2015年05月10日
ピリピ人への手紙第3章第1節~第21節:キリストを知ることの計り知れない価値、ゴールへ押し寄せる
ピリピ人への手紙 第3章
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)
The Priceless Value of Knowing Christ
キリストを知ることの計り知れない価値
1 Whatever happens, my dear brothers and sisters, rejoice in the Lord. I never get tired of telling you these things, and I do it to safeguard your faith.
1 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、何があっても主にあって喜びなさい。私はあなた方にこれを伝えることに飽きることはありません。そして私はこれをあなた方の信仰を守るために行うのです。
2 Watch out for those dogs, those people who do evil, those mutilators who say you must be circumcised to be saved.
2 犬たちに気をつけなさい。邪悪を行う人たちに気をつけなさい。救われるには割礼が必要と言う切断者たちに気をつけなさい。
3 For we who worship by the Spirit of God are the ones who are truly circumcised. We rely on what Christ Jesus has done for us. We put no confidence in human effort,
3 神さまの霊によって礼拝する我々こそが真に割礼を受けている者なのです。私たちはイエス・キリストが私たちのために成したことに頼っています。私たちは人的な努力には信頼を置きません。
4 though I could have confidence in my own effort if anyone could. Indeed, if others have reason for confidence in their own efforts, I have even more!
4 ただし、もし誰かが人的な努力に信頼を置くのなら、私は自分自身の努力に置きます。本当のところ、もし他の人たちが自分の努力に信頼を置く理由があるとしたら、私にはもっとあります。
5 I was circumcised when I was eight days old. I am a pure-blooded citizen of Israel and a member of the tribe of Benjamin -- a real Hebrew if there ever was one! I was a member of the Pharisees, who demand the strictest obedience to the Jewish law.
5 私は生後八日に割礼を受けました。私は純血のイスラエル市民であり、ベニヤミン族のひとりです。本当のヘブル人と言うのがあるとしたら、それです。私はユダヤ律法への最も厳格な服従を求めるファリサイ派の一員でした。
6 I was so zealous that I harshly persecuted the church. And as for righteousness, I obeyed the law without fault.
6 私は熱心のあまり、厳しく教会を迫害しました。正しさの面では、私は落ち度なく律法を守りました。
7 I once thought these things were valuable, but now I consider them worthless because of what Christ has done.
7 私は以前はこういうことに価値があると考えましたが、キリストが成したことによって、いまは無益だと思っています。
8 Yes, everything else is worthless when compared with the infinite value of knowing Christ Jesus my Lord. For his sake I have discarded everything else, counting it all as garbage, so that I could gain Christ
8 そうです。私の主、イエス・キリストを知ることの莫大な価値と比べれば、他のすべてに価値はありません。イエスさまのために私は他のすべてをゴミとみなして捨てました。それは私がキリストを得て、
9 and become one with him. I no longer count on my own righteousness through obeying the law; rather, I become righteous through faith in Christ. For God’s way of making us right with himself depends on faith.
9 キリストとひとつになるためです。私はもはや律法に従うことによる自分自身の正しさに頼ることはありません。それよりもキリストへの信仰を通じて私は正しくなるのです。なぜなら私たちを神さまに対して正しくする神さまの方法は信仰に依存しているからです。
10 I want to know Christ and experience the mighty power that raised him from the dead. I want to suffer with him, sharing in his death,
10 私はキリストを知り、キリストを死者から復活させた強大な力を経験したいと思っています。私はキリストの死を分かち合い、キリストと共に苦しみたいと思っています。
11 so that one way or another I will experience the resurrection from the dead!
11 そうやって何とかして死者からの復活を経験したいのです。
Pressing toward the Goal
ゴールへ押し寄せる
12 I don’t mean to say that I have already achieved these things or that I have already reached perfection. But I press on to possess that perfection for which Christ Jesus first possessed me.
12 私はこれらのことを既に達成したとか、私がすでに完全に到達したと言おうと言うのではありません。しかし私は、イエス・キリストがそのために最初に私を得てくださった、その完全を獲得するために進みます。
13 No, dear brothers and sisters, I have not achieved it, but I focus on this one thing: Forgetting the past and looking forward to what lies ahead,
13 違うのです、親愛なる兄弟たち、姉妹たち、私はまだ達成していないのです。しかし私はこのひとつのことに集中します。過去を忘れて前にあるものを見つめます。
14 I press on to reach the end of the race and receive the heavenly prize for which God, through Christ Jesus, is calling us.
14 私は競走の終わりに到達するために進み、神さまがイエス・キリストを通じて私たちを呼ぶ目的である天国の賞を受けるために進みます。
15 Let all who are spiritually mature agree on these things. If you disagree on some point, I believe God will make it plain to you.
15 霊的に成熟した人はみな、このことに合意しましょう。もし、あなた方がどこかで意見が合わないなら、私は神さまがそれをあなた方に明らかにしてくれると信じます。
16 But we must hold on to the progress we have already made.
16 しかし私たちはすでに達成した前進を手放さずにおかねばなりません。
17 Dear brothers and sisters, pattern your lives after mine, and learn from those who follow our example.
17 親愛なる兄弟たち、姉妹たち、私の生き方を手本にしてください。そして私たちの例をたどる人たちから学びなさい。
18 For I have told you often before, and I say it again with tears in my eyes, that there are many whose conduct shows they are really enemies of the cross of Christ.
18 というのは私が以前しばしばあなた方に言ったように、そして目に涙をためてもう一度言いますが、本当にキリストの十字架の敵であることを、その行いが示す人たちがたくさんいるのです。
19 They are headed for destruction. Their god is their appetite, they brag about shameful things, and they think only about this life here on earth.
19 彼らは滅びに向かっています。彼らの神は欲望であり、恥ずべきことを自慢します。そして彼らはこの地上での人生だけを考えています。
20 But we are citizens of heaven, where the Lord Jesus Christ lives. And we are eagerly waiting for him to return as our Savior.
20 しかし私たちは主イエス・キリストの住む天国の市民です。そして私たちはキリストが、私たちの救世主として戻ることを心待ちにしています。
21 He will take our weak mortal bodies and change them into glorious bodies like his own, using the same power with which he will bring everything under his control.
21 キリストは私たちの弱く死にゆく身体を取り、すべてを自分の支配下に置くのと同じ力を使って、キリスト自身のような、栄光ある身体へと変えてくださいます。
ミニミニ解説
「Philippians(ピリピ人への手紙)」の第3章です。
この章だけはピリピの教会へ宛てた別のタイミングの手紙がここに編入されているのではないか、と考えられているようです。この章に入ると唐突に内容が警告に変わりますし、言葉からも感情の高ぶりが感じられます。
第2節、パウロは「犬たちに気をつけなさい」と言って、「邪悪を行う人たち」と「救われるには割礼が必要と言う切断者たち」について警告します。「犬」と言う言葉は、ユダヤ人が異邦人を忌み嫌って呼ぶときに使われていましたが、パウロはここで福音の伝道に於いて自分たちの敵となる人を「犬たち」と呼んでいます。
二つ目の「救われるには割礼が必要と言う切断者たち」は、他の手紙にも登場した割礼派(ユダヤ主義者)のことと思われます。この人たちは人がクリスチャンになる前提として、まずその人はユダヤ人になる必要があると主張し、異邦人がユダヤ人になるには旧約聖書の律法が定める割礼の儀式が必要なので、クリスチャンも割礼をするべきと主張しました。
パウロは福音とは、イエスさまが流した尊い血によって実現した神さまから人に宛てた無償の贈り物であるからこそ福音、すなわち良い知らせなのであって、どんな小さなものでも福音に条件が付くことを拒み、それを主張する人たちと戦い続けました。どうやらピリピにも異なる福音を説くパウロの敵、福音の敵が現れていたようです。
「割礼」は旧約聖書のGenesis 17:9-14(創世記第17章第9節~第14節)に、神さまがアブラハムと交わした約束として書かれています。
「9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」([新改訳])。
第3節、割礼は男性性器の包皮を取り除く外科手術的な儀式なのですが、パウロは割礼についてここで「神さまの霊によって礼拝する我々こそが真に割礼を受けている者なのです」と言っています。
たとえば旧約聖書でも、Jeremiah 9:25-26(エレミヤ書第9章第25節~第26節)を見ると「25 見よ。その日が来る。--主の御告げ-- その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」([新改訳])と書いてあります。
つまり割礼という自分の身体に外科手術的な儀式を受けたユダヤ人についても、ここでは「心に割礼を受けていない」、つまり心では神さまを信じていない人たちとして有罪が宣告されているのです。パウロは自分たちは割礼という外科的な儀式ではなく、イエスさまが自分たちのために成就したことに頼っていて、人的な努力は信頼しないと言います。そういう信仰を持つ人こそが、真に心に割礼を受けた人だとパウロは言うのです。
第4節~第6節、もし誰かが人的な努力を自慢すると言うのなら、パウロはそれについても誰にも負けないと言います。パウロは自分が生後八日に割礼を受けたとありますが、これは上で引用した創世記に書かれた律法に沿って、ユダヤ人として生まれて八日目に律法に沿って割礼を受けているという意味です。パウロは両親がユダヤ人の純血のユダヤ人、イスラエル市民であり、十二氏族の中のベニヤミン族に所属します。割礼派がユダヤ人であることに重きを置くのなら、自分こそが真のヘブル人だと言います。
さらに割礼派が重視する律法への服従という点では、パウロはユダヤ人の尊敬を集める最も厳格なファリサイ派の一員でした。ガマリエルというエルサレムで一、二を争う律法学者を師として長期にわたるマンツーマンの厳しい教育課程を経て、自分も律法の教師となったのです。さらにパウロは律法への服従の熱心のあまり、クリスチャンを誰よりも憎み、ファリサイ派の急先鋒となって次々と教会を襲い、信者を迫害して回りました。パウロは律法遵守に関しては、人的な努力の面でも誰にも負けない経歴の持ち主だったのです。
第7節~第8節、しかしパウロは自分が何よりも優先させ、あらゆるエネルギーを注いで達成した律法の遵守も、イエスさまが成就したこと、イエスさまを知ることに比べれば無価値でゴミだと言い、これらをすべて捨てたと言います。
パウロがこれを言い切れるのは、パウロ自身がイエスさまに会ったからに他なりません。パウロは次に襲う教会を目指してシリアのダマスコに向かう途中で自分が迫害するイエスさま本人に会い、自分の人生の180度の方向転換を余儀なくされたのです。パウロはそのときにどうして自分が純血のユダヤ人として生まれ、最高の律法教育を受けて聖書の端から端までを誰よりも深く理解し、それを愛し、それに最高の意味と価値を与えて、律法に反対する者を迫害までしてきたのか、その意味を知ったのです。
第9節、それは自分がイエスさまに会い、身体に聖霊を受けてイエスさまとひとつになるためでした。パウロは世界の誰よりも人の努力で律法に従おうとすることの無意味さ、不可能さを正しく理解しました。そして誰よりも正しく預言書に秘められていた聖書の奥義の意味を理解しました。だからパウロはもはや律法に従うことで神さまに対して正しくなろうと考えることはありません。イエスさまへの信仰を通じて以外の道で自分が神さまに対して正しくなることはないと知っているからです。
第10節~第11節、パウロは死者の中から復活したイエスさまに会い、イエスさまを復活させた神さまの強大な力を自分も経験したいと思っています。イエスさまの福音を伝えるためであれば、自分はイエスさまと同じ死を分かち合い、イエスさまと共に苦しみたいと考えています。そうやって自分が迎える死者からの復活に、イエスさまの復活と同じような意味づけをしたいのです。
第12節でパウロが取り上げている「perfection(完全)」と言う言葉は、やはりパウロとは異なる福音を説くパウロの敵の一派による主張と関連していると思います。この後キリスト教には自身の内面の探求による悟りとか、霊的な完成を目指す思想が入り込み、そのような派閥ではイエスさまの十字架が軽視されていきます。そのような派閥は後にキリスト教から正式に「異端」として区別されるようになりますが、そのような派閥の兆しとなる人たちが、すでに活動を始めていたのでしょう。パウロは自分がそのような完全を得ていると主張するつもりはない、と言います。
第12節~第14節、パウロが守り、私たちが信じるキリスト教では、イエスさまが救世主であると自分の口で告白することで、神さまが最初に信者を自分の子として獲得してくださいます。これで自分が天国に行くことは約束されます。全知全能で宇宙の創造者であり支配者である神さまが、私たちをがっちりとつかまえるのですから、それを覆すことができる力は世の中には存在しません。
ところがそれですべてが終わりということではないのです。私たちは福音を受け入れるにあたって自分の罪を自覚します。どれほど自分が神さまをガッカリさせ、悲しませてきたかを知り、深く反省します。そして可能な限り、自分は神さまの目の中に正しく映りたい、そういう人になりたいと願い、信仰の生活をスタートします。
このプロセスは、私たちが人として地上に生きる以上、決して完成に至ることはありません。どこまで行っても私たちが神さまの目に完璧と映ることなどあり得ないのです。しかしクリスチャンはこのひとつのことに集中します。そして過去の自分の過ちにこだわることよりも、自分が最終的に到達する天を見て、神さまをそしてイエスさまを見て、神さまが自分をどう見るか、神さまの視点を意識して進みます。
第15節、クリスチャンとしての生き方に疑問や不安を抱きながら進む人はたくさんいます。パウロの言う「成熟したクリスチャン」となり、聖書に書かれていることを正しく適切に理解できるようになるには長い時間が掛かります。聖書に関する疑問や、クリスチャンとしての人生の不安は、プロセスの中で、どこかの時点で神さまが必ず明らかにして教えてくれます。またそのように信じます。
第17節、一切の妥協なくクリスチャンの道を進むパウロは私たちの手本です。パウロは「私の生き方を手本にしてください。そして私たちの例をたどる人たちから学びなさい」と言います。
第18節~第19節は、クリスチャンの敵に対する警告です。「彼らは滅びに向かっています」と言うのは天国には入れない、という意味です。敵は欲望で自分たちの心を満たし、自慢はどこまでも世俗的です。敵は地上での人生だけを考えていて、自分の死の先に待っているものを意識することがありません。
第20節~第21節、未熟でも成熟していても、イエスさまを救世主として受け入れた人は全員がイエスさまの住む天国の市民なのです。そしてクリスチャンはイエスさまの再来を心待ちにしています。イエスさまが再来される日は、クリスチャンの肉体がイエスさまのような栄光の身体へと生まれ変わる日です。
ピリピ人への手紙第4章第1節~第23節:励ましの言葉、贈り物へのパウロの感謝、パウロの最後のあいさつ
ピリピ人への手紙 第4章
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)
1 Therefore, my dear brothers and sisters, stay true to the Lord. I love you and long to see you, dear friends, for you are my joy and the crown I receive for my work.
1 だから私の親愛なる兄弟たち、姉妹たち、主に誠実でありなさい。私はあなた方を愛し、あなた方に会いたいと望みます。親愛なる、友よ、それはあなた方が私の喜びであり、私の仕事によって受け取る王冠だからです。
Words of Encouragement
励ましの言葉
2 Now I appeal to Euodia and Syntyche. Please, because you belong to the Lord, settle your disagreement.
2 さてユウオデヤとスントケにお願いします。あなた方は主に属するのですから、どうかあなた方の不和を解決してください。
3 And I ask you, my true partner, to help these two women, for they worked hard with me in telling others the Good News. They worked along with Clement and the rest of my co-workers, whose names are written in the Book of Life.
3 そして私の真の協力者たち、この二人の女性を助けるようにお願いします。二人は良い知らせを人々に知らせるのに私と一緒に一生懸命働いたのです。二人は、いのちの書に名前が書かれているクレメンスや残りの協力者たちと一緒に働いたのです。
4 Always be full of joy in the Lord. I say it again -- rejoice!
4 主にあっていつも喜びに満たされなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5 Let everyone see that you are considerate in all you do. Remember, the Lord is coming soon.
5 あなた方のすることすべてにおいて、あなた方に思いやりがあることをすべての人に示しなさい。覚えておきなさい。主はすぐに来ます。
6 Don’t worry about anything; instead, pray about everything. Tell God what you need, and thank him for all he has done.
6 何も心配してはいけません。代わりにすべてについて祈りなさい。神さまにあなた方が必要なものを言いなさい。そして神さまがしたことすべてに感謝しなさい。
7 Then you will experience God’s peace, which exceeds anything we can understand. His peace will guard your hearts and minds as you live in Christ Jesus.
7 そうすればあなた方は私たちの理解できるものすべてを超越する神さまの平安を経験します。あなた方がイエス・キリストと歩めば、神さまの平安があなた方の心と気持ちを守ってくれます。
8 And now, dear brothers and sisters, one final thing. Fix your thoughts on what is true, and honorable, and right, and pure, and lovely, and admirable. Think about things that are excellent and worthy of praise.
8 そして親愛なる兄弟たち、姉妹たち、最後にひとつ。あなた方の考えを真実であり、栄誉があり、正しくて、清く、素晴らしく、立派なことに向けなさい。優秀で賞賛に値することを考えなさい。
9 Keep putting into practice all you learned and received from me -- everything you heard from me and saw me doing. Then the God of peace will be with you.
9 私から学び、受けとったこと、私から聞き、私がするのを見たことを実行に移し続けなさい。そうすれば平安の神さまがあなた方とともにいてくださいます。
Paul’s Thanks for Their Gifts
贈り物へのパウロの感謝
10 How I praise the Lord that you are concerned about me again. I know you have always been concerned for me, but you didn’t have the chance to help me.
10 あなた方が再び私のことを心配してくれて私はどれほど主を褒め称えることでしょうか。私はあなた方がいつも私を心配してくれていると知っていますが、あなた方には私を助ける機会がありませんでした。
11 Not that I was ever in need, for I have learned how to be content with whatever I have.
11 私が困窮していたと言うのではありません。私は持っているもので満足する方法を学びましたから。
12 I know how to live on almost nothing or with everything. I have learned the secret of living in every situation, whether it is with a full stomach or empty, with plenty or little.
12 私はほとんど何もなくても、あるいはすべてを持っていても、生きる術を知っています。私はあらゆる状況下で生きる秘密を学んだのです。お腹が満たされていても空っぽでも、富んでいても貧しくても。
13 For I can do everything through Christ, who gives me strength.
13 なぜなら私は私に強さをくださるキリストを通じてどんなことでもできるのです。
14 Even so, you have done well to share with me in my present difficulty.
14 それでもあなた方は私の現在の困難をよく分け合ってくれました。
15 As you know, you Philippians were the only ones who gave me financial help when I first brought you the Good News and then traveled on from Macedonia. No other church did this.
15 あなた方も知っているとおり、あなた方ピリピの人たちは、私が最初に良い知らせをもたらし、それからマケドニヤから離れたときに、私に金銭上の支援をくれたのはあなた方だけなのです。
16 Even when I was in Thessalonica you sent help more than once.
16 私がテサロニケにいたときでさえ、あなた方が支援を送ってくれたのは一度ではありません。
17 I don’t say this because I want a gift from you. Rather, I want you to receive a reward for your kindness.
17 私は贈り物が欲しいのでこれを言っているのではありません。それよりも私はあなた方にその親切に対する報酬を受け取って欲しいのです。
18 At the moment I have all I need -- and more! I am generously supplied with the gifts you sent me with Epaphroditus. They are a sweet-smelling sacrifice that is acceptable and pleasing to God.
18 いま私は必要なものはすべて、それ以上に持っています。エパフロデトに預けてあなた方が私に送ってくれた贈り物で私は豊富に受け取っています。それは神さまが受け入れ、そして神さまに喜ばれる香りの良い捧げ物です。
19 And this same God who takes care of me will supply all your needs from his glorious riches, which have been given to us in Christ Jesus.
19 そして私を大切にしてくださるのと同じ神さまは、イエス・キリストのもとに私たちに与えられた栄光の富の中から、あなた方の必要を満たしてくださいます。
20 Now all glory to God our Father forever and ever! Amen.
20 私たちの父なる神さまに永遠にすべての栄光がありますように。アーメン。
Paul’s Final Greetings
パウロの最後のあいさつ
21 Give my greetings to each of God’s holy people -- all who belong to Christ Jesus. The brothers who are with me send you their greetings.
21 神さまの神聖なる人たちひとりひとり、イエス・キリストに属するすべての人たちに私のあいさつを伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなた方にあいさつを送ります。
22 And all the rest of God’s people send you greetings, too, especially those in Caesar’s household.
22 そして他の神さまの人々全員、特にカイザルの家の人々もあなた方にあいさつを送ります。
23 May the grace of the Lord Jesus Christ be with your spirit.
23 どうか主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊と共にありますように。
ミニミニ解説
「Philippians(ピリピ人への手紙)」の第4章です。
この章では第2節に、ユウオデヤとスントケという二人の女性が登場します。どうやらユウオデヤとスントケという二人の女性は何かを争って不仲になっているようで、パウロは関係を修復するように、周囲もそれを助けるように書き送ります。
第1章の最初にパウロの最初のピリピ滞在時の様子を「Acts(使徒の働き)」から読みましたが、その中にはピリピの女性たちのことが書かれていました。Acts 16:13-15(使徒の働き第16章第13節~第15節)です。
「13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けた。」([新改訳])。
このように初期の教会には多くの女性たちが参加していました。聖書は2000年も昔の書物でありながら、この時点から男女を対等に描く点がたいへん画期的であると言われます。
第3節に「いのちの書に名前が書かれているクレメンス」とありますが、これはこのクレメンスという人だけが、「いのちの書」に名前が書かれていると言う意味ではなく、「同じ信者のクレメンス」、「同じクリスチャンのクレメンス」という意味で書かれているのだと思います。
「いのちの書」は聖書の中で何カ所かに登場しています。天国には天国に入ることが約束された人の名前が書かれる場所があるようです。たとえばLuke 10:18-20(ルカの福音書第10章第18節~第20節)は戻ってきた弟子たちにイエスさまがかけた言葉です。「18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」」([新改訳])。
イエスさまはイエスさまから授けられた権威によって自分が地上で発揮できる能力のことよりも、自分の名前が「いのちの書」に書かれていること、つまり自分が天国に行けることを喜びなさい、と言っています。自分の能力を喜ぶのはあくまでも地上での世俗的なこと、自分が天国に行けるのは永遠へとつながる約束だからです。
第4節からは、パウロからピリピの教会へ向けた励ましの言葉が続きます。私たちもそのまま受け取りましょう。
第4節、「主にあっていつも喜びに満たされなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 クリスチャンは悲しんだり、悩んだりしてはいけないのです。いつも喜ぶことが求められています。
第5節、「あなた方のすることすべてにおいて、あなた方に思いやりがあることをすべての人に示しなさい。」 クリスチャンはあらゆることについて人を思いやり、それを示さなければなりません。神さまを全身全霊で愛することと、他者を自分のように愛すること、この二つが聖書全体の要約であるとイエスさまも言っています。
第6節、「何も心配してはいけません。代わりにすべてについて祈りなさい。神さまにあなた方が必要なものを言いなさい。そして神さまがしたことすべてに感謝しなさい。」 クリスチャンは何も心配してはいけないのです。代わりにすべてを神さまに祈ります。お祈りの中で自分が必要なものを神さまに言います。すべての祈りは神さまにかぐわしい香りとなって届き、神さまはすべての祈りに応えています。
神さまは全知全能であり、つまり何もかもを知り尽くし、何でもできる能力を有していて、過去から未来まで、時間を超越して永遠を生きる方です。その神さまが、私たちひとりひとりの小さな祈りにどのように応えるのがもっとも適切であるか、それを考えて実行に移してくださいます。しかし神さまの解答は、私たちのような小さな者にはあまりにも深遠すぎてわかりません。ただ私たちの祈りはすべてが神さまに届き、すべての祈りが神さまによって応えられています。ときに私たちは「これが神さまの解答だ!そうに違いない!」と気づくことがあります。そのときには大喜びする前に、まず神さまに感謝することを忘れてはいけません。そしてもし自分のすべての祈りが神さまによって応えられているのであれば、私たちはその解答が理解できてもできなくても、関知できてもできなくても、神さまに感謝し、私たちを愛してくださる神さまを賛美するべきです。
第7節、いつも喜び、他者に思いやりを示し、心配せず、神さまに祈り、感謝を忘れなければ、私たちは自分たちの理解を超越する「神さまの平安」、何とも言えない心の平和を経験します。私たちがイエスさまと歩めば、神さまの平安が私たちの心と気持ちを守ってくださいます。何という、心強い励ましなのでしょうか。
第10節からは贈り物に対するパウロの謝辞です。パウロは他の手紙を読むと、福音を伝える土地では金銭的な支援はいっさい受け取らず、ときには自分で働いて収入を得ながら伝道の活動をしています。
しかし第15節~第16節を読むと、「あなた方ピリピの人たちは、私が最初に良い知らせをもたらし、それからマケドニヤから離れたときに、私に金銭上の支援をくれたのはあなた方だけなのです。私がテサロニケにいたときでさえ、あなた方が支援を送ってくれたのは一度ではありません。」と書かれていて、パウロはピリピの教会からは金銭的な支援を得ていたことを明かしています。
第2章にピリピから投獄の地のエペソまで来た使者のエパフロデトのことが書かれていました。エペソで大病を患いますが、奇跡的な回復をとげた人です。パウロはエパフロデトについて「エパフロデトは私が必要としていたときに助けてくれたあなた方の使者でした。」と書いています。エパフロデトはこのときも、ピリピから金銭的な支援をパウロに届けるべく、ピリピからエペソへ来たのだと想像できます。
第10節、パウロは「私はあなた方がいつも私を心配してくれていると知っていますが、あなた方には私を助ける機会がありませんでした。」と書いています。これは第二回目の伝道旅行でパウロがピリピを訪れて後、ピリピの教会はパウロの消息がつかめている間は金銭的な支援を送り続けますが、やがてパウロがどこにいるかがわからなくなると、支援を送ることができなくなりました。これはきっと今回エペソへ来たエパフロデトから聞いたことでしょう。第三回目の伝道旅行でパウロがエペソに滞在していることはピリピにも伝わり、ようやくピリピの教会は支援を再開できたのです。
第11節~第13節、パウロが謝辞を伝えるのは自分が困窮していたからではなく、パウロは「持っているもので満足する方法」を学んだと書かれています。困窮して何もないようなときでも、金銭的に満たされていて必要な物をすべて持っているときでも、パウロはそのときに応じて生きる術を身につけたのです。それは自分の置かれた状況に左右されることなく、いつも喜び、他者に思いやりを示し、心配せず、神さまに祈り、感謝を忘れない生き方ということでしょう。パウロは「私は私に強さをくださるキリストを通じてどんなことでもできる」と言います。
ここで「2 Corinthians (コリント人への手紙第二)」の中に、エルサレムの教会への献金を求める箇所がありましたのでそれを引用しておきます。2 Corinthians 8:1-5(コリント人への手紙第二第8章第1節~第5節)です。
「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」([新改訳])。
ここに書かれている「マケドニヤの諸教会」にピリピの教会は間違いなく含まれています。そしてここには「その極度の貧しさにもかかわらず」と書かれていますから、パウロを金銭的に支援するピリピの教会は、豊かな暮らしの中からそれを行ったのではなく、自分たちは自分たちで貧しいのに、その中から資金をかき集めて惜しみなくパウロへ、またエルサレムの教会へと資金を送り続けたのです。
第14節、パウロは「私の現在の困難をよく分け合ってくれました」とピリピの教会へ感謝を示します。
第21節~第23節はパウロの最後のあいさつです。
これで「Philippians(ピリピ人への手紙)」の終了です。