2016年01月20日

証(Testimony)

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これは私がどのようにしてクリスチャンになり、その後何が起こったかについての話です。クリスチャンは信者のこういう話を「Testimony(テスティモニー)」と呼びます。日本語の訳語は「証(あかし)」ですが、つまり「証言」のこと’です。


私の信じていたもの

私は2002年9月、39才のときにイエス・キリストを救い主として受け入れたことになっています。私は自分がクリスチャンの道を選んだとき自分で自分がしていることが信じられませんでした。私は自分自身でもまた周囲から見ても最も宗教から遠い人と思われていたからです。私は現実的かつ計画的な人間で極めて自律して生きていて、何というか「一番心配のない人間」として通っていたからです。ちなみにクリスチャンは「宗教」ではありません。宗教は心の穴のようなものを埋めるために「人間が追い求めるもの」ですがクリスチャンは神さまと「個人的な関係(personal relationship)」を結んだ人のことで、クリスチャンが信じる神さまは神さまの側から救いの方法を提供してくださいますから宗教とは方向が逆です。人間と神さまとの間は人間の努力で埋められるものではないのです。

自分は小さい頃(たぶん小学校の低学年の頃)から超自然的な存在について信じているものがありましたが、それが「神」とは思っていませんでした。私はそれをずっと「秩序」と呼んで来ていて、つまり宇宙の規則正しい運行や地球という「丸い物体」にへばりついて生きている動植物を見て「これはぜったい偶然の産物ではない」「宇宙には調和と不思議がある」「そこには何か不思議なハーモニーを保とうとする仕組みがある」と思っていました。それを私は「秩序」と呼んでいたのです。それは人格を持つ神ではなくて感情や意志とは無縁の機械みたいなものと思っていました。しかも読んだ本によると宇宙全体は少しずつ熱量的に均等になり最後にはすべてが終わる、世の中はそういう長い長い「死んでいく」「止まっていく」プロセスの上にあると思っていました。

一方で私は地球上では人間だけが「壊れている」と思っていました。人間は知恵や文明の発展を自慢するけれども、欲望に任せて欲を満たし下品に贅沢をむさぼるのは地上では人間だけです。そうやって宇宙の「秩序」に反して調和を破壊しているのは人間だけなので、人間は優れているのではなくて実は壊れていて他の動植物や自然環境は好き勝手を続ける人間のとばっちりを受ける被害者だと思っていました。

私がクリスチャンになる前の「宗教観」ですが、自分にとって宗教を信じる人と言うのは、非科学的な想像上の産物に頼らなければ生きられない「弱い人たち」で、そういうものは自分には不要だと思っていました。どちらかと言うとそう思う自分が誰よりも正しくて宗教を信じる人をバカにしていました。自分にとっての「死」はある日死んだらそこですべてが終わる瞬間だと思っていました。そこから先には自分には何もないのだと思っていました。一方で仏教には興味がありました。でもそれは自分が年をとったら暇つぶしに仏教の勉強をしたりお坊さんの話でも聞いてみようかと思っていたという程度です。でも仏教には宗派が多くてそれぞれの言い分が違うのなら何を根拠にして宗派を選べば良いのか、それを誰にきけばよいかがわからないし、もしどれかの宗派を選ぶのだとしてもそれは単に「信じることに決める」「信じた振りをする」のであって心の底から仏教を信じる自分はイメージできませんでした。


英語の聖書との出会い

2002年の夏に聖書と出会う機会がありました。私の家に近所のある教会からチラシが入り「無料でマンツーマンの英会話教室を開く」と書かれていました。私たち夫婦は(他の日本人と同様だと思いますが)英語には強い関心を持っていました。ただ「教会」が開催する英語教室なので「恐い」と思いました。新興宗教が引き起こすトラブルが社会問題化していますし、それ以前に宗教そのものをバカにしているのですから普段なら警戒して行かないはずでした。間違って危険な教会に行ったら洗脳されてしまうと本気で恐れました。

ところがいつもならそうだったはずがそのときだけは違ったのです。その少し前に妻が仕事で(当時、妻はミニコミ誌の取材記者でした)ある教会のアメリカ人の牧師と話す機会があって妻はその牧師と子育ての話をしたのでした。妻はその牧師は筋の通った良い話をしていたよと言っていました。私たちには息子がひとりいて当時は幼稚園を出たばかりでした。社会環境が悪化をたどる東京での子育てはこれから息子を育てていかなければならない私たち夫婦には一番大きな関心事だったのです。息子が通っていた幼稚園はたまたまキリスト教系の幼稚園でしたが、小学生になったうちの子供はクラスの他の子供たちと比べると、幼稚園でそれなりに正しくしつけられていることがわかりました。そういえばしばらく前までの日本ではお寺や地域の共同体が道徳教育に大きな役割を果たしていました。今回妻が会ったアメリカ人の牧師の話を考えると教育や共同体が崩れていく日本で子供を正しく教育できるのは宗教なのかも知れないと思いました。だからこのときばかりは教会に対する意識がいつもと違ってガードがやや下がっていたのです。

約束の期日にチラシを配った教会へ行くと教会ではその夏の間だけアメリカから二組のクリスチャンの夫婦を招いていて、私たち夫婦はさっそくそのうちの一組の夫婦とペアになりました。毎週土曜日の午後に1時間ずつ都合6回、教会でマン・ツー・マンの英会話のクラスを持ちました。私のパートナーはテネシー州メンフィスから来たジョージで教材は『ルカの福音書』の縮小版でした。実はこれは私にとっての最初の聖書との出会いではなくてほんの少しだけ聖書のことは知っていたのです。私は9歳のときに千葉県の市川市に住んでいたのですが、家の目の前が教会でその教会の牧師さんの息子が私の同級生だったのです。転校生の私は彼に誘われるまま2年ほどその教会の日曜学校に通いました。でもその教会で聖書を読んだ覚えはほとんどありません。覚えていたのは教会でもらった新約聖書に『~の福音書』やたくさんの『~人の手紙』が含まれていることくらいです。当時の私には日本語の聖書はとにかく難しくて読もうとしても何がなんだかわからないという印象でした。いまでも賛美歌に綴じ込まれていた「主の祈り」だけは覚えていますが、古い日本語ということもあり当時の私にはまったく意味不明でした。

ジョージと一緒に『ルカの福音書』を英語で読んで最初に驚いたのは聖書が物語だったことです。聖書がこんなにわかりやすい物語とは思いもよりませんでした。これがあのときと同じ聖書なのかと思いました。いまでも覚えているのですが千葉県の教会に通っていたときに歯医者に通わなければならなくなったことがあって本が好きだった私は待合室で読むための本として、多分に格好つける目的で教会の聖書を持って行ったのです。待合室で周囲の大人の目を意識しながら聖書の最初のページを開くと(それは『マタイの福音書』ですが)新約聖書の最初に書かれていたのは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、・・・」とこれが延々と続きます。私はそこでギブアップしてしまいました。これが私の最初の聖書体験だったのです。

私の家には息子が幼稚園の卒園時にもらってきた日本語の新約聖書がありましたからジョージと勉強している英語の教材でわからないところはその聖書で調べればわかりました。私は聖書の「章と節」の仕組みも知っていたのです。でも聖書が意外にもわかりやすい物語であったとしてもそこに書かれていることはナンセンスの連続でした。イエスが処女から生まれたかどうか、それが何だというのでしょうか。どうしてそれを議論する必要があるのでしょうか。そこに書かれていることを本気で信じる人の気持ちはまったく理解できませんでした。また私には『ルカの福音書』の中のイエスは独善的で威張り腐っていていけすかない人物にしか見えませんでした。

私は英語が得意な方なので何とかジョージを論破してやろうと次から次へと質問をして議論を挑みましたが、彼の答は「信仰」に集約されていてぜんぜんかみ合いません。彼はそれを「信じて」いるのです。彼は逆に「そんなに聖書がおもしろいのなら旧約聖書の創世記も読むといい」とすすめてくれて、その教会にあった聖書を貸してくれました(恐らく「NASB:New American Standard Bible」という版でした)。そこで私は途中から『創世記』と『ルカの福音書』を交互に英語の聖書から直接読むようになりました。『創世記』はと言うと『ルカの福音書』をさらにはるかに超越して奇想天外な話の連続また連続で、最初はバカバカしいとさえ思いましたが一冊の本として純粋におもしろかったです。そして「これが本当に本物の聖書なのか」「聖書って本当にこれでいいのか」「これが何千年も存在してきた本なのか」「自分はだまされているのではないか」「これは本当は聖書ではないのではないか」と真剣に考えました。


教会に通う

夏が終わるとジョージたちはアメリカへ帰ってしまって私は無料の英語教室と陽気な議論相手を失いました。私たち夫婦は英語の教会はアメリカ人の友人を作ったり英会話の勉強をするには最適な場所で、洗脳などの危険もないという結論に達しました。続きをやるならどこかの教会に通うべきだろうということでさっそく教会探しを始めました。せっかく英語の教会に通うのなら子供も日曜学校などで英語を学べたら良いと思って子供用のプログラムの充実した教会を探しました。子供は夏に私たちが英会話のクラスをやっている間はゲーム機で遊んでいただけだったのです。

私たちが通うことに決めた教会は以前は大型自動車用の倉庫だった建物の内部を改築した建物で、外見はまったく教会らしくないどちらかという汚い建物で、東京のずっと西の方の小さな通りに建っていました。ところが中に入るとそこは「アメリカ」そのものなのです。牧師さんも他の人たちもみんな陽気で大笑いしながらアメリカ英語をマシンガンのように話しています。その外と内のアンバランスがおもしろくて、さっそく自分たちも皆にならって正装をして(「大草原の小さな家」のように?)日曜日の朝の礼拝に通い始めました。そうするとなんだか自分たちがアメリカ人になったか映画の一部に入り込んだようで、「アメリカかぶれ」の私たち夫婦には楽しくて仕方ありませんでした。

ところが牧師さんの話はちんぷんかんぷんです。だいたい早口だし聖書に関する知識がほとんどない私には10%もわかりませんでした。もっと大変だったのは息子です。英語がまったくできない状態で両親から離れた別の部屋でアメリカ人に混じって日曜学校に入れられて大きなストレスをためていきました。すぐに息子を助けてくれる人が現れたのですが私の方でも息子がもらった教会の教材をわかる範囲で翻訳して教えてあげるようにしました。するとさすがに子供は柔軟性が高くて飲み込みが早くアメリカ人の中でもある程度やっていけることがわかると教会が好きになったようでした。


信仰を告白する

教会に通い始めて一ヶ月ほどした頃に教会の牧師さん夫婦が私たちの家に来て牧師さんが私に聖書から引用しながら救済の話の説明をしてくれました(このブログの「一番大切な話」に書かれている話です)。私は牧師さんがわざわざ来てくれたのだし教会に集う人たちが好きだし、みなが信じることを自分も受け入れてこのまま教会に通うことには特に問題を感じなかったので「私はイエスを信じる」「イエスを救世主として受け入れる」と言い牧師さんと一緒に信仰の告白のお祈りをしました。ですがこのときの私の告白は本当の信仰の告白ではなくて「どうですか。あなたはイエスを信じますか」と私の目をまっすぐに見て問う牧師さんに「いいえ」と言えなかっただけなのです。牧師さんをがっかりさせてしまったらせっかく見つけた素敵な秘密の隠れ家みたいな教会に通えなくなるのではないかと思ったのです。

話を聞くと実は妻も前日に信仰を告白していたのでした。牧師さんは私たちに「二人とも信仰の告白をしたのだから、教会でみなの前で洗礼を受けて正式に教会のメンバーになりなさい」と言って「洗礼(バプタイズ)」の意味を説明してくれました。このときの私は洗礼の意味をまったく取り違えていたのですが、これには素直に「はい」と言えず、私は手元にあった新約聖書を大急ぎで読み始めました。このときになって自分が何を正式に受け入れようとしているのか、どれほど軽率に「信じます」と言ってしまったのか、後戻りできない状況に追い込まれたような気持ちになったのです。それならば聖書に書かれていることをひととおり理解しておこうと思ったのですが新約聖書を読み終えても何が言いたいのか意味不明で、結局意味不明のまま妻と共に洗礼を受けました。夜の礼拝の後でみなの前でサブンと水に沈められて教会のメンバーから盛大に祝福を受けました。

私たち家族は毎週日曜日の朝の聖書の勉強会と礼拝に通っていましたが、すると教会で知り合いになった人たちから日曜日の夜の礼拝にも来ればと誘われました。そして夜の礼拝にも行くようになると今度は水曜日の夜の祈りの会にも来ればと誘われました。教会では子供向けとして金曜日の夜に「AWANA(アワナ)」、水曜日の夜に「Patch the Pirate(海賊パッチ)」というプログラムを持っていましたが、子供はどちらにも参加を始め、妻も息子をサポートするために一緒に参加してやがてプログラムの手伝いも始めました。これらのプログラムにはゲームが上手に組み込まれていて息子は英語にも関わらず他の子供に勝ち始めるととても楽しそうなのでした。私もその様子を見るのが楽しくて次々と教材を翻訳しては子供に教えて競争が有利になるように助けてあげました。そしてそうやって子供用の教材に接していくうちにそれが子供向けに書かれた教材であるが故に、聖書が何を教える本なのか、だいたいの枠組みが理解できるようになりました。キリスト教とは聖書に書かれた救世主イエスに基づく救済の計画を信じるか否か、それが問われる宗教なのだと理解しました。私自身も月に一度、土曜の朝の朝食と祈りの会に誘われて参加し、私たち家族は教会の活動にどんどん巻き込まれていきました。

それからこのブログでも使っている「NLT:New Living Translation」という英語の版の聖書との出会いも大変大きかったです。ジョージとやっていた無料英会話教室の最後に借りていた英語の聖書を返したのですが、そのときに自分の英語の聖書が欲しくなり Amazon.comで初めて聖書を買いました。Amazon.comは実に多様な聖書の版を扱っていて他の一般書籍と同様に各版には買った人の評価コメントが載っています。そのときたまたま読んだ「NLT」のコメントに好意的なコメントが多かったので試しに買ってみることにしました。「NLT」は借りていた聖書よりもさらに読みやすかったのでスイスイ読むことができました。

そうやって結局のところ私は聖書を読む機会をたくさん得て聖書についての教えや説教に触れ、神さまを信じる兄弟姉妹たちと多くの時間を過ごしたことになります。教会が定期的に開催する「Revival」(信仰を新たにするための伝道集会)と言うプログラムでは、一週間程度毎晩礼拝が開かれてその際にはアメリカから来た話者がいつもと違って大変わかりやすい福音の話をしました。月に一度の朝食会の最後には小さなグループになってお祈りをするのですが教会の人たちが日頃どういうお祈りをしているのかに接することができました。当時の私はほとんどお祈りなどしていなかったように思います。食事の前に一言二言、恥ずかしげに言うだけでした。ですが何かが変わり始めたことを自分の体で感じることができました。当時もうまく言えないなぁと思っていたのですが、それは自分が解放されていく、何かの重りから解き放たれて自由になり毎日が楽になっていく、そんな感じなのでした。


信仰の意味

そうやって私は「救世主イエスによる救済」とは何かを聖書から引用しながら論理的に説明さえできるようになりました。ところが私が説明できるようになったのは「宗教」としてのキリスト教の知識であって実は「信仰」ではなかったのです。

アメリカのルイジアナ州にある教会がやっているプログラムで「Faith Bible Institute」というビデオ講座による「Bible College」(聖書の専門学校コースで3年で修了)があり、私の教会もこのプログラムに参加しているのですが、私は教会の友人にしつこく誘われて2004年1月から受講を始めました。毎週月曜日の夜に3時間、教会の2階で他のアメリカ人の受講生と一緒にビデオを見て勉強しました。この講座は「聖書を知りたい、理解したい」と思う人に聖書をわかりやすく教えることを目的としていて、私はいよいよ体系立てて聖書を学習する機会を得ました。聖書全体の構成や教義の意味が全貌として明らかになり、それまでにあちこちで学んできた情報が一本の糸としてつながって毎週毎週「なるほどそうだったのか!」という発見の連続でした。このブログに書いてある情報もこの講座で学んだことがたくさん含まれています。

このプログラムの先生はJohn Yates(ジョン・イエーツ)という牧師さんなのですが授業では聖書を教えながらいつの間にか説教に移ってしまう傾向にあります。熱い牧師さんなのです。その中である日衝撃的な話がありました。先生は聞き手の私たちに向かってテレビの中から「あなた方は死後自分が天国に行けると思っていますか」とききました。私は自分はクリスチャンとなる選択をして信仰を告白したのだから論理的な理解に従えば当然自分は天国行ける、それが答だろうと思ってと聞いていました。すると先生は「答はノーです」と言いました。私にはそういう否定的なメッセージがクリスチャンの牧師さんの口から出ること自体が衝撃でした。先生は「人間は誰一人として天国行く資格などない」「だから天国に行ける人というのはそもそも一人もいない」「もし我々が天国に行けるのだとしたらそれは唯一神さまの恵みによるもので、救世主イエスの血の購いによるのだ」と言いました。これは私には大きな衝撃で心をグラグラと揺さぶられました。そして気がつくと先生はいままで気づかなかったのが不思議なくらい繰り返し繰り返し授業の中でその話をしているのでした。

その頃から私は神さまの存在を強く意識するようになり、夜には長い時間一人になってお祈りをするようになっていました。そして自分が小さい頃から信じていた宇宙の運行を司る「秩序」は実は神さまのことで神さまは宇宙を最初に創造してすべてを始めた方であり、私の知っていた「秩序」は冷たい機械などではなくて神さまには意志も感情もあり、愛にあふれ、人間に対して素晴らしい計画を持っているということがわかってきたからです。また私は大きいことも小さいことも悪いことができなくなっていきました。やろうとすると心が痛いのです。そして自分の周囲ではとても「偶然」と言えないような不思議な出来事が次々と起こり、それは他のクリスチャンの話と符合するのでした。それはときに苦難や試練の形を取って私や家族を襲い、自分はそういう出来事をひとつひとつ通過するたびに大きな汚れから順番に清められ、自分が謙虚にされて小さくされて行くのを感じました。そして自分がいろいろな無用な執着から解き放たれて自由になり、その一方で神さまの庇護や安全、神さまの正しさの枠の中に生きる喜びを知りました。神さまの枠の中にはまりながら、それがどれほどの自由かどれほどの喜びなのかかがわかってきました。

2005年1月のある夜いつものように一人でお祈りをしていたとき、突然自分がどれほど天国へ行く価値のない人間かがわかりました。これまで自分がどれだけ神さまの期待を裏切りどれだけ神さまをがっかりさせてきたかを感じました。神さまがそれまで自分の何を見てきたかを思い起こすととても悲しくなりました。そんな愚かで汚れた自分に手を差し伸べて導くなんてそんな必要などひとつもないのに、自分のようなつまらない存在のためにイエスという自分の息子を殺し自分の汚れの代償としてくださった神さま。私の人生にはずっとずっと昔からこうして神さまに出会うための道が敷かれていたこともわかりました。私は神さまの愛のありえないありがたさ、神さまの計画の深淵を知り、ありがたくてうれしくて申し訳なくて涙が止まらなくなりました。このとき自分は神さまに導かれている、守られている、救われていると100%確信しました。


宗教と信仰

「Faith Bible Institute」のビデオ講座も修了までわずかとなった2006年の10月にある出来事があって私はそのときから「教会とは何か」を深く考えさせられるようになりました。自分と教会の間に少し距離ができて、すると教会の中にいて教会のプログラムにどっぷりと巻き込まれているときには見えなかったことが見えるようになったのです。つまり自分は牧師さんや教会のメンバーの目から見て「良いクリスチャン」を演じることに一生懸命でそれが本当に神さまに対する誠実な気持ちから出て来たのではないことがわかりました。良いクリスチャンを演じる偽善者の自分は福音書の中でイエスが叱責するファリサイ派の人たちにそっくりだと思いました。聖書は神さまがそういうニセモノの信仰をどれほど嫌うかを繰り返し書いているのです。

この出来事のしばらく前から私は聖書が読みたくて読みたくて仕方がなくなり聖書の通読をするようになっていました。それまでも聖書はなんとなく読んでいたのですがこの頃からとにかく聖書が読みたくなって、聖書の言葉は私の乾いた心に染みこむように流れ込んで来ました。私は小さい頃の『マタイの福音書』体験や本当に読みやすい「NLT」との出会いもあって「日本語の聖書は難解だからダメ」と決めつけてきたところがあるのですが、聖書全体の構成が理解できると日本語の聖書も好きになりました。そうやって「NLT」で通読、「新改訳」で通読、「NLT」が改訂されるとそれでまた通読、今度は「新共同訳」で通読と取り憑かれたように聖書の通読を繰り返すようになりました。

お祈りの内容も大きく変わりました。ひとりでする夜のお祈りは長い間形式的な同じようなお祈りを毎日繰り返してきた感じでしたが、やがて本当に大切なことを自分の言葉で神さまに伝えるようなお祈りになりました。神さまは私のすべての願いを聞いていてそしてすべての願いに応えてくれていると感じられるようになりました。一日のうちに何回も神さまの存在を意識するようになり何かにつけて感謝したり助けや勇気を頼んだり謝ったりするようになりました。

神さまはわかりやすく目につくところから始めてだんだん内部の深いところへと進むように少しずつ少しずつ、でも確実に私を変えてくださいます。私が神さまの目に正しく映るようにと清めてくださいます。このプロセスには終わりはなくて今日も私はその過程の上にいます。本当にありがたいことです。苦しいこともたくさんありますが神さまと出会う前に戻りたいと思ったことはありません。



むすび

私は神さまが大好きです。同時に怖いです。神さまは本当に素晴らしい方で感謝の念に堪えません。こんなにすばらしい神さまのことをどうしたら人に伝えられるだろうと思います。神さまを信じるというのは表面的な宗教上の選択ではなく、一人一人の人間が失われていた神さまとの個人的な関係を取り戻すことです。それをなんとか上手に伝えたいのです。日本のことわざは「沈黙は金」と言い日本人は自分が周囲と異なることを恐れてとにかくみなと同じに行動したい周囲の中に埋没したいと思う傾向にあります。これは神さまは一人一人に計画を用意していると聖書に書かれていることに反しますが日本人はそれを受け入れたがりません。人が救われるためにはまず聖書やキリスト教に興味を持つところからスタートして、何かしらの形で神さまの言葉に触れ続けなければといけないと思うのです。神さまや聖書に対して疑問を持つことを恐れず自分の目で聖書に何が書かれているかを調べてもらいたいのです。

そういう意味では自分にとって「英語の聖書」「英語の教会」が果たした役割はとても大きいのです。そしていま私には「英語」をキーワードにして日本人に福音を伝えるための知識や経験や環境が整っています。これは神さまが私に日本人に福音を伝えるために用意してくれた機会であるとよくわかります。「英語」は日本人に福音を伝えるための有効なきっかけの一つであることに間違いありません。私を救い、このような素敵な機会を与えてくださった神さまに心の底から感謝し助けを乞います。

In Jesus,










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