ピリピ人への手紙:第4章ピリピ人への手紙:第3章

2015年05月10日

ピリピ人への手紙第3章第1節~第21節:キリストを知ることの計り知れない価値、ゴールへ押し寄せる

ピリピ人への手紙 第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Priceless Value of Knowing Christ

キリストを知ることの計り知れない価値


1 Whatever happens, my dear brothers and sisters, rejoice in the Lord. I never get tired of telling you these things, and I do it to safeguard your faith.

1 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、何があっても主にあって喜びなさい。私はあなた方にこれを伝えることに飽きることはありません。そして私はこれをあなた方の信仰を守るために行うのです。

2 Watch out for those dogs, those people who do evil, those mutilators who say you must be circumcised to be saved.

2 犬たちに気をつけなさい。邪悪を行う人たちに気をつけなさい。救われるには割礼が必要と言う切断者たちに気をつけなさい。

3 For we who worship by the Spirit of God are the ones who are truly circumcised. We rely on what Christ Jesus has done for us. We put no confidence in human effort,

3 神さまの霊によって礼拝する我々こそが真に割礼を受けている者なのです。私たちはイエス・キリストが私たちのために成したことに頼っています。私たちは人的な努力には信頼を置きません。

4 though I could have confidence in my own effort if anyone could. Indeed, if others have reason for confidence in their own efforts, I have even more!

4 ただし、もし誰かが人的な努力に信頼を置くのなら、私は自分自身の努力に置きます。本当のところ、もし他の人たちが自分の努力に信頼を置く理由があるとしたら、私にはもっとあります。

5 I was circumcised when I was eight days old. I am a pure-blooded citizen of Israel and a member of the tribe of Benjamin -- a real Hebrew if there ever was one! I was a member of the Pharisees, who demand the strictest obedience to the Jewish law.

5 私は生後八日に割礼を受けました。私は純血のイスラエル市民であり、ベニヤミン族のひとりです。本当のヘブル人と言うのがあるとしたら、それです。私はユダヤ律法への最も厳格な服従を求めるファリサイ派の一員でした。

6 I was so zealous that I harshly persecuted the church. And as for righteousness, I obeyed the law without fault.

6 私は熱心のあまり、厳しく教会を迫害しました。正しさの面では、私は落ち度なく律法を守りました。

7 I once thought these things were valuable, but now I consider them worthless because of what Christ has done.

7 私は以前はこういうことに価値があると考えましたが、キリストが成したことによって、いまは無益だと思っています。

8 Yes, everything else is worthless when compared with the infinite value of knowing Christ Jesus my Lord. For his sake I have discarded everything else, counting it all as garbage, so that I could gain Christ

8 そうです。私の主、イエス・キリストを知ることの莫大な価値と比べれば、他のすべてに価値はありません。イエスさまのために私は他のすべてをゴミとみなして捨てました。それは私がキリストを得て、

9 and become one with him. I no longer count on my own righteousness through obeying the law; rather, I become righteous through faith in Christ. For God’s way of making us right with himself depends on faith.

9 キリストとひとつになるためです。私はもはや律法に従うことによる自分自身の正しさに頼ることはありません。それよりもキリストへの信仰を通じて私は正しくなるのです。なぜなら私たちを神さまに対して正しくする神さまの方法は信仰に依存しているからです。

10 I want to know Christ and experience the mighty power that raised him from the dead. I want to suffer with him, sharing in his death,

10 私はキリストを知り、キリストを死者から復活させた強大な力を経験したいと思っています。私はキリストの死を分かち合い、キリストと共に苦しみたいと思っています。

11 so that one way or another I will experience the resurrection from the dead!

11 そうやって何とかして死者からの復活を経験したいのです。



Pressing toward the Goal

ゴールへ押し寄せる


12 I don’t mean to say that I have already achieved these things or that I have already reached perfection. But I press on to possess that perfection for which Christ Jesus first possessed me.

12 私はこれらのことを既に達成したとか、私がすでに完全に到達したと言おうと言うのではありません。しかし私は、イエス・キリストがそのために最初に私を得てくださった、その完全を獲得するために進みます。

13 No, dear brothers and sisters, I have not achieved it, but I focus on this one thing: Forgetting the past and looking forward to what lies ahead,

13 違うのです、親愛なる兄弟たち、姉妹たち、私はまだ達成していないのです。しかし私はこのひとつのことに集中します。過去を忘れて前にあるものを見つめます。

14 I press on to reach the end of the race and receive the heavenly prize for which God, through Christ Jesus, is calling us.

14 私は競走の終わりに到達するために進み、神さまがイエス・キリストを通じて私たちを呼ぶ目的である天国の賞を受けるために進みます。

15 Let all who are spiritually mature agree on these things. If you disagree on some point, I believe God will make it plain to you.

15 霊的に成熟した人はみな、このことに合意しましょう。もし、あなた方がどこかで意見が合わないなら、私は神さまがそれをあなた方に明らかにしてくれると信じます。

16 But we must hold on to the progress we have already made.

16 しかし私たちはすでに達成した前進を手放さずにおかねばなりません。

17 Dear brothers and sisters, pattern your lives after mine, and learn from those who follow our example.

17 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、私の生き方を手本にしてください。そして私たちの例をたどる人たちから学びなさい。

18 For I have told you often before, and I say it again with tears in my eyes, that there are many whose conduct shows they are really enemies of the cross of Christ.

18 というのは私が以前しばしばあなた方に言ったように、そして目に涙をためてもう一度言いますが、本当にキリストの十字架の敵であることを、その行いが示す人たちがたくさんいるのです。

19 They are headed for destruction. Their god is their appetite, they brag about shameful things, and they think only about this life here on earth.

19 彼らは滅びに向かっています。彼らの神は欲望であり、恥ずべきことを自慢します。そして彼らはこの地上での人生だけを考えています。

20 But we are citizens of heaven, where the Lord Jesus Christ lives. And we are eagerly waiting for him to return as our Savior.

20 しかし私たちは主イエス・キリストの住む天国の市民です。そして私たちはキリストが、私たちの救世主として戻ることを心待ちにしています。

21 He will take our weak mortal bodies and change them into glorious bodies like his own, using the same power with which he will bring everything under his control.

21 キリストは私たちの弱く死にゆく身体を取り、すべてを自分の支配下に置くのと同じ力を使って、キリスト自身のような、栄光ある身体へと変えてくださいます。




ミニミニ解説

「Philippians(ピリピ人への手紙)」の第3章です。

この章だけはピリピの教会へ宛てた別のタイミングの手紙がここに編入されているのではないか、と考えられているようです。この章に入ると唐突に内容が警告に変わりますし、言葉からも感情の高ぶりが感じられます。

第2節、パウロは「犬たちに気をつけなさい」と言って、「邪悪を行う人たち」と「救われるには割礼が必要と言う切断者たち」について警告します。「犬」と言う言葉は、ユダヤ人が異邦人を忌み嫌って呼ぶときに使われていましたが、パウロはここで福音の伝道に於いて自分たちの敵となる人を「犬たち」と呼んでいます。

二つ目の「救われるには割礼が必要と言う切断者たち」は、他の手紙にも登場した割礼派(ユダヤ主義者)のことと思われます。この人たちは人がクリスチャンになる前提として、まずその人はユダヤ人になる必要があると主張し、異邦人がユダヤ人になるには旧約聖書の律法が定める割礼の儀式が必要なので、クリスチャンも割礼をするべきと主張しました。

パウロは福音とは、イエスさまが流した尊い血によって実現した神さまから人に宛てた無償の贈り物であるからこそ福音、すなわち良い知らせなのであって、どんな小さなものでも福音に条件が付くことを拒み、それを主張する人たちと戦い続けました。どうやらピリピにも異なる福音を説くパウロの敵、福音の敵が現れていたようです。

「割礼」は旧約聖書のGenesis 17:9-14(創世記第17章第9節~第14節)に、神さまがアブラハムと交わした約束として書かれています。

「9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」([新改訳])。

第3節、割礼は男性性器の包皮を取り除く外科手術的な儀式なのですが、パウロは割礼についてここで「神さまの霊によって礼拝する我々こそが真に割礼を受けている者なのです」と言っています。

たとえば旧約聖書でも、Jeremiah 9:25-26(エレミヤ書第9章第25節~第26節)を見ると「25 見よ。その日が来る。--主の御告げ-- その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」([新改訳])と書いてあります。

つまり割礼という自分の身体に外科手術的な儀式を受けたユダヤ人についても、ここでは「心に割礼を受けていない」、つまり心では神さまを信じていない人たちとして有罪が宣告されているのです。パウロは自分たちは割礼という外科的な儀式ではなく、イエスさまが自分たちのために成就したことに頼っていて、人的な努力は信頼しないと言います。そういう信仰を持つ人こそが、真に心に割礼を受けた人だとパウロは言うのです。

第4節~第6節、もし誰かが人的な努力を自慢すると言うのなら、パウロはそれについても誰にも負けないと言います。パウロは自分が生後八日に割礼を受けたとありますが、これは上で引用した創世記に書かれた律法に沿って、ユダヤ人として生まれて八日目に律法に沿って割礼を受けているという意味です。パウロは両親がユダヤ人の純血のユダヤ人、イスラエル市民であり、十二氏族の中のベニヤミン族に所属します。割礼派がユダヤ人であることに重きを置くのなら、自分こそが真のヘブル人だと言います。

さらに割礼派が重視する律法への服従という点では、パウロはユダヤ人の尊敬を集める最も厳格なファリサイ派の一員でした。ガマリエルというエルサレムで一、二を争う律法学者を師として長期にわたるマンツーマンの厳しい教育課程を経て、自分も律法の教師となったのです。さらにパウロは律法への服従の熱心のあまり、クリスチャンを誰よりも憎み、ファリサイ派の急先鋒となって次々と教会を襲い、信者を迫害して回りました。パウロは律法遵守に関しては、人的な努力の面でも誰にも負けない経歴の持ち主だったのです。

第7節~第8節、しかしパウロは自分が何よりも優先させ、あらゆるエネルギーを注いで達成した律法の遵守も、イエスさまが成就したこと、イエスさまを知ることに比べれば無価値でゴミだと言い、これらをすべて捨てたと言います。

パウロがこれを言い切れるのは、パウロ自身がイエスさまに会ったからに他なりません。パウロは次に襲う教会を目指してシリアのダマスコに向かう途中で自分が迫害するイエスさま本人に会い、自分の人生の180度の方向転換を余儀なくされたのです。パウロはそのときにどうして自分が純血のユダヤ人として生まれ、最高の律法教育を受けて聖書の端から端までを誰よりも深く理解し、それを愛し、それに最高の意味と価値を与えて、律法に反対する者を迫害までしてきたのか、その意味を知ったのです。

第9節、それは自分がイエスさまに会い、身体に聖霊を受けてイエスさまとひとつになるためでした。パウロは世界の誰よりも人の努力で律法に従おうとすることの無意味さ、不可能さを正しく理解しました。そして誰よりも正しく預言書に秘められていた聖書の奥義の意味を理解しました。だからパウロはもはや律法に従うことで神さまに対して正しくなろうと考えることはありません。イエスさまへの信仰を通じて以外の道で自分が神さまに対して正しくなることはないと知っているからです。

第10節~第11節、パウロは死者の中から復活したイエスさまに会い、イエスさまを復活させた神さまの強大な力を自分も経験したいと思っています。イエスさまの福音を伝えるためであれば、自分はイエスさまと同じ死を分かち合い、イエスさまと共に苦しみたいと考えています。そうやって自分が迎える死者からの復活に、イエスさまの復活と同じような意味づけをしたいのです。

第12節でパウロが取り上げている「perfection(完全)」と言う言葉は、やはりパウロとは異なる福音を説くパウロの敵の一派による主張と関連していると思います。この後キリスト教には自身の内面の探求による悟りとか、霊的な完成を目指す思想が入り込み、そのような派閥ではイエスさまの十字架が軽視されていきます。そのような派閥は後にキリスト教から正式に「異端」として区別されるようになりますが、そのような派閥の兆しとなる人たちが、すでに活動を始めていたのでしょう。パウロは自分がそのような完全を得ていると主張するつもりはない、と言います。

第12節~第14節、パウロが守り、私たちが信じるキリスト教では、イエスさまが救世主であると自分の口で告白することで、神さまが最初に信者を自分の子として獲得してくださいます。これで自分が天国に行くことは約束されます。全知全能で宇宙の創造者であり支配者である神さまが、私たちをがっちりとつかまえるのですから、それを覆すことができる力は世の中には存在しません。

ところがそれですべてが終わりということではないのです。私たちは福音を受け入れるにあたって自分の罪を自覚します。どれほど自分が神さまをガッカリさせ、悲しませてきたかを知り、深く反省します。そして可能な限り、自分は神さまの目の中に正しく映りたい、そういう人になりたいと願い、信仰の生活をスタートします。

このプロセスは、私たちが人として地上に生きる以上、決して完成に至ることはありません。どこまで行っても私たちが神さまの目に完璧と映ることなどあり得ないのです。しかしクリスチャンはこのひとつのことに集中します。そして過去の自分の過ちにこだわることよりも、自分が最終的に到達する天を見て、神さまをそしてイエスさまを見て、神さまが自分をどう見るか、神さまの視点を意識して進みます。

第15節、クリスチャンとしての生き方に疑問や不安を抱きながら進む人はたくさんいます。パウロの言う「成熟したクリスチャン」となり、聖書に書かれていることを正しく適切に理解できるようになるには長い時間が掛かります。聖書に関する疑問や、クリスチャンとしての人生の不安は、プロセスの中で、どこかの時点で神さまが必ず明らかにして教えてくれます。またそのように信じます。

第17節、一切の妥協なくクリスチャンの道を進むパウロは私たちの手本です。パウロは「私の生き方を手本にしてください。そして私たちの例をたどる人たちから学びなさい」と言います。

第18節~第19節は、クリスチャンの敵に対する警告です。「彼らは滅びに向かっています」と言うのは天国には入れない、という意味です。敵は欲望で自分たちの心を満たし、自慢はどこまでも世俗的です。敵は地上での人生だけを考えていて、自分の死の先に待っているものを意識することがありません。

第20節~第21節、未熟でも成熟していても、イエスさまを救世主として受け入れた人は全員がイエスさまの住む天国の市民なのです。そしてクリスチャンはイエスさまの再来を心待ちにしています。イエスさまが再来される日は、クリスチャンの肉体がイエスさまのような栄光の身体へと生まれ変わる日です。






english1982 at 22:00│ピリピ人への手紙 
ピリピ人への手紙:第4章ピリピ人への手紙:第3章