ローマ人への手紙第5章第12節~第21節:アダムとキリストの対比ローマ人への手紙:第5章

2015年07月27日

ローマ人への手紙第5章第1節~第11節:信仰が喜びをもたらす

ローマ人への手紙 第5章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Faith Brings Joy

信仰が喜びをもたらす


1 Therefore, since we have been made right in God’s sight by faith, we have peace with God because of what Jesus Christ our Lord has done for us.

1 そういうことなので、私たちは信仰によって神さまの目に正しいとされたので、私たちは、私たちの主イエス・キリストが私たちのためにしたことによって、神さまとの平安を持っているのです。

2 Because of our faith, Christ has brought us into this place of undeserved privilege where we now stand, and we confidently and joyfully look forward to sharing God’s glory.

2 私たちの信仰によって、キリストは私たちを、私たちがいま居る、私たちが受けるに値しない特権の場へと連れてきてくれました。そして私たちは確信を持って大喜びで、神さまの栄光を分かち合うときを楽しみにしています。

3 We can rejoice, too, when we run into problems and trials, for we know that they help us develop endurance.

3 私たちは問題や試練に出遭うときに喜ぶこともできるのです。それは私たちが問題や試練が忍耐を育てると知っているからです。

4 And endurance develops strength of character, and character strengthens our confident hope of salvation.

4 そして忍耐は人格の強さを育て、人格は救いについての私たちの自信に満ちた希望を強めるのです。

5 And this hope will not lead to disappointment. For we know how dearly God loves us, because he has given us the Holy Spirit to fill our hearts with his love.

5 この希望は失望に至ることはありません。なぜなら神さまは私たちの心を愛で満たすために聖霊を与えてくれましたので、私たちはどれほど深く神さまが私たちを愛しているかを知っているからです。

6 When we were utterly helpless, Christ came at just the right time and died for us sinners.

6 私たちにまったく頼る者のなかったときに、キリストはちょうど正しい時間に現れ、私たち罪人のために死にました。

7 Now, most people would not be willing to die for an upright person, though someone might perhaps be willing to die for a person who is especially good.

7 いまほとんどの人が正しい人のために進んで死ぬことはありません。特別に善い人のために自発的に死ぬ人が、もしかするといるかも知れませんが。

8 But God showed his great love for us by sending Christ to die for us while we were still sinners.

8 しかし神さまは、私たちがまだ罪人であったときに、キリストを私たちのために死ぬ目的で遣わすことによって、私たちに対する大きな愛を示したのです。

9 And since we have been made right in God’s sight by the blood of Christ, he will certainly save us from God’s condemnation.

9 そして私たちはキリストの血によって神さまの目の中に正しくされたのですから、神さまは間違いなく私たちを有罪の判決から救ってくださいます。

10 For since our friendship with God was restored by the death of his Son while we were still his enemies, we will certainly be saved through the life of his Son.

10 私たちが神さまの敵であったときに、神さまとの交わりが神さまの息子の死によって取り戻されたのですから、私たちは間違いなく神さまの息子のいのちによって救われるのです。

11 So now we can rejoice in our wonderful new relationship with God because our Lord Jesus Christ has made us friends of God.

11 それでいま私たちは、私たちの主イエス・キリストが私たちを神さまの友としてくださったので、神さまとの素晴らしくて新しい関係を喜ぶことができるのです。




ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第5章です。

第1節は「そういうことなので(Therefore)」と始まります。これは第4章までに語られた、人が神さまに対して正しくなる方法はイエス・キリストの十字架を信じる「信仰」による、と言う話を受けています。パウロは「そういうことなので」と語り始め、第5章の前半で信仰を通じた神さまとの和解により、私たちが到達した場所について語ります。

第1節、「そういうことなので、私たちは信仰によって神さまの目に正しいとされたので、私たちは、私たちの主イエス・キリストが私たちのためにしたことによって、神さまとの平和を持っているのです。」

私たちは「行い」ではなく、「信仰」によって神さまの目に正しいとされたので、主イエス・キリストが私たちのためにしたこと、つまりイエス・キリストが私たちの罪悪に対する代償のいけにえとして十字架にかかったことで、私たちは神さまとの平和を持っています。

私が「平安」と訳した「peace」という単語の意味は、Longmanの英英辞典(「Longman Dictionary of Contemporary English 5th Edition」)によると、1) 争いのない状態、2) 静かで快適な状態、3) 穏やかで幸せで心配のない心持ち、と書かれています。つまり私たちが福音を信じたことによって神さまの目の中に正しく映るようになると、私たちと神さまとの間には争いがなくなり、静かで快適な状態となり、私たちの心から心配や憂いが消え去り、穏やかで幸せな心持ちになる、そういうことです。

第2節、「私たちの信仰によって、キリストは私たちを、私たちがいま居る、私たちが受けるに値しない特権の場へと連れてきてくれました。そして私たちは確信を持って大喜びで、神さまの栄光を分かち合うときを楽しみにしています。」

この平安の状態は、私たちの信仰に基づいてイエスさまが私たちを連れ来てくれた場所で実現しています。それは特別な場所です。私たちはもともと罪悪を犯して神さまの期待を裏切り、神さまから切り離されて当然の場所にいたのですから、それは私たちがそもそも受けるに値しない特権の場なのです。

第2節の後半は「look forward to」と言う「将来の実現を楽しみに待つ」という意味の英語のイディオムが使われていて、私たちはこの特権の場で、神さまの栄光を分かち合うときが来るのを楽しみに待つ、そういう状態にあると書かれています。これは「終わりの日」にクリスチャンが再来されるイエスさまと合流し、いよいよ神さまのいる天国へ招かれることを言っているのでしょう。この文章には、私たちがそれが実現することに確信を持っていること(「confidently」)、そして大喜びで待っている(「joyfully」)という副詞がついています。

第3節~第4節、「私たちは問題や試練に出遭うときに喜ぶこともできるのです。それは私たちが問題や試練が忍耐を育てると知っているからです。そして忍耐は人格の強さを育て、人格は救いについての私たちの自信に満ちた希望を強めるのです。」

私たちがこの特権の場で、神さまの栄光を分かち合う日を待つ間には、様々な問題や試練に出遭うこともあります。パウロはその問題や試練を喜ぶことができると書いています。それはなぜか。それはまずそういう問題や試練が忍耐を育て、その忍耐が次に人格の強さを育て、最後に人格が希望を育てるから、とあります。

たとえ信仰によって神さまとの間に和解が訪れたとしても、クリスチャンには問題や試練が訪れます。そしてなぜ自分は苦しまなければならないのかと苦悩します。そして苦悩の中で神さまに助けを求めて必死にお祈りをし、苦難の末に問題や試練からの出口を見つけていきます。クリスチャンはこういうプロセスを繰り返す間に、実は数々の問題や試練が実は神さまから与えられていると知るようになります。そういう問題や試練がクリスチャンの霊的な成長を助けるからです。

これがわかってくると、問題や試練が神さまの存在を感じさせるようになります。神さまは自分の何を反省させようとしているのか、自分のどこを成長させようとしているのか、問題や試練の裏にある神さまの善意の意図を探すようになります。そしてパウロが書くように、最終的には問題や試練を喜ぶようにまでなるのだと思います。

成熟したクリスチャンが知っているのは、問題や試練によって自分が様々な状況下で忍耐のできる人になるということです。忍耐ができるようになると、それが明るく正しく穏やかな人格を育てます。そしてその人格が、神さまが確実に存在することと、神さまが自分のための特別な計画を持ち、それを段階的に実行に移すことで自分を正しく神聖な場所へと導いているという確証を導き出します。そしてその確証が、自分は終わりの日にはきっと天国へ招かれるという確信と希望になると言うことです。

第5節、「この希望は失望に至ることはありません。なぜなら神さまは私たちの心を愛で満たすために聖霊を与えてくれましたので、私たちはどれほど深く神さまが私たちを愛しているかを知っているからです。」

自分が終わりの日にはきっと天国へ招かれるという希望が裏切られ失望することがないのは、神さまが私たちに聖霊を与えてくれたからです。聖霊は福音を信じたときに神さまからひとりひとりのクリスチャンに与えられ、身体に封印されます。聖霊は、父なる神さま、子なるイエスさまと共に「三位一体」を形成する、神さまの位相のひとつ、つまり神さまそのものです。ここにはその聖霊が、「クリスチャンの心を愛で満たし、私たちがどれほど深く神さまから愛されているかを教えてくれる」と書かれています。

パウロの書簡やルカの「Acts(使徒の働き)」を読んでいると、イエスさまが天へ戻った後の1世紀の伝道活動では、福音を信じた人たちに聖霊が降りる様子が物理的に目に見えたように読めます。が、いまはそのようなことはほとんどありません(一部でそのような現象が再現しつつあるという報告もあります)。それでは私たちはどのようにして自分の中の聖霊の存在を知るのでしょうか。

私が個人的に言えることは聖霊を受ける前と後での心境や考え方の変化です。何を悪と考え何を善と考えるのか、自分の未来について希望が抱けるか、他者に優しく接することができるか、そして問題や試練に出遭うときにそれをどのように受け止めるか、などです。聖霊を受ける前と後ではこれらの考え方がまったく違うのです。

その変化は一夜にして劇的に変わるものではなく、少しずつ少しずつ、パウロが「強める」「育てる」と記したように訪れ、年月を経るうちにいつの間にか決して否定できない、決して壊れないレベルにまで到達して、その人を別人にしてしまいます。パウロが問題や試練が忍耐を育て、忍耐が人格を育み、人格が最後には希望を育てる、と書いているとおりです。

第6節、「私たちにまったく頼る者のなかったときに、キリストはちょうど正しい時間に現れ、私たち罪人のために死にました。」

神さまが天地を創造され、最初の人間を地球に置いて以降、私たちは神さまの期待を裏切り続け、神さまの怒りは募るばかりでした。私たち人間には死が運命づけられ、もはや何の希望もなかったのです。

聖書の解釈ではイエスさまは神さまです。神さまであるイエスさまは神さまとしての権能をすべて捨てて、ひとりの人間として地上に立ちました。その目的は私たちのために死ぬことだったのです。聖書の律法では、いのちを買い戻すために支払う代償はいのちです。イエスさまは私たち罪人のいのちを買い戻すために自分のいのちを捧げる、その使命を帯びて地上に立ったのです。

第7節、「いまほとんどの人が正しい人のために進んで死ぬことはありません。特別に善い人のために自発的に死ぬ人が、もしかするといるかも知れませんが。」

自分のいのちを他の人のために使う、そういう人はほとんどいません。子供のいのちを救うためなら自分のいのちを犠牲にしても良い、そういう親の話を聞くことはあります。しかしいずれにしても、誰か他の人ために自分のいのちを自発的に捨てる、そういう人はほとんどいません。

第8節、「しかし神さまは、私たちがまだ罪人であったときに、キリストを私たちのために死ぬ目的で遣わすことによって、私たちに対する大きな愛を示したのです。」

しかし神さまは、罪人であり、怒りの種に他ならない人間のいのちを救うために、わざわざそのいのちを犠牲に捧げさせる目的でイエス・キリストを地上に遣わしたのです。これが神さまが人間に示した愛なのです。

第9節、「そして私たちはキリストの血によって神さまの目の中に正しくされたのですから、神さまは間違いなく私たちを有罪の判決から救ってくださいます。」

イエスさまが十字架で流した血、イエスさまが十字架で捧げたいのちは、すべての人間のいのちの代償となり、私たちは死から買い戻されました。イエスさまの流した血が自分の罪を購ったと信じるなら、つまり神さまによるイエスさまを通じた人類救済の計画を信じるなら、それで私たちは神さまの目に正しく映ります。神さまの目に正しく映る、と言うことは神さまとの間に和解が成立したと言うことです。と言うことは「終わりの日」の最後の裁きでクリスチャンの判決は無罪となるのです。

第10節、「私たちが神さまの敵であったときに、神さまとの交わりが神さまの息子の死によって取り戻されたのですから、私たちは間違いなく神さまの息子のいのちによって救われるのです。」

私たちはかつては神さまの期待をことごとく裏切り、神さまの怒りの種となり、つまりは神さまの敵でした。神さまはそんな私たちに手をさしのべて、ご自身のひとり息子であるイエスさまを遣わしました。イエスさまが十字架にかかることによって人間と神さまとの素晴らしい関係が取り戻されたのです。いま私たちクリスチャンは、福音を信じ、神さまを褒め称え、神さまとの間に打ち立てられた平安の場で生きているのですから、私たちは「終わりの日」には間違いなく救われるのです。

第11節、「それでいま私たちは、私たちの主イエス・キリストが私たちを神さまの友としてくださったので、神さまとの素晴らしくて新しい関係を喜ぶことができるのです。」

私たちは神さまの計画を遂行してくれた主イエス・キリストを褒め称え、神さまを賛美し、神さまとの間に取り戻した、素晴らしくて新しい関係を心の底から喜びます。







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