コリント人への手紙第1:第3章コリント人への手紙第1:第2章

2015年06月29日

コリント人への手紙第1第2章第1節~第16節:パウロの知恵のことば

コリント人への手紙第1 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Paul’s Message of Wisdom

パウロの知恵のことば


1 When I first came to you, dear brothers and sisters, I didn’t use lofty words and impressive wisdom to tell you God’s secret plan.

1 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、私が最初にあなた方のところへ行ったとき、あなた方に神さまの秘密の計画を伝えるにあたり、私は高尚な言葉や感銘を与えるような知恵を使いませんでした。

2 For I decided that while I was with you I would forget everything except Jesus Christ, the one who was crucified.

2 それは私があなた方と共にいる間、十字架にかけられたイエス・キリスト以外は、すべてを忘れようと決めたからです。

3 I came to you in weakness -- timid and trembling.

3 私があなた方のところへ行ったとき、私は弱く、臆病で震えていました。

4 And my message and my preaching were very plain. Rather than using clever and persuasive speeches, I relied only on the power of the Holy Spirit.

4 そして私のことばと私の伝道は大変平易でした。賢くて説得力のある演説よりも、私は聖霊の力に頼りました。

5 I did this so you would trust not in human wisdom but in the power of God.

5 私がそうしたのは、あなた方が人の知恵ではなく、神さまの力を信じるようにです。

6 Yet when I am among mature believers, I do speak with words of wisdom, but not the kind of wisdom that belongs to this world or to the rulers of this world, who are soon forgotten.

6 しかし成熟した信者たちといるときには、私は知恵のことばを使って話します。しかしそれはこの世や、すぐに忘れられてしまうようなこの世の支配者たちに属するタイプの知恵ではありません。

7 No, the wisdom we speak of is the mystery of God -- his plan that was previously hidden, even though he made it for our ultimate glory before the world began.

7 違います。私たちが語るのは神さまの奥義です。神さまが世が始まる前から私たちの最高の栄光のために用意され、以前は隠されていたものです。

8 But the rulers of this world have not understood it; if they had, they would not have crucified our glorious Lord.

8 しかしこの世の支配者たちはそれを理解しませんでした。もし彼らが理解していたら、私たちの栄光の主を十字架にかけなかったでしょう。

9 That is what the Scriptures mean when they say, “No eye has seen, no ear has heard, and no mind has imagined what God has prepared for those who love him.”

9 それこそが聖書が次のように言うときに意図していることなのです。「どんな目も見たことのない、どんな耳も聞いたことがない、どんな心も想像したことがないもの。神さまが神さまを愛する者のために用意してくださったもの。」

10 But it was to us that God revealed these things by his Spirit. For his Spirit searches out everything and shows us God’s deep secrets.

10 しかし神さまは霊を通じて私たちにそれを明かされたのです。なぜなら神さまの霊はすべてを探り、神さまの深い秘密を示すからです。

11 No one can know a person’s thoughts except that person’s own spirit, and no one can know God’s thoughts except God’s own Spirit.

11 誰も人の考えを知ることはできません。その人自身の霊のほかには。そして誰も神さま考えを知ることはできません。神さま自身の霊を除いては。

12 And we have received God’s Spirit (not the world’s spirit), so we can know the wonderful things God has freely given us.

12 そして私たちは神さまの霊を受けたのです(この世の霊ではありません)。それで私たちは神さまが惜しげもなく私たちにくださった素晴らしいものを知ることができるのです。

13 When we tell you these things, we do not use words that come from human wisdom. Instead, we speak words given to us by the Spirit, using the Spirit’s words to explain spiritual truths.

13 私たちがあなた方にこの贈り物について話すとき、私たちは人の知恵から来ることばは使いません。代わりに私たちは霊によって与えられたことばを話します。霊のことばをつかって霊の真実を説明するのです。

14 But people who aren’t spiritual can’t receive these truths from God’s Spirit. It all sounds foolish to them and they can’t understand it, for only those who are spiritual can understand what the Spirit means.

14 ですが霊的でない人は神さまの霊からの真実を受け取ることができません。彼らにはそれはすべて馬鹿げたことに響き、彼らはそれを理解できません。霊的である者だけが霊が意味することを理解できるのです。

15 Those who are spiritual can evaluate all things, but they themselves cannot be evaluated by others.

15 霊的である者はすべてのものを評価できます。しかし霊的である者自身は他者から評価されることはありません。

16 For, “Who can know the Lord’s thoughts? Who knows enough to teach him?” But we understand these things, for we have the mind of Christ.

16 それは「誰が主の考えをしることができるのか。誰が主に教えられるほど知っているのか。」 しかし私たちはこれらのことがわかります。それは私たちがキリストの心を持っているからです。




ミニミニ解説

「1 Corinthians(コリント人への手紙第1) 」の第2章です。

パウロは二回目の伝道旅行で一年半に渡ってコリントに滞在し、ユダヤ人と異邦人に福音を伝えました。パウロがコリントを去った後、コリントの教会では様々な問題が発生しました。 三回目の伝道旅行の途上でパウロがエペソに滞在していると聞きつけたコリントの教会は、ステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぐことにしました。これはパウロがコリントの教会へ宛てた指導の手紙です。

第1章の前半はコリントの教会が、パウロ派、アポロ派、ペテロ派、イエス派の派閥に分裂していることを書き、後半では神さまがわざわざ賢くない者、権力のない者、富を持たない者を選んで神さまの信者にしたと書かれていました。それは終わりの日に賢い者、権力を持つ者、富を持つ者が恥ずかしい思いをするように、そしてクリスチャンが神さまの前に立つとき、誰も自分を誇ることのないようにとのことです。

第2章は「人の知恵」と「神さまの知恵」が対比されて書かれています。

第1節、パウロが二回目の伝道旅行でコリントに滞在したとき、パウロは「高尚な言葉や感銘を与えるような知恵」は使わなかったのです。これが「人の知恵」、つまり人が自分のメッセージに説得力を持たせようとして働かせる知恵です。

第2節、パウロがどうして「人の知恵」を用いなかったのか。それはパウロは「十字架にかけられたイエス・キリスト」だけを伝えようと決め、これ以外のことに価値を見いださなかったからです。

第3節、パウロがコリントに滞在したとき、パウロは「弱く、臆病で震えていた」と書かれています。これは意外な記述です。パウロと言えばあらゆる迫害に立ち向かい、力強くメッセージを伝道してきた人という印象があるからです。 新約聖書の「Acts(使徒の働き)」を読むと、コリントに到達する前、ギリシヤに入ったパウロは最初にピリピの町でシラスと共に逮捕されると棒で打たれた上に投獄され、次のテサロニケでは暴動が起こり、それを逃れてベレヤへ行くとテサロニケのユダヤ人が追いかけて来ます。これを脱出したパウロははるか南方のアテネまで行っています。 アテネでは哲学者たちを相手に福音を語りますが、何名かの信者は得たものの、人々から嘲笑を受けるなどして教会の形成までには至りませんでした。このような状態でコリントに入ったときのパウロは心身共に疲弊していて、メンタル的にかなりのダメージを受けた状態だったのかも知れません。

第4節、パウロはコリントの人たちに、賢くて説得力のある演説ではなく、聖霊の力に頼り、極力平易なことばで語りました。

第5節、それはなぜか。もしパウロが高尚な言葉などを用いて人々を説得しようとすれば、人々はパウロの知恵をほめたたえる可能性があり、それでは神さまがないがしろにされてしまいます。そして結果として人々が「神さまを信じる」というところに至らないからです。

第6節、どうやらパウロは成熟した信者と話すときには難しい話もするのです。ところがそのときに使う知恵は、世の中一般の知恵とは異なるようです。

第7節、パウロが用いるのは世の中一般の知恵ではなく、神さまの奥義です。ここで私が「奥義」と訳したところに用いられている単語は「mystery」です。英和辞典では「神秘、なぞ、奥義、秘法、秘訣」などと書かれています([新英和中辞典])。「奥義」は「おくぎ=それを会得すれば、その技芸・武術などをきわめ尽くしたとされる、大事な秘密。おうぎ。」([新明解国語辞典])です。 神さまの奥義、神さまの大事な秘密とは、神さまのされる不思議なわざのことですが、究極的には第2節でパウロがこれ以外は伝えまいと決めた「十字架にかけられたイエス・キリスト」に他なりません。

第8節、このイエスさまの十字架の意味について、この世の支配者たちは理解できません。

第9節、パウロはそれが聖書の意図どおりだと言い、聖書から「どんな目も見たことのない、どんな耳も聞いたことがない、どんな心も想像したことがないもの。神さまが神さまを愛する者のために用意してくださったもの。」と引用しますが、これはIsaiah 64:1-4(イザヤ書第64章第1節~第2節)からの引用と思われます。

「1 ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。2 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。3 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」([新改訳])。

第10節、イエスさまの十字架の意味を、神さまは聖霊を通じて私たちクリスチャンに明かされました。ここには聖霊の仕事として「すべてを探り、神さまの深い秘密を示す」と書かれています。

第11節、まずパウロは「誰も人の考えを知ることはできません。その人自身の霊のほかには」と言います。 これは私たちの中には私たち自身も知ることのできない、自分の正体、深層心理のような部分があることを言い、それのすべてを知っている「自分自身の霊」が存在する、ということでしょうか。 そしてパウロは同じように「誰も神さま考えを知ることはできません。神さま自身の霊を除いては」と言います。これによると三位一体の中のひとつの相をなす聖霊は、「すべてを探り、神さまの深い秘密を示す」存在であり、神さまの正体、神さまの深層を知る方なのです。

第12節、クリスチャンの一人ひとりは神さまからこの聖霊を受けた存在ですから、自分の中にいる聖霊を通じて、神さまが私たちのために用意してくださったものの真実を知ることができるのです。

第13節、神さまからの贈り物、イエスさまに関する福音を語るとき、このときには人の知恵は使えないのです。霊のことを語るときには霊から力を得なければなりません。

第14節、パウロはクリスチャンが霊の力を借りて語るメッセージは「霊的である者」にしか伝わらない、と言います。 福音のメッセージを聞くとき、それが馬鹿げたものだと思わず、そこに何かを感じる人、その人が「霊的な者」です。

第15節、パウロは「霊的である者はすべてのものを評価できます」と言います。これは聖霊の力を受けている人は、全知全能の神さまの助けを得ているのですから、この世のあらゆる事柄を評価し判断できるのです。 一方で「霊的である者自身は他者から評価されることはありません」と言うのは、聖霊の力を受けている人がどれほどの力を得ているのか、それを評価し判断することは不可能、と言うことでしょう。

第16節、その理由は旧約聖書に書かれています。Isaiah 40:12-17(イザヤ書第40章第12節~第17節)を引用します。

「12 だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。13 だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。14 主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。15 見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。16 レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。17 すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」([新改訳])。

神さまにとっては国々さえ水の一滴、量りの上のゴミくずなのです。人間が神さまの力を推し量ることなどできません。 しかしクリスチャンが福音について理解できるのは、クリスチャンが聖霊を受け、それによってイエスさまの心を共有しているからなのです。

第2章を読んで考えさせられました。福音を知るクリスチャンが、誰かクリスチャンでない人に福音を伝えるときのことです。 教会で福音のメッセージを聞き、あるいはどこかで福音のメッセージを読み、その意味が深く心に響いたとしましょう。どこかに場所を移して、誰か他の人、クリスチャンでない人に同じメッセージを伝えようとすると、なんだか空虚に響いてしまう、自分が感じた感動や熱狂を伝えようと熱く語れば語るほど、なんだか薄っぺらく響いてしまう、そんな経験をしたことが何度もあります。これはきっと自分が「人の知恵」で語っているからなのでしょう。福音は霊的な話なのですから、聖霊の力を借りて伝えなければいけないのです。そしてそうやって伝える福音も、どうやら神さまから呼ばれた「霊的な人」にしか伝わらないのです。 しかし私たちにはどの人が「霊的な人」か、それを知る術はありません。なので福音を伝え続けることは大切なのです。






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