ローマ人への手紙:第10章ローマ人への手紙:第9章

2015年07月23日

ローマ人への手紙第9章第1節~第33節:神さまによるイスラエルの選択、イスラエルの不信仰

ローマ人への手紙 第9章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


God’s Selection of Israel

神さまによるイスラエルの選択


1 With Christ as my witness, I speak with utter truthfulness. My conscience and the Holy Spirit confirm it.

1 キリストを私の証人として私はまったく正直に話します。私の良心と聖霊がこれを追認します。

2 My heart is filled with bitter sorrow and unending grief

2 私の心は苦い悲しみと終わることのない悲痛で満ちています。

3 for my people, my Jewish brothers and sisters. I would be willing to be forever cursed -- cut off from Christ! -- if that would save them.

3 それは私の民、私のユダヤの兄弟たちと姉妹たちのためのものです。もしそれが彼らを救うのなら、私は喜んで永遠の呪いを受け、キリストから切り離されましょう。

4 They are the people of Israel, chosen to be God’s adopted children. God revealed his glory to them. He made covenants with them and gave them his law. He gave them the privilege of worshiping him and receiving his wonderful promises.

4 彼らはイスラエル人、神さまの養子となるべく選ばれた人たちです。神さまはその栄光を彼らに明かしました。神さまは彼らと契約を結び、律法を与えました。神さまは彼らに、神さまを礼拝し素晴らしい約束を受け取る特権を与えました。

5 Abraham, Isaac, and Jacob are their ancestors, and Christ himself was an Israelite as far as his human nature is concerned. And he is God, the one who rules over everything and is worthy of eternal praise! Amen.

5 アブラハム、イサク、ヤコブは彼らの先祖です。そしてキリスト自身も、人としての特質に於いてはイスラエル人です。そしてキリストは神さまです。キリストはすべてのものを支配し、永遠の賞賛に値します。アーメン。

6 Well then, has God failed to fulfill his promise to Israel? No, for not all who are born into the nation of Israel are truly members of God’s people!

6 それでは神さまはイスラエルへの約束を果たすのに失敗したのでしょうか。違います。なぜならイスラエルの国に生まれた人の全員が真の神さまの人々のメンバーではありません。

7 Being descendants of Abraham doesn’t make them truly Abraham’s children. For the Scriptures say, “Isaac is the son through whom your descendants will be counted,” though Abraham had other children, too.

7 アブラハムの子孫であることが真にアブラハムの子供にはならないのです。聖書が言っています。「イサクがあなたの子孫たちとなる人たちが出る息子です。」 アブラハムには他にも子供がいたのですが。

8 This means that Abraham’s physical descendants are not necessarily children of God. Only the children of the promise are considered to be Abraham’s children.

8 これが意味するのは、アブラハムの物理的な子孫は必ずしも神さまの子供ではないと言うことです。約束の子供たちだけがアブラハムの子供とみなされるのです。

9 For God had promised, “I will return about this time next year, and Sarah will have a son.”

9 なぜなら神さまは約束しました。「私は来年の今ごろ戻って来ます。そしてサラは男の子を産みます。」

10 This son was our ancestor Isaac. When he married Rebekah, she gave birth to twins.

10 この息子が私たちの先祖のイサクでした。イサクがリベカと結婚したとき、リベカは双子を生みました。

11 But before they were born, before they had done anything good or bad, she received a message from God. (This message shows that God chooses people according to his own purposes;

11 しかしその双子が生まれる前に、まだ双子が善いことも悪いこともしていないうちに、リベカは神さまからメッセージを受けました。(このメッセージが神さまはご自身の目的によって人々を選ぶことを示しています。

12 he calls people, but not according to their good or bad works.) She was told, “Your older son will serve your younger son.”

12 神さまは人々を呼びます。しかしそれは人々の善い行いや悪い行いにはよりません。) リベカは伝えられました。「あなたの上の息子が下の息子に仕えることになるだろう。」

13 In the words of the Scriptures, “I loved Jacob, but I rejected Esau.”

13 聖書の言葉はこうです。「私はヤコブを愛したがエサウを拒んだ。」

14 Are we saying, then, that God was unfair? Of course not!

14 それでは私たちは神さまは不公平だったと言っているのでしょうか。もちろん違います。

15 For God said to Moses, “I will show mercy to anyone I choose, and I will show compassion to anyone I choose.”

15 なぜなら神さまはモーゼに言いました。「私は私が選ぶ者すべてに情けを示し、私は私が選ぶ者すべてに哀れみを示す。」

16 So it is God who decides to show mercy. We can neither choose it nor work for it.

16 だから情けを示すのを決めるのは神さまです。私たちがそれを選んだり、そのために努力することはできないのです。

17 For the Scriptures say that God told Pharaoh, “I have appointed you for the very purpose of displaying my power in you and to spread my fame throughout the earth.”

17 聖書には神さまがファラオに言ったと書いてあります。「私があなたを任命したのは、まさしくあなたの中に私の力を示すという目的のため、そして地球全体に私の名声を広めるためです。」

18 So you see, God chooses to show mercy to some, and he chooses to harden the hearts of others so they refuse to listen.

18 あなた方にもわかるように、神さまはある人たちには情けを示そうと決め、他の人たちには聞くことを拒むように心をかたくなにしようと決めるのです。

19 Well then, you might say, “Why does God blame people for not responding? Haven’t they simply done what he makes them do?”

19 するとあなた方は言うかも知れません。「神さまはなぜ人が応えないことを責めるのでしょうか。人はただ神さまがさせたことをしたのではないのですか。」

20 No, don’t say that. Who are you, a mere human being, to argue with God? Should the thing that was created say to the one who created it, “Why have you made me like this?”

20 そう言ってはいけません。あなた方は誰ですか。ただの人が神さまと議論するのですか。創造された物が創造した人に「どうしてあなたは私をこのように作ったのですか」と言うのですか。

21 When a potter makes jars out of clay, doesn’t he have a right to use the same lump of clay to make one jar for decoration and another to throw garbage into?

21 陶工が粘土から瓶を作るとき、同じ粘土のかたまりから、飾るための瓶をひとつ作り、もうひとつゴミを投げ込むための瓶を作る、そういう権利はないのでしょうか。

22 In the same way, even though God has the right to show his anger and his power, he is very patient with those on whom his anger falls, who are destined for destruction.

22 同じように神さまには怒りと力を示す権利がありますが、神さまは怒りが落ちる人たち、滅びが定められた人たちに対してとても辛抱強いのです。

23 He does this to make the riches of his glory shine even brighter on those to whom he shows mercy, who were prepared in advance for glory.

23 神さまがこれをするのは、神さまの栄光の財宝が、神さまが情けを示す人たち、あらかじめ栄光のために用意された人たちの上にもっと明るく輝くようになのです。

24 And we are among those whom he selected, both from the Jews and from the Gentiles.

24 そして私たちは神さまが選び出した人たちに属し、私たちはユダヤ人からも異邦人からも出てきています。

25 Concerning the Gentiles, God says in the prophecy of Hosea, “Those who were not my people, I will now call my people. And I will love those whom I did not love before.”

25 異邦人については神さまがホセアの預言の中で言っています。「私の民でなかった人たちを私は自分の民と呼ぼう。そして私が以前愛さなかった人たちを私は愛そう。」

26 And, “Then, at the place where they were told, ‘You are not my people,’ there they will be called ‘children of the living God.’”

26 そして「『あなた方は私の民ではない』と言われた場所で、彼らは『生きる神の子供たち』と呼ばれる。」

27 And concerning Israel, Isaiah the prophet cried out, “Though the people of Israel are as numerous as the sand of the seashore, only a remnant will be saved.

27 イスラエルについては預言者イザヤが叫びました。「イスラエルの人たちは海岸の砂のように大勢いるが、残された者だけが救われる。

28 For the Lord will carry out his sentence upon the earth quickly and with finality.”

28 それは主が地上への判決を素早く決定的に遂行するからだ。」

29 And Isaiah said the same thing in another place: “If the Lord of Heaven’s Armies had not spared a few of our children, we would have been wiped out like Sodom, destroyed like Gomorrah.”

29 イザヤは同じことを別の場所で言っています。「もし天の軍の主が、私たちの子供を何人か助けていなければ、私たちはソドムのように壊滅させられ、ゴモラのように破壊されたであろう。」



Israel’s Unbelief

イスラエルの不信仰


30 What does all this mean? Even though the Gentiles were not trying to follow God’s standards, they were made right with God. And it was by faith that this took place.

30 これら全部はどういう意味でしょうか。異邦人は神さまの基準に従おうとはしませんでしたが、神さまに対して正しくされました。これが起こったのは信仰によります。

31 But the people of Israel, who tried so hard to get right with God by keeping the law, never succeeded.

31 しかしイスラエルの人たちは、律法を守ることで神さまに対して正しくなろうと懸命に努力して、成功しませんでした。

32 Why not? Because they were trying to get right with God by keeping the law instead of by trusting in him. They stumbled over the great rock in their path.

32 どうしてでしょうか。それはイスラエルの人たちが、神さまを信じる代わりに、律法を守ることで神さまに対して正しくなろうと努力したからです。イスラエルの人たちは途上にある大きな石につまずいたのです。

33 God warned them of this in the Scriptures when he said, “I am placing a stone in Jerusalem that makes people stumble, a rock that makes them fall. But anyone who trusts in him will never be disgraced.”

33 神さまはイスラエルの人たちに聖書の中で次のように言って警告しました。「私は人々をつまずかせる石をエルサレムに置く。イスラエルの人々を転ばせる岩だ。しかし神さまを信頼する者は恥をかくことはない。」 




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第9章です。

第9章~第11章は、内容ががらりと変わり、ユダヤ人についての話になります。パウロは自分自身がユダヤ人であり、そのため、ユダヤ人がたどる運命を苦い悲しみと終わることのない悲痛をもって書き綴ります。しかしパウロは最後に、自分の知るイスラエルについての秘められた奥義を明かします。

第1節、「キリストを私の証人として私はまったく正直に話します。私の良心と聖霊がこれを追認します。」

パウロは自分の知る真実を正直に話します。証人はキリストであり、自分の良心と聖霊も自分の証言を追認するとします。

第2節、「私の心は苦い悲しみと終わることのない悲痛で満ちています。」

パウロの心は苦い悲しみと終わることのない悲痛で満ちています。それはパウロ自身がユダヤ人であるからに他なりません。

第3節、「それは私の民、私のユダヤの兄弟たちと姉妹たちのためのものです。もしそれが彼らを救うのなら、私は喜んで永遠の呪いを受け、キリストから切り離されましょう。」

パウロはもしそれがユダヤ人を救うことになるのであれば、自分は神さまから呪いを受け、キリストから切り離されても良いと書きます。パウロにとって神さまとキリストは自分の存在のすべてです。もしユダヤ人が救われる道があるのなら、そのすべてを捨てる覚悟がある、と書きます。ここから先のことはそれほどの覚悟をもって語られます。

第4節、「彼らはイスラエル人、神さまの養子となるべく選ばれた人たちです。神さまはその栄光を彼らに明かしました。神さまは彼らと契約を結び、律法を与えました。神さまは彼らに、神さまを礼拝し素晴らしい約束を受け取る特権を与えました。」

「イスラエル」と言うのは神さまがユダヤ人につけた名前です。Genesis 32:27-28(創世記第32章第27節~第28節)を引用します。アブラハムの孫にあたるヤコブは、ある夜、神さまか、神さまの使いと思われる人物と格闘して勝利します。これは格闘後のその人物との会話です。

「27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」 28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」([新改訳])。

その神さまが命名したイスラエル人とは、神さまの子供になるべく選ばれた人たちです。神さまはイスラエル人の前で数々の壮大な奇跡を行って見せて、神さまの栄光を示しました。神さまはアブラハムやモーゼやダビデと契約を結び、モーゼを通じて律法を授けました。神さまはイスラエル人に神さまを礼拝する特権と、絶大なる祝福を受ける特権を与えました。

第5節、「アブラハム、イサク、ヤコブは彼らの先祖です。そしてキリスト自身も、人としての特質に於いてはイスラエル人です。そしてキリストは神さまです。キリストはすべてのものを支配し、永遠の賞賛に値します。アーメン。 」

イスラエル人の系譜はアブラハムから開始し、イサク、ヤコブと続いて行きます。そして神さまであるイエスさまも、人としてはイスラエル人として地上に立ちました。そのイエスさまはすべてを支配する全知全能の神さまであり、永遠の称賛に値します。

第6節、「それでは神さまはイスラエルへの約束を果たすのに失敗したのでしょうか。違います。なぜならイスラエルの国に生まれた人の全員が真の神さまの人々のメンバーではありません。」

「Romans (ローマ人への手紙)」を書いている時点で、パウロはユダヤ人のグループから敵視され、いのちを狙われている状態にあります。そのユダヤ人たちは救世主イエスさまを通じた人類救済の知らせを認めず、受け入れない人たちであり、つまり神さまから正しいと認められて天国に入ることができない人たちです。と言うことはそのユダヤ人たちは天国に用意されている絶大なる祝福の恩恵にあずかれないと言うことになり、そうするとそれは旧約聖書に書かれた神さまがユダヤ人に与えた約束に反するかのように思えます。これについてパウロは、そうではないと、「イスラエルの国に生まれた人の全員が真の神さまの人々のメンバーではありません。」と書きます。

第7節、「アブラハムの子孫であることが真にアブラハムの子供にはならないのです。聖書が言っています。「イサクがあなたの子孫たちとなる人たちが出る息子です。」 アブラハムには他にも子供がいたのですが。」

「アブラハムの子孫であることが真にアブラハムの子供にはならない。」 これは一般的にユダヤ人が考えていることに反します。ユダヤ人は自分の家系図を開祖のアブラハムにまで遡れることが、自分が天国に入れることの証明だと考えているのです。それが間違いであることをパウロは聖書の中から示します。

アブラハムの妻のサラは不妊に悩み、血筋を残すため、女奴隷のハガルと子供を作るようにアブラハムに提案します。そうして最初に生まれたのがイシュマエルで、つまりアブラハムの家の長子はハガルが生んだイシュマエルと言うことになります。ハガルはイシュマエルを生んだことで、主人であるサラに対して横柄に当たるようになります。アブラハムが百才のときにサラはイサクを生みました。Genesis 21:9-13(創世記第21章第9節~第13節)はイシュマエルとイサクについてです。

「9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」([新改訳])。

パウロはこの部分に言及し、長子のイシュマエルがいたにも関わらず、神さまが「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と、アブラハムの子孫と呼ばれる人たちの血筋をイサクに限定したことに着目します。イシュマエルはアブラハムの実子です。血筋を遡ってアブラハムに到達できます。しかしイシュマエルはアブラハムの子孫とは呼ばれないことになるのです。実子であるイシュマエルがアブラハムと子孫と呼ばれないのですから、自分の家系図を開祖のアブラハムにまで遡れることは、自分をアブラハムの子孫と呼ぶ理由にはならない、と言うのがパウロの主張です。ちなみに引用の最後に「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」と書かれているように、イシュマエルはアラブ人の開祖となります。

第8節、「これが意味するのは、アブラハムの物理的な子孫は必ずしも神さまの子供ではないと言うことです。約束の子供たちだけがアブラハムの子供とみなされるのです。」

アブラハムの子孫が誰かを決めるのは、アブラハムにまで遡れる家系図ではなく、「約束」なのです。

第9節~第12節、「なぜなら神さまは約束しました。「私は来年の今ごろ戻って来ます。そしてサラは男の子を産みます。」 この息子が私たちの先祖のイサクでした。イサクがリベカと結婚したとき、リベカは双子を生みました。しかしその双子が生まれる前に、まだ双子が善いことも悪いこともしていないうちに、リベカは神さまからメッセージを受けました。(このメッセージが神さまはご自身の目的によって人々を選ぶことを示しています。神さまは人々を呼びます。しかしそれは人々の善い行いや悪い行いにはよりません。) リベカは伝えられました。「あなたの上の息子が下の息子に仕えることになるだろう。」」

まずイサクについて神さまがアブラハムに与えた約束は、Genesis 17:17-22(創世記第17章第17節~第22節)です。

「17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」 18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」 19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」 22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」([新改訳])。

イサクはこの約束に沿って生まれた子供なのです。ちなみにイサクが誕生したとき、アブラハムは百歳、サラは九十歳ですから、イサクが通常の性の営みを通じて生まれたとは考え難く、神さまがサラを受胎させる奇跡を起こしたと考えられます。そのイサクはリベカと結婚し、リベカは次の血筋となるヤコブを生みますが、ヤコブはリベカが生んだ双子のうちのひとりなのです。つまりこのときもまたアブラハムの子孫としての血筋は、双子のうちのひとりに限定されたことになります。Genesis 25:21-26(創世記第25章第21節~第26節)です。

「21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」 24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。」([新改訳])。

リベカもまた不妊に苦しみ、イサクの祈りによって身ごもっています。リベカは双子を身ごもり、双子はリベカの腹の中で暴れるようになります。これについて神さまは「兄が弟に仕える」として、やはり長子ではなく、弟を血筋に選んでいます。

聖書の中で神さまは、意図的に小さい者や弱い者、虐げられた者など、普通であれば権利を主張できる立場にない者を選んでいる節があります。それは神さまの子供が誰かを決めるのは律法などの一般的なルールではないことを示すためであると思われます。

イスラエルの英雄であるダビデ王が選ばれたとき、神さまは預言者のサムエルをダビデの父であるエッサイの家に派遣します。サムエルはダビデの兄たちを見て、確かに神さまが選ぶ人に違いないと思いますが、神さまは「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言います。エッサイは、まさか末っ子のダビデが選ばれるとは思っていないので、そのとき羊の番に出していたのです。最後に連れてこられたダビデが神さまの目に叶う人なのでした。

それから第11節~第12節には、「まだ双子が善いことも悪いこともしていないうちに、リベカは神さまからメッセージを受けました。(このメッセージが神さまはご自身の目的によって人々を選ぶことを示しています。神さまは人々を呼びます。しかしそれは人々の善い行いや悪い行いにはよりません。)」と書かれています。

神さまはヤコブがまだリベカのお腹の中にいる間に、世の中に誕生する前の段階で選択を終えていたことになります。これは神さまの選択の基準が人の行いによらないことを示しています。ダビデが選ばれた箇所で神さまが「主は心を見る」と言っているように、神さまは人が生まれる前からその人の心を知っていて、それを見て選び、自分のところへ呼んでいるのです。

第13節、「聖書の言葉はこうです。「私はヤコブを愛したがエサウを拒んだ。」

これはMalachi 1:2-3(マラキ書第1章第2節~第3節)からの引用です。

「2 「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。--主の御告げ--わたしはヤコブを愛した。3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」([新改訳])

神さまは兄のエサウではなく、弟のヤコブを選択して愛しました。エサウはユダヤの南に住んだエドム人の開祖となります。

第14節~第16節、「それでは私たちは神さまは不公平だったと言っているのでしょうか。もちろん違います。なぜなら神さまはモーゼに言いました。「私は私が選ぶ者すべてに情けを示し、私は私が選ぶ者すべてに哀れみを示す。」 だから情けを示すのを決めるのは神さまです。私たちがそれを選んだり、そのために努力することはできないのです。」

「私は私が選ぶ者すべてに情けを示し、私は私が選ぶ者すべてに哀れみを示す。」の部分はExodus 33:16-19(出エジプト記第33章第16節~第19節)からの引用です。

「16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」 17 主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」」([新改訳])

私たちが「神さまは不公平だ」と主張するのは、私たちが、自分の正しさを行いや成果で示すことができず、神さまの選択が、自分の全く関与できない場所で、すべて神さまの意志だけで行われていることについてでしょう。しかし神さまは「恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」方なのです。ご自身で選んで決めた方に祝福を与え、哀れみを与える方であり、それを獲得するために人間の側でできる努力は何もないのです。

第17節~第18節、「聖書には神さまがファラオに言ったと書いてあります。「私があなたを任命したのは、まさしくあなたの中に私の力を示すという目的のため、そして地球全体に私の名声を広めるためです。」 あなた方にもわかるように、神さまはある人たちには情けを示そうと決め、他の人たちには聞くことを拒むように心をかたくなにしようと決めるのです。」

ファラオはエジプトの王です。[新改訳]では「パロ」と書かれます。紀元前1500年頃、ユダヤ人はエジプトの地で奴隷状態にあり、神さまから派遣されたモーゼがユダヤ人を率いてエジプトから脱出させてパレスチナへと連れて行きます。その際に神さまはエジプトの地に次々と大規模の厄災を起こすのですが、ファラオは心を堅くしてユダヤ人の出国を許可しません。そうやってファラオの心を頑固にしていたのは実は神さまであると聖書には書かれています。Exodus 9:13-17(出エジプト記第9章第13節~第17節)です。

「13 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。14 今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。15 わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。16 それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。17 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。」([新改訳])。

モーゼが神さまの言葉をファラオに伝えますが、その中で神さまはファラオに「わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」と言ったと書かれています。神さまがエジプトの地に起こす大規模な厄災のわざは神さまの栄光に他なりませんが、このときのファラオは神さまの力を世の中に誇示するために利用されているのです。つまり神さまは「恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」方であると同時に、自分の力を示す目的で、自分の決めた人の心を頑固にして、自分の言葉に耳を傾けないようにもするのです。

第19節、「するとあなた方は言うかも知れません。「神さまはなぜ人が応えないことを責めるのでしょうか。人はただ神さまがさせたことをしたのではないのですか。」」

これには当然のように反対意見が出ます。人が心を頑固にして神さまのメッセージにを聞こうとしないとき、どうして神さまはその人を責めるのか、それはそもそも神さまがそのようにしていることではないのか、と。

第20節~第21節、「そう言ってはいけません。あなた方は誰ですか。ただの人が神さまと議論するのですか。創造された物が創造した人に「どうしてあなたは私をこのように作ったのですか」と言うのですか。陶工が粘土から瓶を作るとき、同じ粘土のかたまりから、飾るための瓶をひとつ作り、もうひとつゴミを投げ込むための瓶を作る、そういう権利はないのでしょうか。」

この反対意見に対して人間の側に納得できる答えはないのです。宇宙も地球も、創造主である神さまが造ったものである以上、それをどうするかは神さまの勝手だからです。陶工が粘土から瓶を作る話は旧約聖書のJeremiah 18:3-6(エレミヤ書第18章第3節~第6節)を想起させます。

「3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。 6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。-- 主の御告げ -- 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」([新改訳])。

陶工は自分で造った器を壊したり作り替えたり、自分の意志で制作物を好きな形に作ります。同じ粘土から装飾用の美しい瓶を造るのも、ゴミを投げ込むための粗雑な瓶を造るのも同じ陶工です。宇宙も地球も神さまの手の中にあるのですから、それを神さまがどのように取り扱おうと、被造物である人間の側から文句を言える立場にはありません。

第22節~第23節、「同じように神さまには怒りと力を示す権利がありますが、神さまは怒りが落ちる人たち、滅びが定められた人たちに対してとても辛抱強いのです。23 神さまがこれをするのは、神さまの栄光の財宝が、神さまが情けを示す人たち、あらかじめ栄光のために用意された人たちの上にもっと明るく輝くようになのです。」

神さまは天国に入れるために呼ぶ人たちと、怒りを落として滅びの道に行くことを定める人を分けています。しかし滅びへの道に定めた人たちについては、やみくもに怒りを落とすことはせず、そういう人たちにも辛抱強くあたります。神さまが選んだ人たちが、終わりの日に神さまと分かち合う栄光の財宝がありますが、神さまが滅びへの道に定めた人たちを地上に置いておくのは、その財宝をより強く明るく輝かせるためなのです。

なんだか酷い話のようにも読めますが、誰が神さまに選ばれた人で、誰が滅びに定められた人なのか、私たちにはわかりません。私自身、神さまを知ったのは39才のときでした。だから今の時点でクリスチャンではない人が、最終的に救われないと決めることは私たちにはできないですし、すでに死んだ人についても、その人が神さまに選ばれた人だったのか、そうではなかったのか、私たちに知る術はないと思います。

エレミヤ書の上の陶器師のくだりの続きは次のようになっています。Jeremiah 18:7-10(エレミヤ書第18章第7節~第10節)です。

「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。 」([新改訳])。

第24節~第26節、「そして私たちは神さまが選び出した人たちに属し、私たちはユダヤ人からも異邦人からも出てきています。異邦人については神さまがホセアの預言の中で言っています。「私の民でなかった人たちを私は自分の民と呼ぼう。そして私が以前愛さなかった人たちを私は愛そう。」 そして「『あなた方は私の民ではない』と言われた場所で、彼らは『生きる神の子供たち』と呼ばれる。」

クリスチャンは幸運にも神さまが選び出した人たちに属する人たちであり、クリスチャンはユダヤ人からも異邦人からも出てきています。私は「幸運にも」と言う表現が正しいと思うのです。私はクリスチャンになるまでは、まったく神さまの目に正しいと映るはずのない人生を歩んでいましたので、どうして自分が選ばれる側に含めていただけたのか理由がわかりません。神さまが小さい者や愚かな者を選ぶのは、誰も神さまの前で自分を誇ることができないようにだと言いますが、だとしたら自分がそれほどまでに愚かで小さい人間であったことを喜ぶしかありません。本当に幸運です。

ホセア書の引用は、Hosea 2:21-23(ホセア書第2章第21節~第23節)です。

「21 その日、わたしは答える。-- 主の御告げ -- わたしは天に答え、天は地に答える。22 地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え、それらはイズレエルに答える。23 わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」([新改訳])。

後半は、Hosea 1:10(ホセア書第1章第10節)です。

「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。」([新改訳])。

第27節~第29節、「イスラエルについては預言者イザヤが叫びました。「イスラエルの人たちは海岸の砂のように大勢いるが、残された者だけが救われる。それは主が地上への判決を素早く決定的に遂行するからだ。」 イザヤは同じことを別の場所で言っています。「もし天の軍の主が、私たちの子供を何人か助けていなければ、私たちはソドムのように壊滅させられ、ゴモラのように破壊されたであろう。」

最初の引用は、Isaiah 10:20-23(イザヤ書第10章第20節~第23節)です。

「20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。」([新改訳])。

つまり「イスラエルの残りの者」は「ヤコブの家ののがれた者」であり、ユダヤ人の中で、神さまに立ち返り、神さまに頼るようになる人たちです。たとえユダヤ人の数が海辺の砂粒のように増えても、神さまに立ち返るのはその「残りの者」だけで、「残りの者」を除くユダヤ人の壊滅は定められていて避けられない、ということでしょう。

後半の引用は、Isaiah 1:9(イザヤ書第1章第9節節)です。

「9 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」([新改訳])。

つまりその「残りの者」が残されなければ、神さまが旧約聖書の「Genesis 18-19(創世記第18章~第19章)」で、その邪悪さ故に、神さまが天から硫黄の火を降らして壊滅させたソドムのように全滅させられると言うことです。

第30節~第31節、「これら全部はどういう意味でしょうか。異邦人は神さまの基準に従おうとはしませんでしたが、神さまに対して正しくされました。これが起こったのは信仰によります。しかしイスラエルの人たちは、律法を守ることで神さまに対して正しくなろうと懸命に努力して、成功しませんでした。」

異邦人には神さまの善悪の基準である律法を知らない人がいたり、割礼を初めとしてユダヤの律法が求める善悪の基準を満たさずに生きている人が大多数です。しかし異邦人のクリスチャンは、それにも関わらず神さまの目に「正しい」と映ったのです。それは「信仰」によります。

一方のクリスチャンではないユダヤ人は、神さまから与えられた律法をすべてと考え、律法の要求を満たすことが神さまの目に正しく映る方法だと信じましたが、結局神さまの目に正しく映ることはできませんでした。

第32節~第33節、「どうしてでしょうか。それはイスラエルの人たちが、神さまを信じる代わりに、律法を守ることで神さまに対して正しくなろうと努力したからです。イスラエルの人たちは途上にある大きな石につまずいたのです。神さまはイスラエルの人たちに聖書の中に次のように言って警告しました。「私は人々をつまずかせる石をエルサレムに置く。イスラエルの人々を転ばせる岩だ。しかし神さまを信頼する者は恥をかくことはない。」」

引用は、Isaiah 8:12-16(イザヤ書第8章第12節~第16節)です。

「12 この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」([新改訳])。

また、Isaiah 28:16(イザヤ書第28章第16節)に次の記述があります。

「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」([新改訳])。

神さまはイスラエルに、礎の石として据えるべくイエスさまを送りました。しかしユダヤ人はイエスさまを信じることをせず、据えられたイエスさまという石につまずいて倒れてしまったのです。






english1982 at 22:00│ローマ人への手紙 
ローマ人への手紙:第10章ローマ人への手紙:第9章