ローマ人への手紙:第6章ローマ人への手紙第5章第1節~第11節:信仰が喜びをもたらす

2015年07月27日

ローマ人への手紙第5章第12節~第21節:アダムとキリストの対比

ローマ人への手紙 第5章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Adam and Christ Contrasted

アダムとキリストの対比


12 When Adam sinned, sin entered the world. Adam’s sin brought death, so death spread to everyone, for everyone sinned.

12 アダムが罪を犯したとき、罪が世に入りました。アダムの罪は死をもたらし、死はすべての人に拡がりました。すべての人が罪を犯したからです。

13 Yes, people sinned even before the law was given. But it was not counted as sin because there was not yet any law to break.

13 そうです。人は律法が与えられる前から罪を犯していたのです。しかし破る律法がなかったので、罪は罪とみなされなかったのです。

14 Still, everyone died -- from the time of Adam to the time of Moses -- even those who did not disobey an explicit commandment of God, as Adam did. Now Adam is a symbol, a representation of Christ, who was yet to come.

14 それでもすべての人は死にました。アダムの時代からモーゼの時代に至るまでの間、人は明示的な神さまの命令に背いたわけではないのにです。アダムはきたるべきキリストを表現するシンボルなのです。

15 But there is a great difference between Adam’s sin and God’s gracious gift. For the sin of this one man, Adam, brought death to many. But even greater is God’s wonderful grace and his gift of forgiveness to many through this other man, Jesus Christ.

15 しかしアダムの罪と神さまの慈悲深い贈り物の間には大きな違いがあります。ひとりの人アダムの罪が多くの人に死をもたらしました。しかしもっと偉大なのは、もうひとりの人イエス・キリストを通じた神さまの素晴らしい恵みと許しの贈り物なのです。

16 And the result of God’s gracious gift is very different from the result of that one man’s sin. For Adam’s sin led to condemnation, but God’s free gift leads to our being made right with God, even though we are guilty of many sins.

16 そして神さまの慈悲深い贈り物の結末は、ひとりの人の罪の結末とは大きく異なります。それはアダムの罪は有罪の宣告に至りましたが、神さまの無償の贈り物は、私たちが神さまに対して正しくなることに至るのです。私たちは多くの罪で有罪であるのにです。

17 For the sin of this one man, Adam, caused death to rule over many. But even greater is God’s wonderful grace and his gift of righteousness, for all who receive it will live in triumph over sin and death through this one man, Jesus Christ.

17 なぜならこのひとりの人アダムの罪は、多くの人を支配する死を引き起こしましたが、もっと偉大なのは神さまの素晴らしい恵みと正しい贈り物なのです。なぜならそれを受け取る人全員が、このひとりの人イエス・キリストを通じて、罪と死に対する勝利を生きるからです。

18 Yes, Adam’s one sin brings condemnation for everyone, but Christ’s one act of righteousness brings a right relationship with God and new life for everyone.

18 そうです。アダムのひとつの罪はすべての人への有罪宣告をもたらしますが、キリストのひとつの正しい行いは、神さまとの正しい関係とすべての人への新しいいのちをもたらすのです。

19 Because one person disobeyed God, many became sinners. But because one other person obeyed God, many will be made righteous.

19 ひとりの人が神さまに背いたことで多くの人が罪人となりました。しかし別のひとりが神さまに従ったので多くの人が正しいとされるのです。

20 God’s law was given so that all people could see how sinful they were. But as people sinned more and more, God’s wonderful grace became more abundant.

20 神さまの律法が与えられたのは、すべての人がどれほど自分たちが罪深いかを知るためです。しかし人々が罪を犯せば犯すほど、神さまの素晴らしい恵みはさらに豊かにあふれ出しました。

21 So just as sin ruled over all people and brought them to death, now God’s wonderful grace rules instead, giving us right standing with God and resulting in eternal life through Jesus Christ our Lord.

21 ひとつの罪がすべての人を支配して人々を死に至らしめたように、いま神さまの素晴らしい恵みが代わりに支配して私たちを神さまに対して正しく立たせ、私たちの主イエス・キリストを通じた永遠のいのちに帰着するのです。




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第5章です。

第5章の前半では、第4章までで語られた「信仰」を通じた神さまとの和解により、私たちが到達した素晴らしい場所についてパウロが説明しました。第5章の後半からはやや趣を変えて、話はイエス・キリストを通じた永遠のいのちへと移ります。

第12節、「アダムが罪を犯したとき、罪が世に入りました。アダムの罪は死をもたらし、死はすべての人に拡がりました。すべての人が罪を犯したからです。」

パウロはこの章で最初の人間アダムと救世主イエスさまを対照させて描いて行きます。最初に「アダムが罪を犯したとき、罪が世に入りました。」とある、アダムが犯した罪というのは「Genesis 3(創世記第3章)」に書かれている出来事のことです。引用はGenesis 3:1-8(創世記第3章第1節~第8節)です。

「1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」 4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」([新改訳])。

これは最初の人間アダムとその妻のエバが置かれたエデンの園での出来事です。二人が最初に神さまから言われたルールは、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」でした。しかしサタンが姿を変えていた蛇にそそのかされて、二人はルールを破って実を食べてしまいます。神さまの期待を裏切った人間は、この出来事で神さまとの関係を絶たれ、エデンの園から追放されることになりました。

「アダムが罪を犯したとき、罪が世に入りました。」とあるように、このアダムの出来事によって「罪」が世に生じたのです。引用の第7節では、二人の目が開かれて二人は自分たちが裸であることを意識し、急に恥ずかしくなって腰のまわりをいちじくの葉で覆いますが、これこそが神さまを裏切ったことによる「罪悪感」「後ろめたい気持ち」「恥ずかしい気持ち」「隠れたい気持ち」の始まりなのです。

続いて「アダムの罪は死をもたらし、死はすべての人に拡がりました。」とあります。神さまは実を食べると必ず死ぬ、と言っていましたが、二人が実を食べて罪を犯したとき、二人はその場で絶命して息絶えると言うことはありませんでした。しかしこのときの罪は確実に「死」をもたらしていたのです。

聖書では「死」は、何かから切り離されることを意味します。神さまは宇宙の創造主であり、人間とあらゆる生き物や植物を地上に創造された方で、いのちの源です。罪によって人が神さまから切り離されたということは、すなわち人がいのちの源から切り離されたことになり、ここで世の中にいのちの終わりである「死」が登場したのです。そして死は神さまから切り離されているすべての人に拡がり、人を支配するようになりました。

第12節の最後から第13節、「すべての人が罪を犯したからです。そうです。人は律法が与えられる前から罪を犯していたのです。」

死がすべての人に拡がったのは、すべての人が罪を犯したからなのです。しかし「罪」と言うのは厳密には法律違反のことを言うのですから、紀元前1500年頃にモーゼを通じて神さまから律法を授かるまで、何が罪に当たるかは明確には定義されていなかったことになります。

しかしパウロは「人は律法が与えられる前から罪を犯していたのです。しかし破る律法がなかったので、罪は罪とみなされなかったのです。」と言います。私たちはたとえ法律を知らなくても、悪いことをすると、自分の良心に照らして「後ろめたい」「恥ずかしい」「隠れたい」「逃げ出したい」と感じます。それを罪と言うのだよ、と教えてもらわなくても、私たちはすでに罪悪感を感じているのです。これは誰もが感じることの出来る、私たちが神さまによって作られたことの証でもあります。

第13節の最後から第14節、「しかし破る律法がなかったので、罪は罪とみなされなかったのです。それでもすべての人は死にました。アダムの時代からモーゼの時代に至るまでの間、人は明示的な神さまの命令に背いたわけではないのにです。」

律法が与えられる前の時代、あるいは律法が神さまから与えられることのなかった異邦人の社会では、何が罪にあたるのか明確な定義はありませんでした。なので人の心に罪悪感はあっても、社会の中でその人を罪人と呼ぶ基準はありませんでした。しかし世界中で人は死に続けました。つまり明示的に神さまのルールに背かなくても、人は死ぬのです。それは人が、いのちの源である神さまから切り離されているからです。

第14節の最後に、「アダムはきたるべきキリストを表現するシンボルなのです。」とあります。これは「型」、あるいは「予型(よけい)」の話です。

聖書は、同じような型の出来事が繰り返されるところに注目すると、理解を助けられる部分がたくさんあります。これを「予型論(タイポロジー)」と呼びます。たとえばユダヤの過越の祭りで殺される子羊はイエスさまの型になっているとか、ユダヤ人がエジプトの奴隷状態から脱して苦難の末にパレスチナに入る出来事は、人が快楽などの偶像への依存から脱して神さまのいる天国に入る出来事の型になっているとか、そういう解釈のことです。

パウロが「アダムはきたるべきキリストを表現するシンボルなのです。」と言うのは、アダムはイエス・キリストの型である、と言っているのです。

第15節、「しかしアダムの罪と神さまの慈悲深い贈り物の間には大きな違いがあります。ひとりの人アダムの罪が多くの人に死をもたらしました。しかしもっと偉大なのは、もうひとりの人イエス・キリストを通じた神さまの素晴らしい恵みと許しの贈り物なのです。」

最初に天地創造のときに、ひとりの人アダムによって罪と死が世の中にもたらされました。そして同じように2000年前、ひとりの人イエス・キリストが罪の購いと永遠のいのちを私たちにもたらしたのです。そしてイエス・キリストによる罪の購いは、神さまの素晴らしい恵みと許しの贈り物なのです。

第16節、「そして神さまの慈悲深い贈り物の結末は、ひとりの人の罪の結末とは大きく異なります。それはアダムの罪は有罪の宣告に至りましたが、神さまの無償の贈り物は、私たちが神さまに対して正しくなることに至るのです。私たちは多くの罪で有罪であるのにです。」

アダムの行いは神さまによる有罪宣告に至りました。一方でイエスさまの行いは、それが神さまの人類救済の計画の成就であると信じる人を、神さまに対して正しくし、そこに神さまとの和解を成立させるのです。私たちはたくさんのことで神さまの期待を裏切り、神さまをガッカリさせ続けているというのに、イエスさまの十字架を信じる人は神さまの目の中に正しく映るのです。

第17節~第18節、「なぜならこのひとりの人アダムの罪は、多くの人を支配する死を引き起こしましたが、もっと偉大なのは神さまの素晴らしい恵みと正しい贈り物なのです。なぜならそれを受け取る人全員が、このひとりの人イエス・キリストを通じて、罪と死に対する勝利を生きるからです。そうです。アダムのひとつの罪はすべての人への有罪宣告をもたらしますが、キリストのひとつの正しい行いは、神さまとの正しい関係とすべての人への新しいいのちをもたらすのです。」

ひとりの人アダムの犯した罪が、多くの人を支配する死を引き起こした、とあります。確かに「死」は私たちを支配しています。私たちは「死」を、等しくすべての人に訪れるものとして予期し、死を嫌い、死を恐れます。そして死なないように何をするか、死ぬまでに何を達成するか、と言うように死を基準にして人生を組み立てます。

この「死」は、一番最初は存在しなかったのです。アダムが犯したのは罪です。神さまの期待に対する裏切り行為です。良心に照らして後ろめたい行為です。ここにも死はありません。しかし神さまを裏切ったことで神さまとの関係が絶たれると、私たちの心の中では「罪」とセットになった「死」が大きな場所を占め、私たちの人生を支配するようになりました。これはいのちの源である神さまとの関係が絶たれた結果なのです。ひとりの人アダムの犯した罪が、多くの人を支配する死を引き起こしたのです。

しかし同じひとりの人イエス・キリストの十字架がずっと偉大なのは、十字架が罪と死に対する勝利をもたらすからです。十字架を信じる人を神さまは罪人とは思いません。十字架を信じる人は神さまの目に正しく映るのです。そして神さまとの関係が取り戻されると、私たちを支配する死もいなくなります。

アダムが犯したひとつの罪がすべての人への有罪宣告をもたらし、死が私たちを支配するようになりましたが、イエス・キリストのひとつの正しい行いが、神さまとの正しい関係をもたらし、信じるすべての人に新しいいのちをもたらすのです。

第19節、「ひとりの人が神さまに背いたことで多くの人が罪人となりました。しかし別のひとりが神さまに従ったので多くの人が正しいとされるのです。」

そのとおりです。

第20節、「神さまの律法が与えられたのは、すべての人がどれほど自分たちが罪深いかを知るためです。」

ここで律法の存在意義が語られます。律法が私たちに示されたのは、私たちが律法の中に神さまの善悪の判断基準を読み取り、自分たちが律法に照らしてどれほど罪深いか、どれほど自分たちが神さまの基準に届かないかを知るためなのです。

これはファリサイ派に代表されるユダヤ人の律法の考え方とは異なります。ユダヤ人は神さまがモーゼを通じて特別にユダヤ人に授けた律法に最高の権威を置きます。つまりアダムの罪により、すべての人が罪人となりましたが、ユダヤ人にとっての、これに対処して神さまの目に正しく映るための方法は、律法の全項目をひとつ残らず守ることなのです。

第20節の後半から第21節、「しかし人々が罪を犯せば犯すほど、神さまの素晴らしい恵みはさらに豊かにあふれ出しました。ひとつの罪がすべての人を支配して人々を死に至らしめたように、いま神さまの素晴らしい恵みが代わりに支配して私たちを神さまに対して正しく立たせ、私たちの主イエス・キリストを通じた永遠のいのちに帰着するのです。」

人がどれほど多くの罪を犯しても、神さまの恵みはそれをはるかに上回って豊かにあふれ出します。アダムのひとつの罪が世の中に死を呼び込み、私たちは罪と死に支配される奴隷となりました。しかし私たちの主イエス・キリストの十字架は、神さまの素晴らしい恵み、神さまの素晴らしい愛と慈悲が支配する世界をもたらすのです。私たちは罪と死の奴隷状態から解放されて、永遠のいのちを生きるようになるのです。







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