスの事態好転の報告を受けて。第1章第1節~第2章第13節、第7章第5節~第16節
  • 手紙その4:エルサレムの教会への献金について。第8章~第9章(ここは章ごとに別々の手紙である可能性が高い)



手紙その1  






english1982 at 23:00|Permalink

コリント人への手紙第2【手紙その1】第2章第14節~第17節:新しい契約の聖職者

コリント人への手紙第2 手紙その1  




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



Ministers of the New Covenant

新しい契約の聖職者


14 But thank God! He has made us his captives and continues to lead us along in Christ’s triumphal procession. Now he uses us to spread the knowledge of Christ everywhere, like a sweet perfume.

14 しかし神さまに感謝します。神さまは私たちをとりこにし、キリストの勝利の行進に沿って私たちを引き続き導いてくださいます。いま神さまは私たちを遣わして、キリストについての知識を広めさせています。それは甘い香りのようです。

15 Our lives are a Christ-like fragrance rising up to God. But this fragrance is perceived differently by those who are being saved and by those who are perishing.

15 私たちの生涯は神さまへのと立ちのぼるキリストのような香りなのです。しかしこの香りは、救われる人々と滅び行く人々では、受け取り方が違います。

16 To those who are perishing, we are a dreadful smell of death and doom. But to those who are being saved, we are a life-giving perfume. And who is adequate for such a task as this?

16 滅び行く人々にとっては、私たちは恐ろしい死と裁きの香りです。しかし救われる人々にとっては、私たちはいのちを与える香りなのです。このような仕事に適切な人とは誰でしょうか。

17 You see, we are not like the many hucksters who preach for personal profit. We preach the word of God with sincerity and with Christ’s authority, knowing that God is watching us.

17 あなた方もおわかりのように、私たちは自分の利益のために説教をする多くの行商人とは違います。私たちは正直に、そしてキリストの権威の下に、神さまが私たちを見ていると知りつつ、神さまの言葉を伝えます。




ミニミニ解説

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」の第2章です。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」は、パウロの少なくとも四つの手紙が一つに編纂されているという前提に基づき、章の順ではなく、全体を分割して四つの手紙が書かれた順に読んでいきます。

パウロは二回目の伝道旅行で一年半に渡ってコリントに滞在し、ユダヤ人と異邦人に福音を伝えました。パウロがコリントを去った後、コリントの教会では様々な問題が発生しました。三回目の伝道旅行の途上でパウロがエペソに滞在しているときに、コリントの教会はステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぎました。「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」はパウロがコリントの教会へ宛てた指導の手紙でした。

パウロは「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」を送るに先駆けて、テモテをコリントに派遣しています。やがてエペソに戻って来たテモテは、パウロにコリントの緊急事態を伝えます。それはコリントにパウロが説くのとは異なる福音を説く人たちが現れ、コリントの信者たちを惑わし、さらにその人たちはパウロの使徒としての資格に疑問を投げかけていると言うのです。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」に編纂された第一の手紙は、この事態に対して、パウロが自分の資格について弁明する内容の手紙になっています。

第14節、まず、パウロは自分が神さまの意図に沿って福音を広める活動していると書きます。パウロは自分が伝えるイエスさまの福音は、甘い香りのようだと書いています。

第15節、パウロは福音を伝える自分たちの生涯は、神さまにとってはイエスさまのような香りだと言います。この神さまへと立ちのぼる「香り」の表現は旧約聖書の律法に多数登場します。たとえばExodus 29:15-18(出エジプト記第29章第15節~第18節)は祭司職のアロンの一族を清めるための儀式を書いた部分です。

「15 あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。16 あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。17 また、その雄羊を部分に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部分や頭といっしょにしなければならない。18 その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である。」([新改訳])。

ここでいけにえとして祭壇の上で焼かれて煙になる雄羊は「なだめのかおり」だと書かれています。聖書には信者の祈りが神さまへと立ちのぼる香りだと書かれている箇所もあり、私たちが神さまを信じて行う行動は神さまの下へ、かぐわしい香りとなって届くのです。

第16節、しかし神さまにとってはかぐわしい香りも、福音を信じない人たちには「死と裁きの香り」となります。福音を信じない者は、最後の裁きで神さまから切り離され、消えることのない火の中へ投げ込まれる、と教えるからです。

第17節、パウロは自分たちの活動はイエスさまの権威に基づいていて、神さまが自分たちを見ていることを知りながら、正直に福音を伝えていると言います。そしてこの節で、自分たちは個人的な利益のために教えを説く行商人のような人たちとは違う、と書いていますが、これは恐らくパウロがエルサレムの教会のために行っている資金集めについて、パウロが私利私欲のために行っているとの批判が出ているから、これに反論しているのだと思われます。






english1982 at 22:00|Permalink

コリント人への手紙第2【手紙その1】第3章第1節~第18節:新しい契約の聖職者(続き)、新しい契約の栄光

コリント人への手紙第2 手紙その1  




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



1 Are we beginning to praise ourselves again? Are we like others, who need to bring you letters of recommendation, or who ask you to write such letters on their behalf? Surely not!

1 私たちはまたもや自分たちをたたえ始めるのでしょうか。私たちはあなた方に推薦状を持っていく必要があったり、あるいはあなた方にそのような手紙を代わりに書くことを頼む他の人たちのようですか。もちろん違います。

2 The only letter of recommendation we need is you yourselves. Your lives are a letter written in our hearts; everyone can read it and recognize our good work among you.

2 私たちが必要とする推薦状はあなた方だけです。あなた方のいのちが私たちの心に書かれた手紙です。誰もがそれを読むことができ、そして誰もが私たちがあなた方の中で行った善い仕事を認めます。

3 Clearly, you are a letter from Christ showing the result of our ministry among you. This “letter” is written not with pen and ink, but with the Spirit of the living God. It is carved not on tablets of stone, but on human hearts.

3 疑いもなくあなた方は、私たちがあなた方の中で行った仕事の結果を示すキリストからの手紙なのです。この手紙はペンやインクで書かれておらず、生きている神さまの霊によって書かれています。石版ではなく人の心に刻まれているのです。

4 We are confident of all this because of our great trust in God through Christ.

4 私たちがこれらすべてに確信があるのは、キリストを通じた神さまへの信頼によります。

5 It is not that we think we are qualified to do anything on our own. Our qualification comes from God.

5 何事も自分たちでする資格があると私たちが考えているのではありません。私たちの資格は神さまから来るのです。

6 He has enabled us to be ministers of his new covenant. This is a covenant not of written laws, but of the Spirit. The old written covenant ends in death; but under the new covenant, the Spirit gives life.

6 神さまが私たちに新しい契約の使節団となる資格を与えたのです。これは明文化された律法による契約ではなく、霊による契約です。明文化された古い契約は死で終わります。しかし新しい契約の下では霊がいのちを与えるのです。



The Glory of the New Covenant

新しい契約の栄光


7 The old way, with laws etched in stone, led to death, though it began with such glory that the people of Israel could not bear to look at Moses’ face. For his face shone with the glory of God, even though the brightness was already fading away.

7 石に刻まれた律法による古い方法は死に至りました。それはイスラエルの人たちがモーゼの顔を見ることができなかったほどの栄光で始まったにもかかわらずです。モーゼの顔は神さまの栄光で輝いていたのです。輝きはすでに薄れていましたが。

8 Shouldn’t we expect far greater glory under the new way, now that the Holy Spirit is giving life?

8 新しい方法の下では私たちはさらに偉大な栄光に期待すべきではないでしょうか。今や聖霊がいのちを与えるのですから。

9 If the old way, which brings condemnation, was glorious, how much more glorious is the new way, which makes us right with God!

9 有罪判決をもたらす古い方法が栄光あるものだったのなら、私たちを神さまの前に正しくする新しい方法は、どれほどさらに多くの栄光を持つでしょうか。

10 In fact, that first glory was not glorious at all compared with the overwhelming glory of the new way.

10 実際のところ最初の栄光は、新しい方法の圧倒的な栄光と比べれば、まったく栄光などないのです。

11 So if the old way, which has been replaced, was glorious, how much more glorious is the new, which remains forever!

11 ですからもし取って代わられた古い方法に栄光があったのなら、永遠に続く新しい方法は、どれほどさらに多くの栄光を持つでしょうか。

12 Since this new way gives us such confidence, we can be very bold.

12 この新しい方法は私たちにそれほどの確信をもたらすので、私たちは非常に大胆になれるのです。

13 We are not like Moses, who put a veil over his face so the people of Israel would not see the glory, even though it was destined to fade away.

13 私たちはイスラエルの人たちが栄光を見ないようにと顔におおいを掛けたモーゼのようではありません。その栄光が消え去るように定められていたとしても。

14 But the people’s minds were hardened, and to this day whenever the old covenant is being read, the same veil covers their minds so they cannot understand the truth. And this veil can be removed only by believing in Christ.

14 しかし人々の心は鈍感になりました。今日まで古い契約が読まれる度に、同じおおいが人々の心に掛かり、それで人々は真実を理解できないのです。このおおいを取り除けるのはキリストへの信仰だけです。

15 Yes, even today when they read Moses’ writings, their hearts are covered with that veil, and they do not understand.

15 そうです。今日でさえ人々がモーゼの書き物を読むとき、心にはそのおおいがかかっていて理解しないのです。

16 But whenever someone turns to the Lord, the veil is taken away.

16 しかし誰かが主の方を向けば、そのおおいは取り除かれます。

17 For the Lord is the Spirit, and wherever the Spirit of the Lord is, there is freedom.

17 なぜなら主は霊だからです。そして主の霊のあるところにはどこにでも自由があります。

18 So all of us who have had that veil removed can see and reflect the glory of the Lord. And the Lord -- who is the Spirit -- makes us more and more like him as we are changed into his glorious image.

18 それでそのおおいを取り除かれた私たち全員は見えるようになり、主の栄光を映します。そして霊である主は、私たちが主の栄光に満ちた姿へと変えられる行く過程で、私たちをさらに主のようにしていくのです。




ミニミニ解説

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」の第3章です。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」は、パウロの少なくとも四つの手紙が一つに編纂されているという前提に基づき、章の順ではなく、全体を分割して四つの手紙が書かれた順に読んでいきます。

パウロは二回目の伝道旅行で一年半に渡ってコリントに滞在し、ユダヤ人と異邦人に福音を伝えました。パウロがコリントを去った後、コリントの教会では様々な問題が発生しました。三回目の伝道旅行の途上でパウロがエペソに滞在しているときに、コリントの教会はステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぎました。「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」はパウロがコリントの教会へ宛てた指導の手紙でした。

パウロは「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」を送るに先駆けて、テモテをコリントに派遣しています。やがてエペソに戻って来たテモテは、パウロにコリントの緊急事態を伝えます。それはコリントにパウロが説くのとは異なる福音を説く人たちが現れ、コリントの信者たちを惑わし、さらにその人たちはパウロの使徒としての資格に疑問を投げかけていると言うのです。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」に編纂された第一の手紙は、この事態に対して、パウロが自分の資格について弁明する内容の手紙になっています。

この章の第1節には推薦状の必要性が書かれています。恐らくコリントに現れたパウロの敵は、どこか有力な施設(たとえばエルサレムの教会とか)からの推薦状を携えて現れ、コリントの信者たちにパウロは同様の推薦状を持っていたのか、ときいたのでしょう。推薦状はたとえば「Acts(使徒の働き)」にも登場しています。Acts 18:27(使徒の働き第18章第27節)ではエペソからギリシヤのアカヤ州へ向かうアポロに推薦状が用意されています。

「そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。」([新改訳])。

第1節~第3節、パウロは自分にはそのような推薦状は必要ない、コリントの信者の存在こそが推薦状だと言います。コリントの信者はコリントに居て、誰にでも見ることができ、コリントの信者を見れば、パウロの使徒としての働きがそこに現れているのは誰の目にも明らかだからです。

第4節~第6節、そしてパウロは自分たちの資格は神さまから来ている、と書きます。

第6節でパウロは、新旧の二つの契約を登場させています。古い契約とは律法書や預言書としてすでに文書として確立してきている旧約聖書のことですが、新しい契約にあたる新約聖書は、この手紙が書かれた時点ではまだ編纂されていません。個々の手紙や文書がばらばらに存在するだけです(しかもこの時点ではまだ大半が書かれていません)。パウロはやがて新約聖書として成立する新しい契約が、霊による、霊が人にいのちを与える契約だと言います。ここで言う霊は、霊体としての神さまのことです。

第7節にある「イスラエルの人たちがモーゼの顔を見ることができなかったほどの栄光」と言うのは、旧約聖書の「Exodus(出エジプト記)」でモーゼが神さまから十戒を授かったときのことです。Exodus 34:27-35(出エジプト記第34章第27節~第35節)です。

「27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」 28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。34 モーセが主の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」([新改訳])。

シナイ山で神さまと会話をしたモーゼは、顔に神さまの栄光を映して光を放ちます。人々はその光を恐れてモーゼに近づくことができません。そこでモーゼは自分の顔におおいを掛けています。

パウロは旧約聖書に書かれた古い契約を「死に至る契約」と書きます。実際に旧約聖書の律法に定められた掟には、どのような人が神さまの期待を裏切った罪で殺されなければならないかを書いた箇所がたくさんあります。上の引用箇所でモーゼがシナイ山から持って降りてきた十戒の刻まれた石版は実は二つ目の石版で、最初の石版はモーゼ自身が叩き割っています。それはモーゼが最初にシナイ山から降りてきたとき、モーゼの帰りを待ちわびたユダヤ人たちが、金の子牛を鋳造してそれを偶像として礼拝していたからです。石版を叩き割ったモーゼはレビ族に命じて偶像崇拝をしたユダヤ人たちを殺させ、その日に三千人が死んでいます。十戒に代表される旧約聖書の律法が「死に至る契約」と呼ばれる象徴的な出来事です。

第7節~第18節、パウロは古い「死に至る契約」がそれほどの栄光に満ちていたのであれば、信じる者にいのちを与えるイエスさまを通じた新しい契約は、どれほどの栄光に輝くだろうか、と言います。

パウロは、ユダヤ人が最高の権威を与えて称賛する旧約聖書の英雄であり、律法をモーゼ五書に書き記したモーゼが、主の栄光を隠すために顔を覆ったことを非難気味に書き、さらにモーゼの顔の光が薄れて消え去ることも繰り返し書いています。こういうことをことさらに書くのは、コリントに現れてパウロの権威や資格に疑問を呈するパウロの敵が、旧約聖書の律法を擁護したからではないかと推察できます。

パウロはユダヤ人の心にはモーゼが自分の顔に掛けたのと同じおおいがかかっていて、それによって真実が読み取れなくなっていると言います。そしてこのおおいは自分の力で取ることはできません。この覆いを取り去るのはイエスさまへの信仰だけなのです。イエスさまを旧約聖書に約束された救世主と認め、信じ、崇拝するとき、初めて旧約聖書に隠されていた奥義が読み取れるようになるのです。

第18節、イエスさまに対する信仰によっておおいを取り除かれた人には真実が見えるようになります。そしてイエスさまの栄光を映して、愛と希望と信仰に満ち、人々の中で輝くようになります。クリスチャンはこの光を隠すべきではない、とイエスさまは福音書で教えています。イエスさまは自分を信じる人を少しずつ変えて、イエスさまの姿へと近づけていくのです。






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コリント人への手紙第2【手紙その1】第4章第1節~第18節:壊れやすい陶器の壺の中の宝

コリント人への手紙第2 手紙その1  




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



Treasure in Fragile Clay Jars

壊れやすい陶器の壺の中の宝


1 Therefore, since God in his mercy has given us this new way, we never give up.

1 こうして神さまの哀れみにより、私たちにこの新しい方法が与えられたのですから、私たちは決してあきらめません。

2 We reject all shameful deeds and underhanded methods. We don’t try to trick anyone or distort the word of God. We tell the truth before God, and all who are honest know this.

2 私たちはあらゆる恥ずべき行いと、こそこそと隠れるやり方を拒絶します。私たちは人をだまそうとしたり、神さまの言葉を曲げたりしません。私たちは神さまの前で真実を話しますし、誠実な人のすべてがこのことを知っています。

3 If the Good News we preach is hidden behind a veil, it is hidden only from people who are perishing.

3 もし私たちの伝える福音がおおいの後ろに隠されているとすれば、福音はただ滅び行く人たちから隠されているのです。

4 Satan, who is the god of this world, has blinded the minds of those who don’t believe. They are unable to see the glorious light of the Good News. They don’t understand this message about the glory of Christ, who is the exact likeness of God.

4 この世の神であるサタンが信じない人たちの心をくらませたのです。その人たちには福音の栄光の光が見えません。彼らは完全に神さまに酷似するキリストの栄光に関するこの知らせを理解しないのです。

5 You see, we don’t go around preaching about ourselves. We preach that Jesus Christ is Lord, and we ourselves are your servants for Jesus’ sake.

5 ですから私たちは自分たち自身を宣べ伝えて旅行するのではありません。私たちはイエス・キリストが主であり、私たち自身はイエスさまのためにあなた方のしもべであると伝えるのです。

6 For God, who said, “Let there be light in the darkness,” has made this light shine in our hearts so we could know the glory of God that is seen in the face of Jesus Christ.

6 「闇の中に光があれ」と言った神さまが、私たちの心の中にこの光を輝かせ、イエス・キリストの顔に見える神さまの栄光を知ることができるようにしてくださったのです。

7 We now have this light shining in our hearts, but we ourselves are like fragile clay jars containing this great treasure. This makes it clear that our great power is from God, not from ourselves.

7 私たちはいま私たちの心の中に輝くこの光を持っています。しかし私たち自身はこの偉大な宝の入った壊れやすい陶器の壺のようなものです。これが私たちの偉大な力は、私たち自身ではなく神さまからのものであると明らかにします。

8 We are pressed on every side by troubles, but we are not crushed. We are perplexed, but not driven to despair.

8 私たちはあらゆる方向から問題を押しつけられます。しかし私たちは砕かれません。私たちは途方に暮れますが、絶望に追い込まれません。

9 We are hunted down, but never abandoned by God. We get knocked down, but we are not destroyed.

9 私たちは追い詰められますが、神さまから見捨てられることはありません。私たちは殴り倒されますが、滅びません。

10 Through suffering, our bodies continue to share in the death of Jesus so that the life of Jesus may also be seen in our bodies.

10 苦しみをくぐり、私たちの身体がイエスさまの死を共にするのは、イエスさまのいのちがまた私たちの身体に見えるように、なのです。

11 Yes, we live under constant danger of death because we serve Jesus, so that the life of Jesus will be evident in our dying bodies.

11 そうです。私たちが絶え間ない死の危険にさらされて生きるのは、私たちがイエスさまに仕えているからであり、そうやってイエスさまのいのちが私たちの死にゆく身体に明らかにされるためなのです。

12 So we live in the face of death, but this has resulted in eternal life for you.

12 それで私たちは死に直面して生き、それがあなた方には永遠のいのちとなるのです。

13 But we continue to preach because we have the same kind of faith the psalmist had when he said, “I believed in God, so I spoke.”

13 私たちが伝え続けるのは、詩編の記述者が「私は神さまを信じた。だから私は語った」と書いたのと同じ種類の信仰を持つからです。

14 We know that God, who raised the Lord Jesus, will also raise us with Jesus and present us to himself together with you.

14 私たちは、主イエスをよみがえらせた神さまが、イエスさまと共に私たちをもよみがえらせ、あなた方と一緒にイエスさまに会わせてくださると知っています。

15 All of this is for your benefit. And as God’s grace reaches more and more people, there will be great thanksgiving, and God will receive more and more glory.

15 これらすべてはあなた方のためです。そして神さまの恵みはより多くの人々に及ぶので、大いなる感謝があり、神さまはさらなる栄光を受けるのです。

16 That is why we never give up. Though our bodies are dying, our spirits are being renewed every day.

16 だから私たちは決してあきらめないのです。私たちの身体は死んで行きますが、私たちの霊は日々新しくされています。

17 For our present troubles are small and won’t last very long. Yet they produce for us a glory that vastly outweighs them and will last forever!

17 私たちの今の問題は小さなもので、長くは続きません。しかし霊が私たちにもたらす栄光は、その小さな問題を膨大にしのぐ重さを持ち、永遠に続くのです。

18 So we don’t look at the troubles we can see now; rather, we fix our gaze on things that cannot be seen. For the things we see now will soon be gone, but the things we cannot see will last forever.

18 だから私たちはいま見える問題には目もくれません。それよりも私たちは見えないものに視線を向けます。なぜなら私たちにいま見えるものはすぐに消え失せます。私たちに見えないものが永遠に続くのです。




ミニミニ解説

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」の第4章です。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」は、パウロの少なくとも四つの手紙が一つに編纂されているという前提に基づき、章の順ではなく、全体を分割して四つの手紙が書かれた順に読んでいきます。

パウロは二回目の伝道旅行で一年半に渡ってコリントに滞在し、ユダヤ人と異邦人に福音を伝えました。パウロがコリントを去った後、コリントの教会では様々な問題が発生しました。三回目の伝道旅行の途上でパウロがエペソに滞在しているときに、コリントの教会はステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぎました。「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」はパウロがコリントの教会へ宛てた指導の手紙でした。

パウロは「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」を送るに先駆けて、テモテをコリントに派遣しています。やがてエペソに戻って来たテモテは、パウロにコリントの緊急事態を伝えます。それはコリントにパウロが説くのとは異なる福音を説く人たちが現れ、コリントの信者たちを惑わし、さらにその人たちはパウロの使徒としての資格に疑問を投げかけていると言うのです。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」に編纂された第一の手紙は、この事態に対して、パウロが自分の資格について弁明する内容の手紙になっています。

この章の第2節にある「恥ずべき行い」「こそこそと隠れるやり方」「人をだますやり方」「聖書の曲解」は、おそらくコリントに現れたパウロの敵が取る伝道の方法のことです。これに対してパウロの方法は、シンプルに「神さまの前で真実を話す」ことだと言い、それについては誠実な人たちが証言してくれる、と言います。

第3節、パウロが「もし私たちの伝える福音がおおいの後ろに隠されているとすれば」と言うのは、おそらくパウロの敵がパウロについて、そのように批判しているからでしょう。パウロは自分の伝える福音が隠されているのは、福音を信じずに滅び行く人たちに対してだけだと言います。

第4節、パウロは福音の真実が見えない人の心は、この世の支配者であるサタンによってくらまされていると言います。パウロを否定し、パウロの伝える福音を認めない方向へとコリントの信者を惑わすパウロの敵を、パウロはサタンの手先だと言っているのです。パウロの知る福音とは、旧約聖書の神さまを熟知したファリサイ派のパウロに、その神さまの完全なる似姿として示された主イエスさまに関する知らせなのです。

第5節、パウロがわざわざ「私たちは自分たち自身を宣べ伝えて旅行するのではありません」と言うのは、パウロの敵はイエスさまを説くのではなく、自分たち自身や、自分たちの英知の素晴らしさを説いているからでしょう。パウロは自分を誇ることはありません。パウロはイエスさまこそが自分の主であり、自分は主であるイエスさまから命じられたとおりにシンプルに福音を伝え、福音を信じる人たちへの奉仕を最優先で考える、信者のしもべであると伝えます。

第6節には、旧約聖書の最初の「Genesis(創世記)」で「闇の中に光があれ」と言って天地を創造された神さまが、パウロの心の中に光を輝かせ、イエスさまに映る神さまの栄光を知ることができるようにしてくださった、と書かれています。これは「Acts 9(使徒の働き第9章)」に書かれている、エルサレムからダマスコへ向かう途上で、パウロに起こったイエスさまとの遭遇のことを言っているのでしょう。このとき神さまがパウロにイエスさまが誰であるかを教えてくれたのです。

第7節、パウロは神さまから啓示を受け、福音の真実を知りました。パウロはそれを「心の中に輝く光」「偉大な宝」と呼びますが、それを知るパウロ自身は「壊れやすい陶器の壺」なのだと言います。これはパウロが一人の人間であり、ときには怪我をして傷つき、病に陥り、やがて死んで行く肉体の持ち主だと言うことでしょう。どうして神さまは福音という「偉大な宝」をパウロという「壊れやすい陶器の壺」に納めたのでしょうか。それは福音という「偉大な宝」は、パウロというひとりの人間が考え出したり思いついたものではなく、それが神さまから来ていることを明らかにするためだと言います。

第8節~第9節、パウロはその生涯に於いて、あらゆる方向から数々の問題を押しつけられ、途方に暮れ、迫害され、追い詰められますが、決してあきらめません。決して絶望することなく、愛と希望と信仰を説き続けます。

その理由は第10節、パウロ自身がイエスさまの死を信者たちの前に体現し、それによってイエスさまのいのちを示すためだと書かれています。裏切られ、ユダヤの指導者に引き渡され、宗教裁判で有罪を宣告され、むち打たれ、十字架を背負わされ、そこに掛けられて殺されたイエスさまにはその後で何が起こったでしょうか。イエスさまは三日後に神さまによって復活したのです。

パウロが、どれほど迫害されようとも福音を伝えることをやめないのはどうしてなのでしょうか。それは自分がやはり、イエスさまのように復活することを知っているからなのです。神さまの人類救済計画の成就であり、永遠のいのちにつながる福音をなんとしても、人々に伝えたいのです。たとえ自分が必ず復活すると知っていても、傷を負えば同じように痛いし、病に陥れば闘病は辛いのです。しかしパウロは、神さまを100%信じて十字架から逃げなかったイエスさまが選んだのと同じ道をたどります。それが使徒に課せられた使命だからです。そうやって福音が真実であることを人々に示すのです。

第11節、パウロが絶え間ない死の危険にさらされて生きるのは、パウロがイエスさまに仕えるしもべからであり、そうやってイエスさまのいのちがパウロたち使徒の身体に体現されるためなのです。

第12節、パウロたち使徒が死に直面して伝道の活動をすることが、信者の永遠のいのちにつながるのです。

第13節、パウロは自分が伝道活動を続けるのは、詩編の記述者が「私は神さまを信じた。だから私は語った」と書いたのと同じ種類の信仰を持つからだと言います。詩編は神さまを信じ、神さまを褒め称えて賛美する詩の連続です。自分はどんなときにも神さまを信じると、力強く叫ぶ詩も多くあります。自分は神さまを信じる、だからそれを声高に語る、というのが詩編の記述者の信仰なのです。今回の最後のところに「Psalm 116(詩編第116章)」の全体を引用して載せておきます。

第14節、パウロはイエスさまをよみがえらせた神さまが、自分をよみがえらせ、コリントの信者たちと一緒にイエスさまに会わせてくれることを知っている、と言います。信者が復活する様子は「1 Corinthians(コリント人への手紙第1)」の第15章に詳しく書かれていて、私たち信者に強い希望を与えてくれます。

第15節、神さまはコリントの信者のみならず、地球上の、歴史上のあらゆる信者をよみがえらせます。そして神さまは復活したすべての信者から賛美を受け、さらなる栄光を受けるのです。

第16節、復活を知るパウロは決してあきらめません。私たちの肉体は日々、死への道を歩みますが、「私たちの霊」と書かれた内なる自分は、その間に聖霊の助けを得て日々新しくされ、日々神さまの目に正しい姿へと近づいていきます。

第17節、信者が地上に生きる間に受ける苦しみは、復活と永遠を視野に入れれば小さく、また時間的にも短いものです。しかし聖霊が教えてくれる私たちの将来に待ち受ける栄光は、その小さな問題をはるかにしのぐ大きさを持ち、イエスさまの再来以降、永遠に続くのです。

第18節、なのでパウロは「いま見える問題」には目もくれません。それよりも「見えないもの」に視線を向けると書かれています。いま地上で私たちに見えているものは「終わりの日」が来ればすべて消え失せます。そして私たちには想像も及ばない希望の栄光を持つ、いまは「見えないもの」が現れれば、それが永遠に続くからです。

Psalm 116(詩編第116章)の引用です。

「1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」 5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。10 「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。」([新改訳])。

ハレルヤ。






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