ローマ人への手紙第2章第17節~第29節:ユダヤ人と律法ローマ人への手紙:第2章

2015年07月30日

ローマ人への手紙第2章第1節~第16節:神さまによる罪の裁き

ローマ人への手紙 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


God’s Judgment of Sin

神さまによる罪の裁き


1 You may think you can condemn such people, but you are just as bad, and you have no excuse! When you say they are wicked and should be punished, you are condemning yourself, for you who judge others do these very same things.

1 あなた方はそういう人たちを非難できると思うかも知れません。しかしあなた方は同じくらい悪く、言い訳もできません。あなた方が彼らは邪悪で罰せられるべきだと言えば、あなた方は自分自身を咎めているのです。他の人を裁くあなた方はまったく同じことをしているのですから。

2 And we know that God, in his justice, will punish anyone who does such things.

2 神さまは公明正大であり、そういうことをする人たち全員を罰すると私たちは知っています。

3 Since you judge others for doing these things, why do you think you can avoid God’s judgment when you do the same things?

3 あなた方は、そういうことをするという理由で他の人を裁くのに、あなた方が同じことをするとき、どうしてあなた方は神さまの裁きを免れることができると思うのですか。

4 Don’t you see how wonderfully kind, tolerant, and patient God is with you? Does this mean nothing to you? Can’t you see that his kindness is intended to turn you from your sin?

4 あなた方は神さまがどれほどあなた方に驚くほど親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのですか。これはあなた方には何の意味もないのですか。神さまの親切は、あなた方を罪から向き直ることを意図しているとわからないのですか。

5 But because you are stubborn and refuse to turn from your sin, you are storing up terrible punishment for yourself. For a day of anger is coming, when God’s righteous judgment will be revealed.

5 しかしあなた方は頑固に罪から向き直ることを拒むので、あなた方は自分自身に恐ろしい罪を積み上げているのです。怒りの日が来ます。神さまの正しい裁きが明らかとなる日です。

6 He will judge everyone according to what they have done.

6 神さまはひとりひとりを、その人が何をしたかに応じて裁きます。

7 He will give eternal life to those who keep on doing good, seeking after the glory and honor and immortality that God offers.

7 神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求めて善いことを続ける人たちに、神さまは永遠のいのちを与えます。

8 But he will pour out his anger and wrath on those who live for themselves, who refuse to obey the truth and instead live lives of wickedness.

8 しかし自分たちのために生きる人たち、真実に従うことを拒み、代わりに邪悪の人生を歩む人たちには神さまは怒りと憤りを注ぐのです。

9 There will be trouble and calamity for everyone who keeps on doing what is evil -- for the Jew first and also for the Gentile.

9 邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。

10 But there will be glory and honor and peace from God for all who do good -- for the Jew first and also for the Gentile.

10 しかし善を行う人全員には栄光と栄誉と平安があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。

11 For God does not show favoritism.

11 神さまにえこひいきはありません。

12 When the Gentiles sin, they will be destroyed, even though they never had God’s written law. And the Jews, who do have God’s law, will be judged by that law when they fail to obey it.

12 異邦人が罪を犯せば滅ぼされます。たとえ神さまの律法の書物を持たなくてもです。そして律法の書を持つユダヤ人は、それに従うことができなければ、その律法によって裁かれます。

13 For merely listening to the law doesn’t make us right with God. It is obeying the law that makes us right in his sight.

13 単に律法を聞くことで私たちが神さまに対して正しくなるわけではありません。律法に従うことが私たちを神さまの目に正しく映すのです。

14 Even Gentiles, who do not have God’s written law, show that they know his law when they instinctively obey it, even without having heard it.

14 神さまの律法の書物を持たない異邦人でさえ、本能的に律法に従うことで、彼らが神さまの律法を知っていることを示します。聞いたこともないのにです。

15 They demonstrate that God’s law is written in their hearts, for their own conscience and thoughts either accuse them or tell them they are doing right.

15 異邦人は神さまの律法が心に書かれていることを示しています。自分の良心や考えが彼らを責めたり、正しいことをしていると告げたりします。

16 And this is the message I proclaim -- that the day is coming when God, through Christ Jesus, will judge everyone’s secret life.

16 これが私が伝えるメッセージです。神さまがイエス・キリストを通じてすべての人の隠された生涯を裁く日が来るのです。



ミニミニ解説

「Romans (ローマ人への手紙)」の第2章です。

第1節は「あなた方はそういう人たちを非難できると思うかも知れません。」と始まります。ここで「そういう人たち」というのは第1章の最後で説明された人たちのことです。

第1章の後半はパウロがいまの世の中の状況を説明しました。人が世界を見渡せば、そこに創造者である神さまがいることは容易に理解できたはずなのに、それを自分で作り上げた「偶像」という嘘と引き換えにしました。この世界に生を得た自分という存在について、その世界を創造し支配する神さまを信じ褒め称える代わりに、自分が心の中に作り上げた偶像を追求すると言う選択をしました。結果として人は神さまの怒りを買い、見切りをつけられて捨て去られて、自分の妄想が作り上げたあらゆる邪悪へと引き渡される結果となりました。そうやって人の間に生まれた邪悪の数々をパウロは列挙しました。

第1節はそういう「邪悪を営む人たち」を見て非難する人たちに向けて書かれます。自分はそういう人たちとは違う、自分はそういう人たちよりも上にいると考える人たちに、パウロは「あなた方は同じくらい悪く、言い訳もできません」と言います。

章を読み進めていくと、これはユダヤ人に宛てられたメッセージであるとわかります。ユダヤ人は神さまから選ばれ、神さまの言葉である聖書を託された民族です。ユダヤ人は聖書の教えに従い、そうすることで神さまの祝福を受けて、ユダヤ人ではない人たち、つまり異邦人に神さまの素晴らしさを伝えるべき立場にありました。

私たちはいま旧約聖書を読むとその内容に驚きます。旧約聖書はユダヤ人がどれほど神さまの期待を裏切り続け、ユダヤ人がどれほど神さまの怒りを買ったかの歴史を連綿と積み重ねた書物だからです。しかしパウロから強烈に非難を浴びせられる1世紀のユダヤ人は、自分たちが始祖アブラハムの子孫として生まれ、モーゼを始めとする預言者たちを通じて神さまの言葉を預かった特別な民族であるという、ただそれだけの理由で神さまから祝福を受けて天国に迎えられる、そういう権利を持つと信じている人たちなのです。そうやって他の人よりも上に立つ視点で他の人を裁くユダヤ人は、その人たちとまったく同じことをしている、とパウロは言います。

私たち日本人はユダヤ人ではありませんが、自分自身を同じ文脈に含めて読むことができます。もし自分は第1章の後半でパウロが書き綴った邪悪な人たちとは違う、自分はそういう邪悪な人たちとは異なるタイプの人間である、そういう邪悪な人たちこそが神さまから裁かれるべきなのだと考えるなら、その言葉はそのまま自分に返って来る可能性があります。パウロが第1章の終わりに綴った人の邪悪な行為の数々は、神さまが人間に見切りをつけて人間を邪悪へと引き渡した結果として生じた物です。ことの始まりは、宇宙の創造者であり支配者である神さまの存在を認め、信じ、褒め称え、従うかどうかでした。神さまを信じないことが悪、神さまを信じないことが罪なのです。

第2節~第3節、「神さまは公明正大であり、そういうことをする人たち全員を罰すると私たちは知っています。あなた方は、そういうことをするという理由で他の人を裁くのに、あなた方が同じことをするとき、どうしてあなた方は神さまの裁きを免れることができると思うのですか。」

神さまは裁きに於いて分け隔てをしません。公明正大です。他の人を邪悪だと言う自分が、神さまを認めず、神さまに従わず、結果として同じ邪悪を為しているのなら、自分だけが裁きを免れるということはありません。

第4節、「あなた方は神さまがどれほどあなた方に驚くほど親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのですか。これはあなた方には何の意味もないのですか。神さまの親切は、あなた方を罪から向き直ることを意図しているとわからないのですか。」

もしかすると邪悪な人を罰する裁きを下す神さまを、無慈悲だとか残酷だと考える人がいるかも知れません。パウロはそういう人たちに、どれほど神さまが親切で、寛容で、辛抱強いかわからないのか、と問いかけます。神さまは世の中にあふれる邪悪を目にしながら、いま裁きの日を先延ばしにしています。そうやって人間に向き直るための猶予を与えているのです。

第5節、「しかしあなた方は頑固に罪から向き直ることを拒むので、あなた方は自分自身に恐ろしい罪を積み上げているのです。怒りの日が来ます。神さまの正しい裁きが明らかとなる日です。」

しかし人は頑として自分の罪を認めることをせず、神さまに向き直ろうとしません。神さまを信じないこと、神さまに向き直らないことが、神さまに対する罪悪なのにです。そうやって神さまを拒み続けることで、自分の罪はどこまでも積み上がっていきます。

第6節には「神さまはひとりひとりを、その人が何をしたかに応じて裁きます。」と書かれています。これは多くの人の「最後の裁き」についての考え方に近いのではないでしょうか。もし天国と地獄があるとしたら、その決定は自分が生まれてから死ぬまでの間に何をしたかに応じて行き先が決まるのではないか、と考える人が世の中にはたくさんいるのではないか、と思います。

第7節では天国へ行く人たちについて書かれています。「神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求めて善いことを続ける人たちに、神さまは永遠のいのちを与えます。」 神さまは善いことを続ける人たちに永遠のいのちを与えます。ここで「善いことを続ける人たち」と言うのは、神さまが提示する栄光と栄誉と不滅を追い求める人たち、つまりは神さまを信じる人たちのことです。

第8節では地獄へ落とされる人たちについて書かれています。「しかし自分たちのために生きる人たち、真実に従うことを拒み、代わりに邪悪の人生を歩む人たちには神さまは怒りと憤りを注ぐのです。」 神さまの栄光を追うのではなく、自分のために生きる人たち、宇宙の創造主であり支配者である神さまの存在という真実に従うことを拒む人たち、その真実を偶像と引き換えにして偶像を追いかけて生きる人たち、そういう人たちに神さまは怒りと憤りを注ぎます。

第9節~第11節、「邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。しかし善を行う人全員には栄光と栄誉と平安があります。最初にユダヤ人に、そして異邦人にも。神さまにえこひいきはありません。」

ここには神さまに分け隔てやえこひいきはない、と書かれています。ユダヤ人と異邦人の区別なく、神さまの存在を拒み、邪悪を行い続ける人たち全員に困難と不幸があり、神さまをほめたたえ、善を行う人全員に栄光と栄誉と平安があります。

第12節は異邦人とユダヤ人を対比して、異邦人は律法を持たない人、ユダヤ人は律法を持つ人とされます。つまりユダヤ人は聖書を託された民族、異邦人は聖書について何も知らない人たちと言うことです。

まず、「異邦人が罪を犯せば滅ぼされます。たとえ神さまの律法の書物を持たなくてもです。」と書かれています。異邦人は、たとえ聖書を持っていなくても、つまり聖書を持っていないから罪が何であるかを一度も説明されていなくても、罪を犯せば神さまによって滅ぼされます。「罪を犯せば」と言うのは、ここまでで明らかになっているとおり、「神さまの意志に背けば」であり、「神さまを信じ、神さまの栄光を追い求める人生を歩まなければ」ということです。

次に「そして律法の書を持つユダヤ人は、それに従うことができなければ、その律法によって裁かれます。」と書かれています。ユダヤ人は罪がなんであるかを規定した律法を聖書として託されているので、聖書に従わなければ聖書に沿って裁きを受けると言うことです。

パウロの時代にはまだ旧約聖書は今日の形では成立しておらず、旧約聖書に含まれる39冊の本は、膨大なユダヤの文献の中にばらばらに存在していました。後に正典として成立することになる旧約聖書の中で律法と呼ばれるのは、モーゼが記述したとされる「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Leviticus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」の5冊のことで、「モーゼ五書」などとも呼ばれます。

当時、広義の律法として考えられていたのは、これら5冊の他に、慣習法としてユダヤ人の間で共有されてきた、細則までもを含む数百件の掟になります。そして狭義の律法と言えるのが「Exodus(出エジプト記)」に含まれる「Ten Commandments(十戒)」です。十戒は十個の命令ですが、Exodus 20:1-17(出エジプト記第20章第1節~第17節)に、次のように書かれています。

「1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。-- あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も -- 11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。13 殺してはならない。14 姦淫してはならない。15 盗んではならない。16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」」([新改訳])

要約すると次のようになります。

一. 聖書の「神さま」以外の神を崇拝してはいけない。
二. 偶像(金属・木・石などで作る神仏の像)を作って拝んではいけない。
三. 神さまの名前をみだりに唱えてはいけない。
四. 安息日を聖なる日として仕事を休む。
五. 父母を敬う。
六. 人を殺さない。
七. 姦淫(倫理にそむいた肉体関係を)しない。
八. 盗まない。
九. 嘘をつかない。
十. 他人のものを欲しがらない。

最初の四つは自分と神さまとの関係、残りの六つは自分と他の人との関係についてです。特に後半の六つについては、私たちの知っている道徳観・倫理観とかなり通じる部分があり、不自然な印象は受けません。

第13節には「単に律法を聞くことで私たちが神さまに対して正しくなるわけではありません。律法に従うことが私たちを神さまの目に正しく映すのです。」とあります。

これは聖書を持つユダヤ人に対しての言葉でしょう。聖書を読んでいるとか、知っているとか、聞いているとか、それだけのことで自分が神さまに対して正しくなるわけではありません。聖書を託されたユダヤ民族の一員だからという理由で神さまに対して正しくなるわけではないのです。聖書に書かれた掟に従う、その自分の行動が、自分を神さまの目に正しく映すのです。

第14節~第15節、「神さまの律法の書物を持たない異邦人でさえ、本能的に律法に従うことで、彼らが神さまの律法を知っていることを示します。聞いたこともないのにです。異邦人は神さまの律法が心に書かれていることを示しています。自分の良心や考えが彼らを責めたり、正しいことをしていると告げたりします。」

これは私たち異邦人についてです。異邦人は聖書を持っていないにも関わらず、本能的に、人としてやって良いこととやってはいけないことを知っています。パウロはこれはつまり異邦人も神さまの律法、聖書に書かれていることを知っている証であると言います。私たち異邦人は、たとえ聖書を見たり聞いたりしたことがなくても、神さまの律法が、創造の時点ですべての人間の心に書かれていることの例証なのです。悪いことをしようとすると良心の呵責があり、良いことをすると自分は正しいことをしていると心が自分に告げます。これは神さまが律法を私たちの心に刻んでおいてくれたからなのです。

第16節、パウロは「これが私が伝えるメッセージです。神さまがイエス・キリストを通じてすべての人の隠された生涯を裁く日が来るのです。」と言います。神さまが、すべての人について隠された生涯を明らかにし、それを裁く日が来ます。それを行うのは天から再来するイエス・キリストです。







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