コリント人への手紙第2【手紙その1】第4章第1節~第18節:壊れやすい陶器の壺の中の宝コリント人への手紙第2【手紙その1】第2章第14節~第17節:新しい契約の聖職者

2015年06月14日

コリント人への手紙第2【手紙その1】第3章第1節~第18節:新しい契約の聖職者(続き)、新しい契約の栄光

コリント人への手紙第2 手紙その1  




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)



1 Are we beginning to praise ourselves again? Are we like others, who need to bring you letters of recommendation, or who ask you to write such letters on their behalf? Surely not!

1 私たちはまたもや自分たちをたたえ始めるのでしょうか。私たちはあなた方に推薦状を持っていく必要があったり、あるいはあなた方にそのような手紙を代わりに書くことを頼む他の人たちのようですか。もちろん違います。

2 The only letter of recommendation we need is you yourselves. Your lives are a letter written in our hearts; everyone can read it and recognize our good work among you.

2 私たちが必要とする推薦状はあなた方だけです。あなた方のいのちが私たちの心に書かれた手紙です。誰もがそれを読むことができ、そして誰もが私たちがあなた方の中で行った善い仕事を認めます。

3 Clearly, you are a letter from Christ showing the result of our ministry among you. This “letter” is written not with pen and ink, but with the Spirit of the living God. It is carved not on tablets of stone, but on human hearts.

3 疑いもなくあなた方は、私たちがあなた方の中で行った仕事の結果を示すキリストからの手紙なのです。この手紙はペンやインクで書かれておらず、生きている神さまの霊によって書かれています。石版ではなく人の心に刻まれているのです。

4 We are confident of all this because of our great trust in God through Christ.

4 私たちがこれらすべてに確信があるのは、キリストを通じた神さまへの信頼によります。

5 It is not that we think we are qualified to do anything on our own. Our qualification comes from God.

5 何事も自分たちでする資格があると私たちが考えているのではありません。私たちの資格は神さまから来るのです。

6 He has enabled us to be ministers of his new covenant. This is a covenant not of written laws, but of the Spirit. The old written covenant ends in death; but under the new covenant, the Spirit gives life.

6 神さまが私たちに新しい契約の使節団となる資格を与えたのです。これは明文化された律法による契約ではなく、霊による契約です。明文化された古い契約は死で終わります。しかし新しい契約の下では霊がいのちを与えるのです。



The Glory of the New Covenant

新しい契約の栄光


7 The old way, with laws etched in stone, led to death, though it began with such glory that the people of Israel could not bear to look at Moses’ face. For his face shone with the glory of God, even though the brightness was already fading away.

7 石に刻まれた律法による古い方法は死に至りました。それはイスラエルの人たちがモーゼの顔を見ることができなかったほどの栄光で始まったにもかかわらずです。モーゼの顔は神さまの栄光で輝いていたのです。輝きはすでに薄れていましたが。

8 Shouldn’t we expect far greater glory under the new way, now that the Holy Spirit is giving life?

8 新しい方法の下では私たちはさらに偉大な栄光に期待すべきではないでしょうか。今や聖霊がいのちを与えるのですから。

9 If the old way, which brings condemnation, was glorious, how much more glorious is the new way, which makes us right with God!

9 有罪判決をもたらす古い方法が栄光あるものだったのなら、私たちを神さまの前に正しくする新しい方法は、どれほどさらに多くの栄光を持つでしょうか。

10 In fact, that first glory was not glorious at all compared with the overwhelming glory of the new way.

10 実際のところ最初の栄光は、新しい方法の圧倒的な栄光と比べれば、まったく栄光などないのです。

11 So if the old way, which has been replaced, was glorious, how much more glorious is the new, which remains forever!

11 ですからもし取って代わられた古い方法に栄光があったのなら、永遠に続く新しい方法は、どれほどさらに多くの栄光を持つでしょうか。

12 Since this new way gives us such confidence, we can be very bold.

12 この新しい方法は私たちにそれほどの確信をもたらすので、私たちは非常に大胆になれるのです。

13 We are not like Moses, who put a veil over his face so the people of Israel would not see the glory, even though it was destined to fade away.

13 私たちはイスラエルの人たちが栄光を見ないようにと顔におおいを掛けたモーゼのようではありません。その栄光が消え去るように定められていたとしても。

14 But the people’s minds were hardened, and to this day whenever the old covenant is being read, the same veil covers their minds so they cannot understand the truth. And this veil can be removed only by believing in Christ.

14 しかし人々の心は鈍感になりました。今日まで古い契約が読まれる度に、同じおおいが人々の心に掛かり、それで人々は真実を理解できないのです。このおおいを取り除けるのはキリストへの信仰だけです。

15 Yes, even today when they read Moses’ writings, their hearts are covered with that veil, and they do not understand.

15 そうです。今日でさえ人々がモーゼの書き物を読むとき、心にはそのおおいがかかっていて理解しないのです。

16 But whenever someone turns to the Lord, the veil is taken away.

16 しかし誰かが主の方を向けば、そのおおいは取り除かれます。

17 For the Lord is the Spirit, and wherever the Spirit of the Lord is, there is freedom.

17 なぜなら主は霊だからです。そして主の霊のあるところにはどこにでも自由があります。

18 So all of us who have had that veil removed can see and reflect the glory of the Lord. And the Lord -- who is the Spirit -- makes us more and more like him as we are changed into his glorious image.

18 それでそのおおいを取り除かれた私たち全員は見えるようになり、主の栄光を映します。そして霊である主は、私たちが主の栄光に満ちた姿へと変えられる行く過程で、私たちをさらに主のようにしていくのです。




ミニミニ解説

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」の第3章です。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」は、パウロの少なくとも四つの手紙が一つに編纂されているという前提に基づき、章の順ではなく、全体を分割して四つの手紙が書かれた順に読んでいきます。

パウロは二回目の伝道旅行で一年半に渡ってコリントに滞在し、ユダヤ人と異邦人に福音を伝えました。パウロがコリントを去った後、コリントの教会では様々な問題が発生しました。三回目の伝道旅行の途上でパウロがエペソに滞在しているときに、コリントの教会はステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぎました。「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」はパウロがコリントの教会へ宛てた指導の手紙でした。

パウロは「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」を送るに先駆けて、テモテをコリントに派遣しています。やがてエペソに戻って来たテモテは、パウロにコリントの緊急事態を伝えます。それはコリントにパウロが説くのとは異なる福音を説く人たちが現れ、コリントの信者たちを惑わし、さらにその人たちはパウロの使徒としての資格に疑問を投げかけていると言うのです。

「2 Corinthians(コリント人への手紙第2) 」に編纂された第一の手紙は、この事態に対して、パウロが自分の資格について弁明する内容の手紙になっています。

この章の第1節には推薦状の必要性が書かれています。恐らくコリントに現れたパウロの敵は、どこか有力な施設(たとえばエルサレムの教会とか)からの推薦状を携えて現れ、コリントの信者たちにパウロは同様の推薦状を持っていたのか、ときいたのでしょう。推薦状はたとえば「Acts(使徒の働き)」にも登場しています。Acts 18:27(使徒の働き第18章第27節)ではエペソからギリシヤのアカヤ州へ向かうアポロに推薦状が用意されています。

「そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。」([新改訳])。

第1節~第3節、パウロは自分にはそのような推薦状は必要ない、コリントの信者の存在こそが推薦状だと言います。コリントの信者はコリントに居て、誰にでも見ることができ、コリントの信者を見れば、パウロの使徒としての働きがそこに現れているのは誰の目にも明らかだからです。

第4節~第6節、そしてパウロは自分たちの資格は神さまから来ている、と書きます。

第6節でパウロは、新旧の二つの契約を登場させています。古い契約とは律法書や預言書としてすでに文書として確立してきている旧約聖書のことですが、新しい契約にあたる新約聖書は、この手紙が書かれた時点ではまだ編纂されていません。個々の手紙や文書がばらばらに存在するだけです(しかもこの時点ではまだ大半が書かれていません)。パウロはやがて新約聖書として成立する新しい契約が、霊による、霊が人にいのちを与える契約だと言います。ここで言う霊は、霊体としての神さまのことです。

第7節にある「イスラエルの人たちがモーゼの顔を見ることができなかったほどの栄光」と言うのは、旧約聖書の「Exodus(出エジプト記)」でモーゼが神さまから十戒を授かったときのことです。Exodus 34:27-35(出エジプト記第34章第27節~第35節)です。

「27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」 28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。34 モーセが主の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」([新改訳])。

シナイ山で神さまと会話をしたモーゼは、顔に神さまの栄光を映して光を放ちます。人々はその光を恐れてモーゼに近づくことができません。そこでモーゼは自分の顔におおいを掛けています。

パウロは旧約聖書に書かれた古い契約を「死に至る契約」と書きます。実際に旧約聖書の律法に定められた掟には、どのような人が神さまの期待を裏切った罪で殺されなければならないかを書いた箇所がたくさんあります。上の引用箇所でモーゼがシナイ山から持って降りてきた十戒の刻まれた石版は実は二つ目の石版で、最初の石版はモーゼ自身が叩き割っています。それはモーゼが最初にシナイ山から降りてきたとき、モーゼの帰りを待ちわびたユダヤ人たちが、金の子牛を鋳造してそれを偶像として礼拝していたからです。石版を叩き割ったモーゼはレビ族に命じて偶像崇拝をしたユダヤ人たちを殺させ、その日に三千人が死んでいます。十戒に代表される旧約聖書の律法が「死に至る契約」と呼ばれる象徴的な出来事です。

第7節~第18節、パウロは古い「死に至る契約」がそれほどの栄光に満ちていたのであれば、信じる者にいのちを与えるイエスさまを通じた新しい契約は、どれほどの栄光に輝くだろうか、と言います。

パウロは、ユダヤ人が最高の権威を与えて称賛する旧約聖書の英雄であり、律法をモーゼ五書に書き記したモーゼが、主の栄光を隠すために顔を覆ったことを非難気味に書き、さらにモーゼの顔の光が薄れて消え去ることも繰り返し書いています。こういうことをことさらに書くのは、コリントに現れてパウロの権威や資格に疑問を呈するパウロの敵が、旧約聖書の律法を擁護したからではないかと推察できます。

パウロはユダヤ人の心にはモーゼが自分の顔に掛けたのと同じおおいがかかっていて、それによって真実が読み取れなくなっていると言います。そしてこのおおいは自分の力で取ることはできません。この覆いを取り去るのはイエスさまへの信仰だけなのです。イエスさまを旧約聖書に約束された救世主と認め、信じ、崇拝するとき、初めて旧約聖書に隠されていた奥義が読み取れるようになるのです。

第18節、イエスさまに対する信仰によっておおいを取り除かれた人には真実が見えるようになります。そしてイエスさまの栄光を映して、愛と希望と信仰に満ち、人々の中で輝くようになります。クリスチャンはこの光を隠すべきではない、とイエスさまは福音書で教えています。イエスさまは自分を信じる人を少しずつ変えて、イエスさまの姿へと近づけていくのです。






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