2015年08月30日

使徒の働き第2章第14節~第41節:ペテロが群衆に説教をする

第2章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Peter Preaches to the Crowd

ペテロが群衆に説教をする


14 Then Peter stepped forward with the eleven other apostles and shouted to the crowd, “Listen carefully, all of you, fellow Jews and residents of Jerusalem! Make no mistake about this.

14 そこでペテロは他の十一人の使徒たちとともに前へ出て、群衆に向かって声を上げました。「ユダヤ人のみなさん、そしてエルサレムにお住まいのみなさん、全員、よく聞いてください。このことについて間違えてはいけません。

15 These people are not drunk, as some of you are assuming. Nine o’clock in the morning is much too early for that.

15 あなた方の中に決めてかかっている方がいるようですが、この人たちは酔っていません。朝の九時はそれにはずいぶん早すぎます。

16 No, what you see was predicted long ago by the prophet Joel:

16 違います。あなた方が見ているのは預言者ヨエルによって遠い昔に予告されていたことなのです。

17 ‘In the last days,’ God says, ‘I will pour out my Spirit upon all people. Your sons and daughters will prophesy. Your young men will see visions, and your old men will dream dreams.

17 『神さまは言います。終わりの日に私は私の霊をすべての人に注ぎます。あなた方の息子や娘は預言します。若い男たちは幻を見て、年老いた男たちは夢を見ます。

18 In those days I will pour out my Spirit even on my servants -- men and women alike -- and they will prophesy.

18 その日には私は私のしもべにも私の霊を注ぎます。男にも女にも。そして彼らは預言します。

19 And I will cause wonders in the heavens above and signs on the earth below -- blood and fire and clouds of smoke.

19 そして私は天に不思議なわざを起こし、下の地にはしるしを示します。血と火と煙の雲です。

20 The sun will become dark, and the moon will turn blood red before that great and glorious day of the Lord arrives.

20 偉大で輝かしい主の日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなります。

21 But everyone who calls on the name of the Lord will be saved.’

21 しかし主の名を呼ぶ者はみな救われます。』

22 “People of Israel, listen! God publicly endorsed Jesus the Nazarene by doing powerful miracles, wonders, and signs through him, as you well know.

22 イスラエルのみなさん、聞いてください。みなさんがよく知っているように、神さまはナザレの人イエスさまを通して力ある奇跡と不思議としるしを行うことで、イエスさまを公に認めたのです。

23 But God knew what would happen, and his prearranged plan was carried out when Jesus was betrayed. With the help of lawless Gentiles, you nailed him to a cross and killed him.

23 しかし神さまは何が起こるかを知っていました。そしてイエスさまが裏切られたとき、神さまがあらかじめ予定していた計画が実行されたのです。律法を知らない異邦人の力を借りて、あなた方はイエスさまを十字架につけて殺しました。

24 But God released him from the horrors of death and raised him back to life, for death could not keep him in its grip.

24 しかし神さまはイエスさまを死の恐怖から解放し、生き返らせました。なぜなら死はイエスさまを支配していることができなかったからです。

25 King David said this about him: ‘I see that the Lord is always with me. I will not be shaken, for he is right beside me.

25 ダビデ王はかつてイエスさまについて言いました。『私は主がいつも自分と共にいるのを見ています。主が私のすぐ横にいるので、私は揺り動かされません。

26 No wonder my heart is glad, and my tongue shouts his praises! My body rests in hope.

26 私の心が喜び、私の舌が主の賛美を叫ぶのに不思議はありません。私の肉体は希望の中に安らぎます。

27 For you will not leave my soul among the dead or allow your Holy One to rot in the grave.

27 なぜならあなたは私の魂を死者の中に置くことも、あなたの聖なる者を墓の中で腐らせることもありません。

28 You have shown me the way of life, and you will fill me with the joy of your presence.’

28 あなたは私にいのちの道を見せてくれました。そしてあなたはあなたの存在の喜びで私を満たしてくださいます。』

29 “Dear brothers, think about this! You can be sure that the patriarch David wasn’t referring to himself, for he died and was buried, and his tomb is still here among us.

29 「兄弟たち、このことを考えてみてください。父祖ダビデが自分のことを言っていたのではないことは確かです。なぜならダビデは死んで葬られ、墓はいまでも私たちのところにあるからです。

30 But he was a prophet, and he knew God had promised with an oath that one of David’s own descendants would sit on his throne.

30 しかしダビデは預言者でした。そして神さまがダビデの子孫のひとりを彼の王座に座らせると誓って約束したことを知っていたのです。

31 David was looking into the future and speaking of the Messiah’s resurrection. He was saying that God would not leave him among the dead or allow his body to rot in the grave.

31 ダビデは未来をのぞき見て救世主の復活のことを言ったのです。神さまは救世主を死者の中に置いておかず、救世主の身体を墓の中で腐るままに捨て置かないと言ったのです。

32 “God raised Jesus from the dead, and we are all witnesses of this.

32 神さまはこのイエスさまを死者の中からよみがえらせました。私たちはみな、それを目撃したのです。

33 Now he is exalted to the place of highest honor in heaven, at God’s right hand. And the Father, as he had promised, gave him the Holy Spirit to pour out upon us, just as you see and hear today.

33 いまイエスさまは神さまの右にある天の最高の名誉の場所へとあげられました。そして父なる神さまは、約束どおり、私たちに注ぐようにと聖霊をイエスさまに与えたのです。あなた方が今日ちょうど見て聞いたとおりです。

34 For David himself never ascended into heaven, yet he said, ‘The Lord said to my Lord, “Sit in the place of honor at my right hand

34 ダビデ自身は天に上ったわけではありません。それなのに言っています。『主は私の主に言われた。 私の右手の名誉の場所に座っていなさい、

35 until I humble your enemies, making them a footstool under your feet.”’

35 私があなたの敵をくじいて、あなたの足の下の足台とするまで。』

36 “So let everyone in Israel know for certain that God has made this Jesus, whom you crucified, to be both Lord and Messiah!”

36 ですからイスラエルのすべての人に、あなた方が十字架にかけたこのイエスさまを、神さまが主であり救世主にしたのだと確実に知らせなければなりません。」

37 Peter’s words pierced their hearts, and they said to him and to the other apostles, “Brothers, what should we do?”

37 ペテロの言葉は人々の心を刺しました。そして人々はペテロと他の使徒たちに言いました。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」

38 Peter replied, “Each of you must repent of your sins and turn to God, and be baptized in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins. Then you will receive the gift of the Holy Spirit.

38 ペテロは答えました。「あなた方のひとりひとりが自分の罪を後悔し、神さまに向き直らなければなりません。そしてあなたの罪の許しのために、イエス・キリストの名前によって洗礼を受けるのです。そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。

39 This promise is to you, to your children, and to those far away -- all who have been called by the Lord our God.”

39 この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」

40 Then Peter continued preaching for a long time, strongly urging all his listeners, “Save yourselves from this crooked generation!”

40 それからペテロは長い時間説教を続けて、聞いている人たちに強く迫りました。「この曲がった時代からあなた方自身を救いなさい。」

41 Those who believed what Peter said were baptized and added to the church that day -- about 3,000 in all.

41 ペテロの言ったことを信じた人たちは、その日に洗礼を受けて教会に加えられました。全部で3000人ほどです。




ミニミニ解説

「使徒の働き」の第2章です。

前回、第2章の冒頭、五旬節(ペンテコステ)の日に信者が一箇所に集まっていると、突然、上空からごうごうと激しく風が吹くような音がして、それから炎のような、あるいは火の舌のようなものが現われて、信者たちひとりひとりの上にとどまります。するとそこにいた信者の全員が聖霊に満たされて、一度も学んだことのないさまざまな外国語で神さまを褒め称える言葉をベラベラと話し始めたのです。異言(いげん)の現象です。地中海沿岸の外国から五旬節のためにエルサレムを訪れていたたくさんの人々が、いったい何の騒ぎかと集まって来て、信者たちが自国の言葉を話しているのを耳にして驚きますが、中には信者たちが酔っているのだろうという人たちもいました。

そこで第14節、ペテロが他の十一人の使徒と共に前に進み出て話し始めます。しかしその内容は、エルサレムから100キロも北へ離れたガリラヤ地方の漁師が、たくさんの群衆を前に話せるような内容とはとても思えません。イエスさまが以前弟子たちに、人々の前で話す機会が来たら何を話せば良いのかと心配するには及ばないと言ったとおりです。ペテロは明らかに聖霊に導かれて話しています。ペテロは最初に朝の九時という時間はたくさんの人が酒に酔うには早すぎると、冷静に状況を説明した上で、いま自分たちの目の前で起こっている不思議な現象は、実は旧約聖書のヨエルの預言書の中にあらかじめ予告されていたことなのだと言います。これは聞いているユダヤ人たちの心をつかむ効果的な導入だと思います。

引用箇所はJoel 2:28-32(ヨエル書第2章第28節~第32節)です。

「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」([新改訳])。

つまり信者たちに聖霊が注がれて、神さまから預かった言葉をベラベラと語り出す不思議な現象は、この第28節と第29節の預言の成就だと説明します。ヨエルの預言は第30節以降、「主の大いなる恐るべき日」の説明に入りますから、第28節と第29節の預言が成就された以上、終わりの日の到来が近いのではないかという危機感がユダヤ人の間に募ります。

ペテロの話はヨエルの預言の導入を終えて第22節から本題に入ります。ペテロは「イスラエルのみなさん、聞いてください。」と改めて周囲の群衆の注意を集めます。まずペテロはイエスさまの伝道活動を思い起こさせるため、神さまはナザレの人イエスさまを通して力ある奇跡と不思議としるしを行うことで、イエスさまを公に認めたのだと話し、イエスさまが神さまから遣わされたこと、それはイエスさまの行った奇跡の数々で証明できることを伝えます。それからその後で起こったイエスさまの十字架刑は、神さまが最初から用意していた計画の実行なのだと伝えます。ローマ帝国による十字架刑は神さまの計画のために利用されたのだと言います。ここまでは、ペテロの話を聞いている群衆もよく知っている情報です。既知の出来事がペテロによって聖書に沿って説明されていきます。そして群衆は最後に、まだ知らなかった新しい情報を耳にします。それが第24節です。神さまはイエスさまを死から解放し、生き返らせたと言う知らせです。神さまの計画どおりに殺されたイエスさまは、計画を成就した後で神さまによってよみがえらされたと言うのです。これがペテロが群衆に伝えたいメッセージの中心部分でしょう。

それからペテロはこの事実を補足するために、イエスさまの復活までもが、旧約聖書に預言されていたのだと、再び聖書の引用を示します。引用箇所はPsalm 16:8-11(詩編第16章第8節~第11節)のダビデによる詩です。

「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」( [新改訳])。

この中の第10節の「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」が、復活の預言なのだと説明します。そして神さまはダビデに「いのちの道」を示すのです。

第29節、ペテロはこの部分の「私のたましい」とか「あなたの聖徒」が、ダビデ自身のことを言っているのではない、と言います。その根拠は自分たちがダビデが死んだことと、その墓の存在を知っているからだと言います。つまりダビデはいまも「よみ」に置かれ、墓の穴の中にいることになります。ちなみに「よみ」には「黄泉」の漢字があてられ、それは死者の魂が送られ、終わりの日に行われる最後の審判までの時間を待つ場所のことです。

第30節~第31節、これがダビデ自身のことではないとしたらいったい誰のことなのか。ペテロはダビデは預言者だったので、神さまに未来を見せていただいてそのことを書き留めたのだと言います。 また、ダビデが神さまがダビデの子孫のひとりを彼の王座に座らせると誓って約束したことを知っていたと言いますが、それは、2 Samuel 7:12-14(サムエル記第二第7章第12節~第14節)に基づいています。これは神さまが預言者ナタンにダビデに告げるようにと授けた言葉で、ナタンがダビデ王に告げて言っています。引用の中の「あなた」はダビデ王のことです。

「12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる」([新改訳])。

これはダビデが死んだ後にダビデの家から出る世継ぎの子が王となってイスラエル王国が確立し、その王国の王座は永久に立つ、という予告です。この預言は一度は実現したように見えて、ダビデの世継ぎのソロモンがダビデの次に第三代の王となると、ソロモン王の代でイスラエルは栄華を極めて巨大な王国となりました。しかしソロモンの子供の代でイスラエルは南北に分裂してしまい、最終的には北朝のイスラエルも南朝のユダも滅びてしまうのです。つまり王座は永久には立たなかったので、この預言は成就していないのです。

ソロモンの次の代でイスラエルが分裂し、後に滅びてしまったことを知っている後の世の人たちは、この預言がソロモンを指していないだろうと考えられるのですが、果たしてこれを聞いた時点でのダビデはナタンの言葉を受けて、どのように思ったでしょうか。自分の次にはソロモンが王となり、その王国が永遠に続くのかも知れないと考えたでしょうか。ペテロはそれはなかったと言っているのです。ダビデは預言者として神さまから未来を示す幻を見せてもらったと言うのです。その幻の中では、自分の家系から出たイエスさまが死者の中からよみがえり、終わりの日には地上へ再来してサタンを葬り去り、ついには永久に続く王国を打ち立てるのです。

第32節には、「神さまはこのイエスさまを死者の中からよみがえらせました」とあります。これがダビデが神さまから見せてもらった未来の絵です。そしてペテロの言葉は「私たちはみな、それを目撃したのです」と続きます。信者たちは復活したイエスさまに実際に会っています。そして身体に聖霊を受けています。だからこそ旧約聖書の部分部分を組み合わせて解釈し、ダビデが未来を見ていたのだとわかるのです。

第33節、天に昇ったイエスさまは「神さまの右にある天の最高の名誉の場所」にいると書かれています。ペテロはその根拠も詩編の中に求めます。Psalm 110:1(詩編第110章第1節)です。「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」( [新改訳])。 これはイエスさま自身が福音書の中で群衆に問いかけた一節です。Luke 20:41-44(ルカの福音書第20章第41節~第44節)です。「41 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。42 ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。43 「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』 44 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」」([新改訳])。

ここの解釈は少しややこしいです。ここにはダビデ自身の言葉で「主」が「私の主」に言っていると書いてあります。ふたりの別の「主」が登場しているのですね。そのうち「主」の方が「私の主」に話す内容が、「自分が敵をあなたの足台とするまでは、私の右の座に着いて待っていなさい」です。ダビデの「主」は神さまです。つまり「主」である神さまが「私はおまえの敵を倒しておまえの足下にひざまずかせる予定だから、それまでの間は自分の右側で待機して待っていなさい」と「私の主」に言ったのです。つまりこれは「主」である神さまが「私の主」のために舞台を整えてあげるよ、という約束なのです。神さまが敵を倒して舞台を整えてあげる人というのは、イスラエルにやがて現れる待望の救世主のことです。神さまが舞台を整えてあげる「私の主」が救世主なのだとしたら、ダビデはその人を「私の主」と呼んでいることになります。もし人々が信じるように救世主が「ダビデの息子」なのだとしたら、どうしてダビデは自分の息子を「私の主」と呼ぶのか、立場と呼び方がおかしいではないかと言うのがイエスさまの質問です。

ダビデの死後、約1000年を経てダビデの血を引く家系から出たイエスさまが十字架死で人類を救い、死者の中から復活して救世主となりました。ダビデは自分の死後、遠い将来に起こるイエスさまの復活と、「あなたの敵をあなたの足台とする」時、つまり「終わりの日」に神さまがサタンの計画を完全にくじく出来事を見て知っているのです。それが神さまがイエスさまに言った、「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」の意味なのです。

第36節がペテロによるここまでの話の結論です。「ですからイスラエルのすべての人に、神さまがこの、あなた方が十字架にかけたイエスさまを、主であり救世主にしたのだと確実に知らせなければなりません。」つまり、どうですかイスラエルのみなさん、イエスさまが私たちの主であり、待望の救世主なのですよ、と言っているのです。こうして読むとこれは理屈です。聖書はそのように解釈できる、と言う話です。しかしこのときのペテロたち信者にとっては理屈ではありません。大切なのは最初の信者たちは復活したイエスさまに実際に会っていると言うことです。彼らには理屈ではなく事実なのです。そして信者たちは復活したイエスさまを見ていない人たちに、そのことを伝えようとしているのです。聞き手の人たちは私たちと同じ立場です。ヨハネの福音書で、たまたま復活したイエスさまが現れた場所に居合わせなかった使徒のトマスは、他の使徒たちがイエスさまに会ったのだと言っても信じることを拒みました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言うのです。イエスさまが次にトマスを含む信者たちの前に現れたとき、イエスさまはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言っています。ペテロたち信者はイエスさまを見て信じました。しかしイエスさまを目撃することなくイエスさまを信じる人が祝福を受けるのです。

第37節、ペテロの説教を聞いて自分たちがまさに救世主を殺してしまったのだと心を刺された人々は、使徒たちに「私たちはどうしたらよいでしょうか」とたずねます。

第38節~第39節、ペテロは「あなた方のひとりひとりが自分の罪を後悔し、神さまに向き直らなければなりません。そしてあなたの罪の許しのために、イエスさま・キリストの名前によって洗礼を受けるのです。そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」と答えました。何度も書きましたが、聖書における「罪(sin)」とは「的を外すこと」の意味であり、つまりは神さまの期待から外れて神さまをガッカリさせることです。神さまはどうしてガッカリしたのか。それは神さまの送ったイエスさまを人々が救世主だと認めなかったからです。だから人々はいまこそ自分がどれほど神さまをガッカリさせたのかを考え、後悔し、イエスさまを救世主と認めなければなりません。

それからペテロの言葉は「罪の許しのために、イエス・キリストの名前によって洗礼を受けなさい」と続きます。イエスさまは一番最初にヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けて、そのときに鳩の姿をした聖霊を受けて伝道の活動を開始します。ヨハネの洗礼の儀式は人を水中にすっかり水没させる儀式ですが、このとき以降、福音書には洗礼の儀式は一度も登場しません。イエスさまは信者の誰にも洗礼を施していません。先ほど紹介したトマスの話でも、イエスさまは「信じる」という行為の大切さを言っているだけで、証拠として洗礼を受けろなどとは一言も言いません。信じるか信じないか、それは自分で決めることです。

一方、「Acts(使徒の働き)」や、初期の教会でやりとりされた書簡を読むと、当時の信者たちの間で洗礼の儀式が行われていたことがわかります。ここから「洗礼」についての誤解が生じてしまいます。つまり「洗礼」が天国行きの切符になる、洗礼の儀式を通過することが神さまとの和解には不可欠である、という誤解です。確かにイエスさまを信じると決めても、いざ洗礼を受けるとなると大きな覚悟を迫られます。洗礼を受けるためには、他の信者たちの前で、勇気を出して自分の口でイエスさまに対する信仰を告白しなければなりません。そういう意味で洗礼は、自分にクリスチャンとしての覚悟を促す、とてもよい実践だと思います。また自分がイエスさまを信じると、他の人の前で宣言する姿や、他の信者たちの見守る中で水没の儀式を通過して、大きな祝福を受ける姿は、神さまの目にも正しく映るはずです。しかし間違えてはいけないのは、洗礼と言う儀式が天国行きを約束するわけではないと言うことです。洗礼を受ける理由となった、自分がイエスさまを信じるという決心、その決心を神さまにお祈りとして自分の口で告げることで、信者と神さまとの間に契約が成立し、その契約がその人の罪の汚れを洗い流して、その人に天国行きの資格を与えるのです。

さてイエスさまを信じると何が起こるのでしょうか。ペテロが言います。「そうすればあなた方は聖霊の贈り物を受け取ります。この約束はあなた方と、あなた方の子どもたち、そして遠くにいる人たち、つまり私たちの神さまである主によって呼ばれたすべての人に対してなのです。」 イエスさまに対する信仰を告白し、神さまと契約を結んだ人には、聖霊が贈られ、聖霊はその人に宿るのです。聖霊は三位一体の神さまのひとつ、つまり自分の中に神さまを持つことになります。 聖霊を受ける資格はすべての人にあります。「私たちの神さまである主によって呼ばれた」と言うのは、人それぞれに異なりますが、何かがきっかけとなって神さまや聖書の福音と関わるようになる、その不思議な「きっかけ」を受けとった、というような意味でしょう。

第41節、この日、エルサレムでは3000人が信者に加わっています。


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