2015年08月24日

使徒の働き第8章第26節~第40節:ピリポとエチオピヤの宦官

第8章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Philip and the Ethiopian Eunuch

ピリポとエチオピヤの宦官


26 As for Philip, an angel of the Lord said to him, “Go south down the desert road that runs from Jerusalem to Gaza.”

26 ピリポについては主の天使がピリポに言いました。「エルサレムからガザへ至る砂漠の道を南に下さりなさい。」

27 So he started out, and he met the treasurer of Ethiopia, a eunuch of great authority under the Kandake, the queen of Ethiopia. The eunuch had gone to Jerusalem to worship,

27 そこでピリポは出発し、エチオピヤの出納官に出会いました。エチオピヤの女王カンダケの下で大きな力を持っていた宦官です。この宦官は礼拝のためにエルサレムに行き、

28 and he was now returning. Seated in his carriage, he was reading aloud from the book of the prophet Isaiah.

28 いま戻るところでした。宦官は馬車に座り、預言者イザヤの書を声に出して読んでいました。

29 The Holy Spirit said to Philip, “Go over and walk along beside the carriage.”

29 聖霊がピリポに言いました。「行って馬車の横を歩きなさい。」

30 Philip ran over and heard the man reading from the prophet Isaiah. Philip asked, “Do you understand what you are reading?”

30 ピリポは走って行き、男が預言者イザヤの書を読んでいるのを耳にしました。ピリポはたずねました。「あなたは読んでいるものがわかるのですか。」

31 The man replied, “How can I, unless someone instructs me?” And he urged Philip to come up into the carriage and sit with him.

31 男は答えました。「誰かが教えてくれなくて、どうして私にわかるでしょうか。」 そして男はピリポに馬車に乗り込んで一緒に座るようにと促しました。

32 The passage of Scripture he had been reading was this: “He was led like a sheep to the slaughter. And as a lamb is silent before the shearers, he did not open his mouth.

32 男が読んでいた聖書の個所はこれでした。「彼は羊のように屠殺へと引かれていった。小羊が毛を刈る者の前で静かなように彼は口を開かなかった。

33 He was humiliated and received no justice. Who can speak of his descendants? For his life was taken from the earth.”

33 彼は卑しめられ、何の正義も受け取りませんでした。彼の子孫のことを誰が話すことができようか。なぜなら彼のいのちは地上から取り去られたのです。」

34 The eunuch asked Philip, “Tell me, was the prophet talking about himself or someone else?”

34 宦官はピリポにたずねました。「教えてください。預言者は自分のことについて話していたのですか、あるいは誰か他の人についてですか。」

35 So beginning with this same Scripture, Philip told him the Good News about Jesus.

35 そこでピリポはこの同じ聖句から始めて、宦官にイエスさまに関する良い知らせを話しました。

36 As they rode along, they came to some water, and the eunuch said, “Look! There’s some water! Why can’t I be baptized?”

36 一緒に馬車に乗って行くと、水のある所に来ました。宦官は言いました。「見てください。水があります。私は洗礼を受けられませんか。」

(37, “You can,” Philip answered, “if you believe with all your heart.” And the eunuch replied, “I believe that Jesus Christ is the Son of God.”)

37 {ピリポは答えました。「もしあなたが心から信じるならば受けられます。」宦官は答えました。「私は、イエス・キリストが神さまの息子であると信じます。」}

38 He ordered the carriage to stop, and they went down into the water, and Philip baptized him.

38 宦官は馬車を止めるように命じ、二人は水の中へ降りて行きました。ピリポは宦官に洗礼を授けました。

39 When they came up out of the water, the Spirit of the Lord snatched Philip away. The eunuch never saw him again but went on his way rejoicing.

39 二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去りました。宦官は二度とピリポを見ることがありませんでしたが、喜んで家路を行きました。

40 Meanwhile, Philip found himself farther north at the town of Azotus. He preached the Good News there and in every town along the way until he came to Caesarea.

40 一方ピリポは自分がはるか北のアゾトの町にいることに気づきました。ピリポはカイザリヤに着くまで、アゾトとすべての町で良い知らせを伝えました。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第8章です。

エルサレムにいたギリシヤ語を話す信者たちのグループと、ヘブライ語を話す信者たちのグループの間に生じたいざこざをきっかけに、ギリシヤ語を話す信者たちのグループのために選ばれた七人のリーダーのうち、筆頭のステパノは逮捕されて殺されてしまいました。ステパノは最初の殉教者です。それからエルサレムではギリシヤ語を話す信者たちに対する迫害が起こり、信者たちはエルサレムを追われてユダヤ地方やサマリヤ地方へと逃げました。エルサレムから四散した信者たちは逃げ延びた先々でイエスさまの福音を伝え、結果としてキリスト教はエルサレム外へと広がることになりました。七人のリーダーの中のピリポはサマリヤ地方へ逃げて、そこでイエスさまの福音を伝え、多くの人が信じました。

前回はピリポが訪れたサマリヤの村にいたシモンという魔術師の話でした。ピリポがサマリヤで福音を伝え、たくさんの人が信じたという知らせに、エルサレムのヘブライ語を話す教会からペテロとヨハネがサマリヤへ来た話です。シモンはペテロとヨハネが信者たちの上に手を置いてお祈りをしたことで、サマリヤの人々に聖霊が降りたのを見て、その力を金で買いたいと申し出て、ペテロから叱責を受けました。ペテロとヨハネはその後、帰途の途上でたくさんのサマリヤの村に立ち寄って福音を伝えたと書かれていました。

今回はこの続きです。

ペテロとヨハネがサマリヤを去ると、ピリポは天使に導かれてガザへと下る道へ向かいます。ガザはエルサレムの南西、地中海に面した町です。パレスチナ自治区としてよくニュースにも登場します。ピリポは直前までエルサレムの北のサマリヤ地方にいたのですから、エルサレムを挟んで反対側へ派遣されたことになります。

ピリポはガザへ至る砂漠の道でひとりのエチオピヤ人に出会います。エチオピヤはエジプトのはるか南方にありますので、つまりこの人はアフリカの黒人ということです。福音を伝える対象が、サマリヤの混血のユダヤ人から、今度はアフリカの異邦人になっています。この人は女王に仕える高官です。「カンダケ」というのは当時のエチオピヤ王朝の女王の呼称のようです。エジプトの王が「ファラオ」と呼ばれるのと同じです。「宦官(かんがん)」は去勢手術を受けた役人のことで、女王に仕える官吏が去勢手術を受ける習慣は世界のあちこちで見られます。

この宦官はアフリカから遠い道のりをわざわざエルサレムまで巡礼の旅をしています。エルサレムの寺院の中には異邦人の庭と呼ばれる、異邦人が神さまを礼拝するための場所が作られていますが、エルサレムにはこのようにアフリカのような遠い場所からわざわざ神さまを礼拝するために訪れていた異邦人がいたのです。今回、ピリポはこのエチオピヤの宦官に福音を伝えていますが、宦官に福音がすんなりと伝わったのは、エチオピヤに旧約聖書についての知識の土壌がすでに存在したからでしょう。福音がエルサレムの外へ、イスラエルの外へ、伝わるための準備ははるか昔から整えられていたのです。

この宦官は馬車の上で旧約聖書の「イザヤ書」を呼んでいます。エルサレムで買い求めたものなのか、往復の馬車の上で読むために自国から持参したものなのかわかりませんが、なんともユダヤ教の学習に熱心な異邦人であることがわかります。しかもこの人は馬車の上で、それを大きな声で読み上げていたのです。この聖書はおそらく当時翻訳が進んでいたギリシヤ語訳の聖書で、つまり宦官とピリポはギリシヤ語で会話したものと思われます。ローマ帝国の共通言語であるギリシヤ語もまた、福音の伝道を助けているのです。

宦官が読んでいたのは、私が何度も引用している「Isaiah 53」(イザヤ書第53章)の第7節と第8節です。イザヤ書はイエスさまの時代から700年ほど前に書かれた本ですが、第53章はイエスさまの十字架刑を予告した特筆すべき章です。

「1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」([新改訳])

第6節に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。創世記で神さまはエデンの園に最初の人間アダムとイブを置き、そのときにただ一つだけルールを作りましたが、ふたりは蛇にそそのかされて神さまを裏切ってしまいます。また紀元前1500年頃、神さまは預言者モーゼを通じて律法をユダヤの民に授け、頑ななユダヤ人に神さまの考える善の基準を示しましたが、人々は従いません。

羊には動物には珍しく帰巣本能が備わっていないそうで、羊飼いが目を離した隙にフラフラと歩いてさまよい出て行ったら、歩いて行った先で道に迷い、自力では帰ってくることができません。羊はそこで飢えたり、汚れにまみれて病気になったり、野獣に襲われて死んでしまうことでしょう。同じように人間は、神さまのルールを犯して神さまの庇護の下から外へ出て行くことが何につながるのか、わからないのです。自分がどこから来てどこへ行くのかわからないままに生きているのです。つまり人々は「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行」ったのです。創造主である神さまの意図や心配など気にもかけず、自分勝手に自分の好きな道を選んで生きているのです。

聖書によれば神さまをガッカリさせるこの「裏切り」の行為は「罪(sin)」と呼ばれます。そして神さまがこの罪について人間に科した罰は「死」です。「死」は聖書上ではいつも「別れ・分離」の意味を持ちますが、人間に科した罰については、この分離が二段階で起こるとされています。つまり肉体の死の時点で起こる、肉体と霊の分離が死の第一段階、私たちの知っている死です。そしてこの世の終わりに神さまが行う最後の裁きがありますが、ここで死の第二段階がやってきます。人間はこのときに神さまから完全に分離され、人間の霊は燃えさかる火の池へと投げ込まれて、そこで永遠に焼かれることになるのです。

「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。神さまは、私たちが自分で好き勝手に従うべき道から外れていったのにも関わらず、その咎をすべてイエスさまひとりに背負わせて、私たちの身代わりにして殺しました。罪を犯して汚れた人間の身代わりのためには、その身代わりとなるいけにえは、まったく汚れのない存在でなければなりません。しかしすべての人間が罪で汚れてしまっている以上、身代わりは神聖な神さまの元から来る必要がありました。そのために人間の姿をとって地上に降り立った神さまがイエスさまです。イエスさまは地上に現れると数々の預言を実現し、驚くほど明快に聖書に記された神さまの計画を述べ伝え、さらに次々と奇跡のしるしを見せて自分が神さまから送られた救世主であることを証明して行きます。しかし最終的には、やはりこれもイザヤ書や他に書かれた預言どおり、十字架にかけられて人間の手によって殺されてしまうのです。

このイエスさまの死によって神さまが用意した人間救済の計画は成就し、私たち人間が犯した罪のすべてが帳消しになったのです。イエスさまは十字架死の三日後に、かねてから話していたとおりに復活して、死さえ克服できることを示します。復活したイエスさまに会った使徒たちは、別人のような勇気を示して世界に福音を伝えて歩きます。

聖書によると、罪を帳消しにされた人間は、神さまとの和解が成立しているので、この世の終わりに裁かれることはなく、天国で神さまと合流できるのです。これがイエスさまに関する良い知らせ、「福音」なのですが、さらに素晴らしいのは、この「許し」がどんな人間にも無償で与えられる贈り物であるというところです。ただ、その贈り物を受け取るためには、ひとつだけ条件があります。それは人が自分の意志で神さまの道から外れることを選んだのですから、自分にその罪があることを認めて、神さまの元へ戻るときにもきちんと自分の意志でそれを選択しなさい、ということです。言い換えると自分がイエスさまに関する福音を信じ、それを選択することは自分の意志であると、神さまに向かって宣言する、ということです。

ピリポはイザヤ書からたどってこのような話を宦官にしたのだと思います。宦官は第36節でピリポに「私は洗礼を受けられませんか」とたずねます。つまり、自分はイエスさまの福音を信じるから、洗礼を受けて信者になりたい、と言うのです。

第37節、それに対するピリポの答は、「もしあなたが心から信じるならば」と洗礼の実行の前に条件を付けていて、宦官は「私は、イエス・キリストが神さまの息子であると信じます。」と信仰を自分の口で宣言しています。

なお第37節は、{}の記号に挟まれています。これはこの節が、聖書の原典の版によって含まれていたり含まれていなかったりすることを示しています。もしこの節が存在しないとここはどう読めるでしょうか。第36節で宦官が「洗礼を受けたい」と表明し、第38節でいきなり洗礼の実行となります。つまり肝心の「信仰の表明」が抜けてしまうことになります。これだとまるで洗礼を受けることが、神さまの許しを受けるために必要な儀式のような印象になってしまいます。どういう意図で誰がいつ第37節をここから抜いたのか、いろいろと研究もされていますが、この一節が抜けたからと言って、聖書全体のメッセージは少しも揺らぎません。

さてピリポはどうなったでしょうか。主の霊がピリポを取り去り、次にピリポが気がつくとガザの北方のアゾトの町にいました。ピリポはそこから福音を伝えながら地中海沿岸を北上し、カイザリヤに至ります。ずっと後になりますが、Acts(使徒の働き)の第21章には、カイザリヤにピリポの家があったことが記述されています。

ちなみにIsaiah 56:1-5(イザヤ書第56章第1節~第5節)には次の記述があります。

「1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」 2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」([新改訳])

ここでは外国人や宦官は「主はきっと、私をその民から切り離される。ああ、私は枯れ木だ」などと言ってはいけない、と書いてありますね。今回のエチオピヤの宦官がイエスさまを信じて救われた場面は、イザヤの預言のこの部分が実現し始めたということではないでしょうか。私たち日本人も異邦人です。私たち日本人が神さまの恩恵にあずかることができることも、もちろんこの預言に含まれています。



english1982 at 21:00│使徒の働き